虚実揺るがすSFアニメの傑作。

何年も前に観たのですけれど、そのときはなんだかよくわからん、とぜんぜんぴんと来なかったのですが、やっぱりこれはある程度のSFに対する構えと、お話についていくぞ!という能動的な態度が必要な作品でありました。これは子供はわからないでしょう。もう女子供をガン無視している感じです。そのぶん、SF好きのハートはわしづかみの一品と言えましょう。
これが公開されたのが1995年の11月で、『エヴァ』のテレビ放映開始が一月前の10月。これらをリアルタイムで受け止めた人たちは、アニメが実写を遙かに凌駕していると強く感じたのではないでしょうか。『エヴァ』とか『攻殻機動隊』を観た者はもはや、「アニメ=オタク向けのあれ」という図式を融解させねばならないし、ましてや「アニメ=オタク=気持ち悪い」などという図式をいまだに保持している人々は、もう言っちゃ悪いけどくるくるぱーです。
「僕にとって、『虚構』は『現実』に比べて、なんら価値の劣るものではない」
これは『スカイ・クロラ』HPに「押井守語録」として掲載されているものですが、実に興味深く、また本作の表現形式それ自体への言及たり得ていると思います。そしてこの発言は、「虚構と現実」を「アニメと実写」にパラフレーズすることでも意味を持ちます。
堅い話になりそうな予感。
まずは『攻殻機動隊』を知らない人に紹介すると、これは士郎正宗による漫画原作がもとで、2029年を舞台としたSFです。極秘裏な任務を遂行する警察組織「公安9課」の活躍が描かれます。舞台の大きな特徴は「電脳化」「義体化」が著しく進んでいる世界であるという点で、サイボーグ、ステルス迷彩、他人の脳へのハッキング等々が多様な見せ方で描かれております。『マトリックス』の元ネタとして有名です。

何も知らない子供が、「なんかSFのアニメだっていうぞ、おもしろそう」と言って観に行ったら、「わけがわからない!」と泣いてしまいそうなお話です。何しろ国家間の外交がどうのとか、やれ亡命だ取引だという話が約80分の中にわんさか出てくることにくわえ、「私が私であるとはどういうことか」という哲学的な議題を、電脳化という技術と織り交ぜて語るものですから、こりゃあ大変です。『エヴァ』はその点、大衆を引きつけるものがあったんですね。難しいことはわからないけれど、使徒っていう怪獣みたいなのが襲ってくるぞとか、綾波やアスカが可愛いぞとか、そういう単純な快楽を用意していた。その辺の親切さはこっちにはないですからね、まあ「知る人ぞ知る」になってしまうでしょう。

軽い話をしておくと、ぼかあこの草薙素子というキャラクターが好きですねえ。最近テレビ版の『STAND ALONE COMPLEX』を観て、そちらのイメージが強いのですが、ぼかあこの手のシビアで強い女性キャラに惚れ惚れします。その点、ジェームズ・キャメロンにシンパシーを感じます(何を言うとんねん)。彼女はぼくの好きな女性キャラベスト3ランキングに食い込み、不動の1位ハマーン・カーンに次ぐ2位に躍り出ました。ちなみに3位は六本木朱美です。男らしい女、が好きなのですね。萌え系には食指が動かないのであります。

本作は公安9課が絡んだ国家機密級の事件を描いたものですが、一方でこの草薙素子の、「私が私であるとは」という懐疑も軸となっています。草薙素子は言ってみれば全身サイボーグで、自分のオリジナルな肉体を持たない。そして電脳化が進んだ社会にあって、自分が自分であること、いわばアイデンティティについても考えを巡らせます。

うーん、今さっきまで、アイデンティティに関する文章を長々書いていたんですけれど、ちょっと話がそれすぎたので削除。ここではひとつ、押井守作品にとって重要であろう発想、「虚構は現実を上回る」という件について絞ってみます。
あらためて考えてみれば、ぼくたちの生活における「虚構率」というのは、相当なものがあると言えましょう。映画、漫画、小説、ゲーム、テレビ、演劇、スポーツ、どれもこれも虚構です。スポーツは虚構じゃない、と言われるなら、「映画と同じ」と申し上げましょう。ある規定されたルールに則り、自分の現実と何の関係もない人々が動き回っているだけです。それは確かに現実に行われていることですが、政治経済のニュースとは異なり、実生活への影響は皆無。だから映画やテレビドラマと同じ位置に置くことができます。
また、ぼくたちは多かれ少なかれ、自分を偽りながら暮らしているものです。仕事先で見せる自分は、その役割をまっとうすべく作り上げた人格。化粧キメキメで暮らす女性なら、それは本当の顔とは異なる飾られた表情。
ぼくたちの生活の「虚構率」は、数値化は難しいですが、下手をすると「現実率」を超えるのではないでしょうか。
それに、虚構が人の人生を左右することだっていくらでもあるでしょう。
ある漫画を読んで自分も漫画家になろうと決めた、なんて人は、虚構が現実の生を決定づけたわけです。
また、現実に身近にいる女性よりも、テレビの向こうのアイドルに惹かれる、あるいはアニメの中のキャラに惹かれる、という人はいくらでもいるわけです。
虚構と現実の天秤については、いろいろなことが語れます。
アニメと実写についても言えることで、実写映画の登場人物は、アニメのキャラクターよりも存在としての純粋性が薄い、ということもできます。
実写に出てくる人物は、たとえば写真だけ切り出したとき、それを演じる役者と区別がつきません。アニメのキャラは永遠にそのキャラクターであり続ける。また、実写の映画の人物は「しょせん」役者と不可分な関係であり、どうしても現実に引っ張られますが、アニメのキャラは声優が変わってもそのキャラで居続けられる。こうなると、現実を映した実写映画より、誰かが書き込んだ虚構に過ぎないアニメのほうが、よほど個別的な存在として成立しているとも言えるのです。だからアニメキャラクターである草薙素子が自分について悩むというのは、実写の人物が「俺はいったい誰なんだ」などと悩むよりも、よほど説得力があるわけです。草薙素子は、それを描く人間によっていくらでも顔を変えられてしまうわけで、これは実に面白いメタ構造をもった苦悩なのです。
話が結局どの方向に転がっていくかわからない、まとまりなき文章が今回も炸裂しているわけですが、要するに言いたいことは、ぼくたちにとって現実とか虚構とかって問題は、実にゆるゆるな境界線しか持っていないよねということです。このゆるゆるな境界線に考えを巡らせることで、ぼくたちの「現実」はやっと輪郭を保てるのだろうね、ということです。

ちなみにこの草薙素子は、『S.A.C』の中で、現実の自己同一性を保つためのアイテムとして、腕時計を所持しています。肉体は変わる。自分も変わっていく。だからこそ、物理的に変わらないアイテムを傍に置く。その道具を時計にしているのがこれまた巧い。
やはり人にとって、自己同一性を担保するものは、記憶しかないのでしょう。そしてその記憶の象徴としてのモノが必要なのです。記憶だけでは、変容してしまう。人の記憶などいくらでも変容する。だから、変わらないモノだけが自己同一性を担保し続ける。柱に刻んだ背丈のしるしが、自分の成長を伝えるように。モノがヒトを担保するこの構図は、『インセプション』において、回り続ける独楽が現実と夢を区別するという設定とも通じているように思います。

現実と虚構、実写とアニメ、ヒトとモノ、この三つは、ゆるやかに連関している。
この辺のことをもっと掘り下げていくと、いろんな話が展開していくわけですが、はあ、ちょっと疲れましたわね。別の映画を観て、また別の切り口から掘り下げてみるのがいいかもしれません。

うーん、考えたいことがあっちこっちに行くので、やっぱりまとまらなかったなあ。もうちょっと文章をまとめることに意識を持っていかないと駄目だなあ。読み返してみたら、なんだか何を言いたいかわからなくなっているもんなあ。そんな課題を痛感しつつ、今日はここまで。
次回は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を取り上げます。

何年も前に観たのですけれど、そのときはなんだかよくわからん、とぜんぜんぴんと来なかったのですが、やっぱりこれはある程度のSFに対する構えと、お話についていくぞ!という能動的な態度が必要な作品でありました。これは子供はわからないでしょう。もう女子供をガン無視している感じです。そのぶん、SF好きのハートはわしづかみの一品と言えましょう。
これが公開されたのが1995年の11月で、『エヴァ』のテレビ放映開始が一月前の10月。これらをリアルタイムで受け止めた人たちは、アニメが実写を遙かに凌駕していると強く感じたのではないでしょうか。『エヴァ』とか『攻殻機動隊』を観た者はもはや、「アニメ=オタク向けのあれ」という図式を融解させねばならないし、ましてや「アニメ=オタク=気持ち悪い」などという図式をいまだに保持している人々は、もう言っちゃ悪いけどくるくるぱーです。
「僕にとって、『虚構』は『現実』に比べて、なんら価値の劣るものではない」
これは『スカイ・クロラ』HPに「押井守語録」として掲載されているものですが、実に興味深く、また本作の表現形式それ自体への言及たり得ていると思います。そしてこの発言は、「虚構と現実」を「アニメと実写」にパラフレーズすることでも意味を持ちます。
堅い話になりそうな予感。
まずは『攻殻機動隊』を知らない人に紹介すると、これは士郎正宗による漫画原作がもとで、2029年を舞台としたSFです。極秘裏な任務を遂行する警察組織「公安9課」の活躍が描かれます。舞台の大きな特徴は「電脳化」「義体化」が著しく進んでいる世界であるという点で、サイボーグ、ステルス迷彩、他人の脳へのハッキング等々が多様な見せ方で描かれております。『マトリックス』の元ネタとして有名です。

何も知らない子供が、「なんかSFのアニメだっていうぞ、おもしろそう」と言って観に行ったら、「わけがわからない!」と泣いてしまいそうなお話です。何しろ国家間の外交がどうのとか、やれ亡命だ取引だという話が約80分の中にわんさか出てくることにくわえ、「私が私であるとはどういうことか」という哲学的な議題を、電脳化という技術と織り交ぜて語るものですから、こりゃあ大変です。『エヴァ』はその点、大衆を引きつけるものがあったんですね。難しいことはわからないけれど、使徒っていう怪獣みたいなのが襲ってくるぞとか、綾波やアスカが可愛いぞとか、そういう単純な快楽を用意していた。その辺の親切さはこっちにはないですからね、まあ「知る人ぞ知る」になってしまうでしょう。

軽い話をしておくと、ぼかあこの草薙素子というキャラクターが好きですねえ。最近テレビ版の『STAND ALONE COMPLEX』を観て、そちらのイメージが強いのですが、ぼかあこの手のシビアで強い女性キャラに惚れ惚れします。その点、ジェームズ・キャメロンにシンパシーを感じます(何を言うとんねん)。彼女はぼくの好きな女性キャラベスト3ランキングに食い込み、不動の1位ハマーン・カーンに次ぐ2位に躍り出ました。ちなみに3位は六本木朱美です。男らしい女、が好きなのですね。萌え系には食指が動かないのであります。

本作は公安9課が絡んだ国家機密級の事件を描いたものですが、一方でこの草薙素子の、「私が私であるとは」という懐疑も軸となっています。草薙素子は言ってみれば全身サイボーグで、自分のオリジナルな肉体を持たない。そして電脳化が進んだ社会にあって、自分が自分であること、いわばアイデンティティについても考えを巡らせます。

うーん、今さっきまで、アイデンティティに関する文章を長々書いていたんですけれど、ちょっと話がそれすぎたので削除。ここではひとつ、押井守作品にとって重要であろう発想、「虚構は現実を上回る」という件について絞ってみます。
あらためて考えてみれば、ぼくたちの生活における「虚構率」というのは、相当なものがあると言えましょう。映画、漫画、小説、ゲーム、テレビ、演劇、スポーツ、どれもこれも虚構です。スポーツは虚構じゃない、と言われるなら、「映画と同じ」と申し上げましょう。ある規定されたルールに則り、自分の現実と何の関係もない人々が動き回っているだけです。それは確かに現実に行われていることですが、政治経済のニュースとは異なり、実生活への影響は皆無。だから映画やテレビドラマと同じ位置に置くことができます。
また、ぼくたちは多かれ少なかれ、自分を偽りながら暮らしているものです。仕事先で見せる自分は、その役割をまっとうすべく作り上げた人格。化粧キメキメで暮らす女性なら、それは本当の顔とは異なる飾られた表情。
ぼくたちの生活の「虚構率」は、数値化は難しいですが、下手をすると「現実率」を超えるのではないでしょうか。
それに、虚構が人の人生を左右することだっていくらでもあるでしょう。
ある漫画を読んで自分も漫画家になろうと決めた、なんて人は、虚構が現実の生を決定づけたわけです。
また、現実に身近にいる女性よりも、テレビの向こうのアイドルに惹かれる、あるいはアニメの中のキャラに惹かれる、という人はいくらでもいるわけです。
虚構と現実の天秤については、いろいろなことが語れます。
アニメと実写についても言えることで、実写映画の登場人物は、アニメのキャラクターよりも存在としての純粋性が薄い、ということもできます。
実写に出てくる人物は、たとえば写真だけ切り出したとき、それを演じる役者と区別がつきません。アニメのキャラは永遠にそのキャラクターであり続ける。また、実写の映画の人物は「しょせん」役者と不可分な関係であり、どうしても現実に引っ張られますが、アニメのキャラは声優が変わってもそのキャラで居続けられる。こうなると、現実を映した実写映画より、誰かが書き込んだ虚構に過ぎないアニメのほうが、よほど個別的な存在として成立しているとも言えるのです。だからアニメキャラクターである草薙素子が自分について悩むというのは、実写の人物が「俺はいったい誰なんだ」などと悩むよりも、よほど説得力があるわけです。草薙素子は、それを描く人間によっていくらでも顔を変えられてしまうわけで、これは実に面白いメタ構造をもった苦悩なのです。
話が結局どの方向に転がっていくかわからない、まとまりなき文章が今回も炸裂しているわけですが、要するに言いたいことは、ぼくたちにとって現実とか虚構とかって問題は、実にゆるゆるな境界線しか持っていないよねということです。このゆるゆるな境界線に考えを巡らせることで、ぼくたちの「現実」はやっと輪郭を保てるのだろうね、ということです。

ちなみにこの草薙素子は、『S.A.C』の中で、現実の自己同一性を保つためのアイテムとして、腕時計を所持しています。肉体は変わる。自分も変わっていく。だからこそ、物理的に変わらないアイテムを傍に置く。その道具を時計にしているのがこれまた巧い。
やはり人にとって、自己同一性を担保するものは、記憶しかないのでしょう。そしてその記憶の象徴としてのモノが必要なのです。記憶だけでは、変容してしまう。人の記憶などいくらでも変容する。だから、変わらないモノだけが自己同一性を担保し続ける。柱に刻んだ背丈のしるしが、自分の成長を伝えるように。モノがヒトを担保するこの構図は、『インセプション』において、回り続ける独楽が現実と夢を区別するという設定とも通じているように思います。

現実と虚構、実写とアニメ、ヒトとモノ、この三つは、ゆるやかに連関している。
この辺のことをもっと掘り下げていくと、いろんな話が展開していくわけですが、はあ、ちょっと疲れましたわね。別の映画を観て、また別の切り口から掘り下げてみるのがいいかもしれません。

うーん、考えたいことがあっちこっちに行くので、やっぱりまとまらなかったなあ。もうちょっと文章をまとめることに意識を持っていかないと駄目だなあ。読み返してみたら、なんだか何を言いたいかわからなくなっているもんなあ。そんな課題を痛感しつつ、今日はここまで。
次回は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を取り上げます。




































































































































































































































































