IE9ピン留め
 虚実揺るがすSFアニメの傑作。

何年も前に観たのですけれど、そのときはなんだかよくわからん、とぜんぜんぴんと来なかったのですが、やっぱりこれはある程度のSFに対する構えと、お話についていくぞ!という能動的な態度が必要な作品でありました。これは子供はわからないでしょう。もう女子供をガン無視している感じです。そのぶん、SF好きのハートはわしづかみの一品と言えましょう。

これが公開されたのが1995年の11月で、『エヴァ』のテレビ放映開始が一月前の10月。これらをリアルタイムで受け止めた人たちは、アニメが実写を遙かに凌駕していると強く感じたのではないでしょうか。『エヴァ』とか『攻殻機動隊』を観た者はもはや、「アニメ=オタク向けのあれ」という図式を融解させねばならないし、ましてや「アニメ=オタク=気持ち悪い」などという図式をいまだに保持している人々は、もう言っちゃ悪いけどくるくるぱーです。

「僕にとって、『虚構』は『現実』に比べて、なんら価値の劣るものではない」
 これは『スカイ・クロラ』HPに「押井守語録」として掲載されているものですが、実に興味深く、また本作の表現形式それ自体への言及たり得ていると思います。そしてこの発言は、「虚構と現実」を「アニメと実写」にパラフレーズすることでも意味を持ちます。

 堅い話になりそうな予感。
 まずは『攻殻機動隊』を知らない人に紹介すると、これは士郎正宗による漫画原作がもとで、2029年を舞台としたSFです。極秘裏な任務を遂行する警察組織「公安9課」の活躍が描かれます。舞台の大きな特徴は「電脳化」「義体化」が著しく進んでいる世界であるという点で、サイボーグ、ステルス迷彩、他人の脳へのハッキング等々が多様な見せ方で描かれております。『マトリックス』の元ネタとして有名です。

 何も知らない子供が、「なんかSFのアニメだっていうぞ、おもしろそう」と言って観に行ったら、「わけがわからない!」と泣いてしまいそうなお話です。何しろ国家間の外交がどうのとか、やれ亡命だ取引だという話が約80分の中にわんさか出てくることにくわえ、「私が私であるとはどういうことか」という哲学的な議題を、電脳化という技術と織り交ぜて語るものですから、こりゃあ大変です。『エヴァ』はその点、大衆を引きつけるものがあったんですね。難しいことはわからないけれど、使徒っていう怪獣みたいなのが襲ってくるぞとか、綾波やアスカが可愛いぞとか、そういう単純な快楽を用意していた。その辺の親切さはこっちにはないですからね、まあ「知る人ぞ知る」になってしまうでしょう。

 軽い話をしておくと、ぼかあこの草薙素子というキャラクターが好きですねえ。最近テレビ版の『STAND ALONE COMPLEX』を観て、そちらのイメージが強いのですが、ぼかあこの手のシビアで強い女性キャラに惚れ惚れします。その点、ジェームズ・キャメロンにシンパシーを感じます(何を言うとんねん)。彼女はぼくの好きな女性キャラベスト3ランキングに食い込み、不動の1位ハマーン・カーンに次ぐ2位に躍り出ました。ちなみに3位は六本木朱美です。男らしい女、が好きなのですね。萌え系には食指が動かないのであります。

 本作は公安9課が絡んだ国家機密級の事件を描いたものですが、一方でこの草薙素子の、「私が私であるとは」という懐疑も軸となっています。草薙素子は言ってみれば全身サイボーグで、自分のオリジナルな肉体を持たない。そして電脳化が進んだ社会にあって、自分が自分であること、いわばアイデンティティについても考えを巡らせます。

うーん、今さっきまで、アイデンティティに関する文章を長々書いていたんですけれど、ちょっと話がそれすぎたので削除。ここではひとつ、押井守作品にとって重要であろう発想、「虚構は現実を上回る」という件について絞ってみます。

あらためて考えてみれば、ぼくたちの生活における「虚構率」というのは、相当なものがあると言えましょう。映画、漫画、小説、ゲーム、テレビ、演劇、スポーツ、どれもこれも虚構です。スポーツは虚構じゃない、と言われるなら、「映画と同じ」と申し上げましょう。ある規定されたルールに則り、自分の現実と何の関係もない人々が動き回っているだけです。それは確かに現実に行われていることですが、政治経済のニュースとは異なり、実生活への影響は皆無。だから映画やテレビドラマと同じ位置に置くことができます。
また、ぼくたちは多かれ少なかれ、自分を偽りながら暮らしているものです。仕事先で見せる自分は、その役割をまっとうすべく作り上げた人格。化粧キメキメで暮らす女性なら、それは本当の顔とは異なる飾られた表情。
 ぼくたちの生活の「虚構率」は、数値化は難しいですが、下手をすると「現実率」を超えるのではないでしょうか。
 それに、虚構が人の人生を左右することだっていくらでもあるでしょう。
 ある漫画を読んで自分も漫画家になろうと決めた、なんて人は、虚構が現実の生を決定づけたわけです。
 また、現実に身近にいる女性よりも、テレビの向こうのアイドルに惹かれる、あるいはアニメの中のキャラに惹かれる、という人はいくらでもいるわけです。
 
 虚構と現実の天秤については、いろいろなことが語れます。
 アニメと実写についても言えることで、実写映画の登場人物は、アニメのキャラクターよりも存在としての純粋性が薄い、ということもできます。
 実写に出てくる人物は、たとえば写真だけ切り出したとき、それを演じる役者と区別がつきません。アニメのキャラは永遠にそのキャラクターであり続ける。また、実写の映画の人物は「しょせん」役者と不可分な関係であり、どうしても現実に引っ張られますが、アニメのキャラは声優が変わってもそのキャラで居続けられる。こうなると、現実を映した実写映画より、誰かが書き込んだ虚構に過ぎないアニメのほうが、よほど個別的な存在として成立しているとも言えるのです。だからアニメキャラクターである草薙素子が自分について悩むというのは、実写の人物が「俺はいったい誰なんだ」などと悩むよりも、よほど説得力があるわけです。草薙素子は、それを描く人間によっていくらでも顔を変えられてしまうわけで、これは実に面白いメタ構造をもった苦悩なのです。

話が結局どの方向に転がっていくかわからない、まとまりなき文章が今回も炸裂しているわけですが、要するに言いたいことは、ぼくたちにとって現実とか虚構とかって問題は、実にゆるゆるな境界線しか持っていないよねということです。このゆるゆるな境界線に考えを巡らせることで、ぼくたちの「現実」はやっと輪郭を保てるのだろうね、ということです。

 ちなみにこの草薙素子は、『S.A.C』の中で、現実の自己同一性を保つためのアイテムとして、腕時計を所持しています。肉体は変わる。自分も変わっていく。だからこそ、物理的に変わらないアイテムを傍に置く。その道具を時計にしているのがこれまた巧い。

やはり人にとって、自己同一性を担保するものは、記憶しかないのでしょう。そしてその記憶の象徴としてのモノが必要なのです。記憶だけでは、変容してしまう。人の記憶などいくらでも変容する。だから、変わらないモノだけが自己同一性を担保し続ける。柱に刻んだ背丈のしるしが、自分の成長を伝えるように。モノがヒトを担保するこの構図は、『インセプション』において、回り続ける独楽が現実と夢を区別するという設定とも通じているように思います。

現実と虚構、実写とアニメ、ヒトとモノ、この三つは、ゆるやかに連関している。
 この辺のことをもっと掘り下げていくと、いろんな話が展開していくわけですが、はあ、ちょっと疲れましたわね。別の映画を観て、また別の切り口から掘り下げてみるのがいいかもしれません。

 うーん、考えたいことがあっちこっちに行くので、やっぱりまとまらなかったなあ。もうちょっと文章をまとめることに意識を持っていかないと駄目だなあ。読み返してみたら、なんだか何を言いたいかわからなくなっているもんなあ。そんな課題を痛感しつつ、今日はここまで。
 次回は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を取り上げます。
 ここ一週間くらいは映画を観ていません。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』にはまっているのです。いやあなかなかに面白いですね。外連味はないんですが、渋さがいいです。SF的想像力をかき立ててくれます。「機械たちの時間」の回がいちばん好きです。

そんなわけで今日も映画レビウはしないのですが、まあ映画ブログであるし、映画の未来について考えてみるのも一興なのではないかねと思い、「なにさま的・映画の未来予測」としゃれこみましょう。

ところで、ぼくの物欲を激しくかき立てるものが昨年発売されました。ソニーから出たヘッドマウントディスプレイです。今でも品薄で手に入れられておらず、ネット上のレビウが羨ましく、いっそのことニューモデルみたいなのが出るまでは「待ち」なんじゃないか、などとも考えているのですが、これは映画館の未来を大きく左右する代物であろうと思います。

 このヘッドマウントディスプレイ(以下、HMD)は視界をすべて覆ってしまうわけですが、これはもう映画館と同じ仕組みではありませんか。しかも当然のように3D仕様ですし、その機能のオンオフ切り替えもできるというじゃああーりませんか。
 さて、なにしろ実物を入手していないので実感をもって語れぬのがあれなのですけれども、この技術がさらに進んでいくと、映画館並の、いやいや、映画館をも遙かに凌駕する大きさのスクリーン環境を、あのディスプレイの中で実現できるかもしれません。今あるシネコン等々のスクリーンがいかに大きかろうと、「しょせん」物理空間で規定された大きさに過ぎない。しかし、HMDが発展すれば、視覚に対して、とてつもなく大きなスクリーンであるように認識させることもできるのではないか、と思うわけです。

もしもそうなったとき、映画館はその空間的優位性を決定的に失います。
暗闇の中で、家にはない大きなスクリーンで映画を観るという、その特権性が食い破られる。
「わざわざ映画館なんていかないよ、だってHMDで観るほうがずっと迫力があるもの」
 そんな言葉が、将来そこかしこで交わされるのではないでしょうか。

仮に、HMDが映画館のスクリーンの迫力を凌駕するときが来たとして、いったいどんな優位性を、映画館は提示できるのか。ぼくには甚だしく疑問です。

 音響が優れている、というかもしれない。でも、それは現時点でも劇場によってまちまちでしょう。家での鑑賞よりもはるかに臨場感の高いサウンドを提供できる劇場など、どれほどあるのでしょう。それに、視覚的に負ける日が来たとして、そのとき音響で人が呼べるのか、難しいと言わざるを得ません。

 映画館でデートをするとか、友達同士で映画を観るとか、そういう文化自体は残るかもしれません。ただ、それも後退戦に過ぎないでしょう。文化は残るかもしれませんが、優位性を示すことはできない。それに、たとえばこういうことが起こったら、その文化自体も危うくなります。

 こういう未来です。
 たとえば、今ある配信限定の音楽のような形で、配信限定(あるいは劇場公開に先駆けて配信を行うなど)の映画が出たときです。プレミアム会員用のニコ生や有料のテレビ番組がイメージとしては近いでしょう。そういうものが出てきたとき、皆がHMDをつけて、ある時刻にみんなで映画を観る。それこそ日本中の人が、同時に新作映画を観る、という状況です。さて、そうなると、ネット上で映画の感想をすぐさまみんなで語れるようになる。今、○○の映画を観た人集まれ! みたいな状況がSNSで生まれたりする。こうなると、今まではあり得なかった「遠方の人と同時に新作を観る」ことが可能になる。昨年末、あの「バルス!」がありましたが、新作映画にもあれに近しい盛り上がりが期待できるかもしれない。

「新作映画を劇場で公開して収益を得る」というのが、戦前から続いてきた、映画館と映画の基本的な収益モデルです。ただ、このモデルはとても限定的です。なぜなら、映画館がないような地方の人々を観客として取り込めない。事実、ぼくの地元には映画館がないし、観に行こうと思ったら車や電車で一時間以上かかったりする。映画館には行きたいけど遠いんだよな、そんなつぶやきは日本中、世界中にいくらでもあるでしょう。現在の形式を守り続ける限り、地方の人々が映画を観るには有料テレビか、DVDにならざるを得ない。新作映画の配信がなされれば、映画制作者たちはより多くの人々にそれを見せることができるのです。

HMDが発展すると、そういう未来がやってくるように思います。都会も田舎も区別無く、日本中の人が、同時に、映画館よりも大きく感じる画面で、新作の映画を観る。映画館の特権性は崩壊し、映画がテレビと同じように家で享受される。映画館という物理的な施設の維持費もいりませんから、新作映画は今よりも安くなるでしょう。

それに、もっと夢物語を語るなら、こういうこともあり得ます。
 今の映像メディアというのは、すべてあの長方形ディスプレイ、スクリーンの中に収まっています。これが360度ビューになることもあり得るでしょう。
 360度ビューの映画、というのがどういうものか、ぼくにはあまりイメージできませんが、別のものならイメージできる。それは、「映画館の風景をビューとして描く」ということ。こうなると、もう映画館は本当に意味を失う。

「映画館の風景をビューとして描く」とはどういうことか。
 映画は映画のままです。現実的に、現在までの映画を360度ビューで観ることはできませんので、現在までの映画は長方形の中に収まるしかありません。しかし、HMDをつけたままで、ふと周りを見る。すると、まるでそこに映画館の劇場があるような空間的広がりがある、とこういうわけです。映画館の風景を、HMD内で見せてしまうわけです。スクリーンを観るだけではなく、満員の映画館の中で観たい、と思うのなら、そのような風景を仕込む。AKBのメンバーに囲まれながら映画を観たい、と思うのなら、自分の周りにいるかのような風景を仕込む。いや、それだけじゃない。たとえばホラーをより臨場感をもって楽しみたいなら、周りを夜の廃館のような風景にする。想像がいくらでも膨らんできます。

 最近知ったのですが、新しいタイプのカメラで、tamaggoというのが登場するようです。これなどはまさに360度ビューの実現。今までもグーグルストリートビューというのがありましたが、あれを自分の好きな風景、好きな瞬間で切り取れる。カメラの未来は既に実現しつつあるわけで、これを映像にすることも、もう夢物語ではありますまい。

 さて、SF的想像によって、映画の未来、もっぱら映画館の未来に関する、暗い予測をしてしまいました。しかしこれは裏を返せば、映画館という場所の特権性を奪う行為であり、それは映画館のある地域のみの人々が有してきた快楽を、映画館の無いような地方の人々にまで拡大するという明るい未来でもあるのです。ぼくはそんな未来を実現できるような技術もないし、そういう現場に明るいわけでもないし、映画産業がどういう仕組みでどのように動いているかの細かい部分もわかりません。ですので、あくまでも夢想です。でも、どうでしょう。こんな未来が実現してもおかしくないんじゃないの? というテクノロジーは、方々で芽吹いています。

 ぼくの予想は、「映画館が凌駕される未来について」ですので、いやいや、映画館は映画館で発展しているんだぞ、映画館の未来は明るいぞ、という人がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ教えてほしいです。今回は映画館が好きな人にとっては、あまり愉しい話ではなかったでしょうしね。あと、すべてはあくまでもHMDの発展次第ですから、技術的限界が来てしまえば、おじゃんの話ですれど。じゃあ、そんなところで。
 おしまい。 
ツイッターに投稿しようと思ったのですが、あまりに長くなったのでこちらに。
 今回は、昨年もたまーにやっていた、映画とはぜんぜん関係ないお話です。なんだ、映画評じゃないのか、じゃあ読まない。というのも結構です。テレビやテレビCMに興味のある人にはご意見を頂戴したいです。

  テレビCMの未来について考えてみたいと思います。
 テレビ衰退論が叫ばれて久しいですが、その主因は「ネットの躍進によって、テレビが広告媒体としての優位性を失いつつあること」でありましょう。
 では広告におけるネットの強みとは何なのでしょうか。
 それはつまるところ、費用対効果でありましょう。安い宣伝費、制作費の一方で、どんなユーザーがどういう広告に反応しているかがわかる。
 この点を克服できない限り、スポンサーがテレビという媒体を選ぶ理由がいっそう希薄化していくに違いありません。テレビが持つ現在の優位性は唯一、マスであることだけ。視聴率至上主義などと揶揄されますがこれは無理からぬことで、DVD売り上げやオンデマンド配信でマーケットを開拓するといっても、スポンサー企業に寄与できなければ十分な制作費を確保できません。
 マスな広告媒体としての優位性にも、レコーダーの発達による録画機能の充実で大きな穴が開いています。「録画で観る人々が増えたので、視聴率が下がっている」という言い方は「CMを飛ばす人が増えている」と同義なのです。
 かような状況によってテレビはネットの追い上げを食らいます。そしてテレビは衰退する。とこういう話になるのです。処方箋はあるのでしょうか。まったくの門外漢ながら、考えてみたいと思います。
 
 技術的な解決が必要でしょう。次の二点が可能となれば、人々に効果的にCMを見せることができます。
 一点は「個々の視聴者に応じたCMの放送」です。現在のテレビCMは、番組ごとの違いはあるにせよ、結局は画一的なCMしか流せません。個々人が情報を選べる時代にあって、それらは多くの場合、ノイズでしかないのです。多くの若者にとって生命保険のCMはただのノイズ。男性にとって生理用品のCMはただのノイズ。多くの主婦にとってテレビゲームのCMはただのノイズ。ノイズの多い媒体など、観たくない。
 だからこそ視聴者に応じたCMが有効かつ必要になります。視聴者がCMを選ぶ、という方法です。たとえば選択画面で、不要な種類のCMにチェックを入れることができるようになれば、もしくは必要なものだけにチェックを入れられれば、限定された分野だけのCMを観ることができます。分野は多岐に渡るわけですが、たとえば「映画」「自動車」「IT機器」「食品」「医薬品」などなどをチェック項目とし、能動的な選択を可能とするわけです。最低一つのチェックを残すように設計できれば、何も映さないという選択肢を除外できます。訴求性は間違いなく向上し、効率は飛躍的に上がるでしょう。同じ種類のCMに飽きてきたら、「同じ種類のCMばかりってのもあれだな」と思い、能動的にジャンルを増やすこともあるかもしれません。
 その場合、広告制作についても多様性が要求されます。二点目です。
 現在は微妙にパターンの違いがありこそすれ、同じ企業の同じCMを見せられることが常です。だからこそ、「このCMはもう観た」というザッピングを促進するのです。であるならば、微妙にスタイルを変えて放送するべきでしょう。たとえば車のCMならば、商品の車にいろいろなところを走らせる。たとえば医薬品のCMならば、いろいろなシチュエーションを撮る。たとえばゲームのCMならばいろいろなプレイ画面を見せる。たとえばタレントがダンスを踊るようなCMならば、いろいろな曲調や振り付けを用意する。同じものを見せられるイライラからは開放され、商品の見せ方を多面的にできる。作り手の勝手なこだわりで同じ場面に数十、数百回の撮影を重ねる余裕があるのなら、もっと効率的な方法があるはずです。面白いパターンをつくれれば、「他にはどんなパターンのCMがあるのかな」と注目させることもできます。今であればそれこそ、AKBの各メンバーごとのパターンでCMをつくるなんてことをすれば、多数のファンが食いつくに違いないわけです。 録画機能を「CMが飛ばされるもの」として敵視するのではなく、むしろ活用する。オンデマンドでCMを見ることは、現在のレコーダー機能の発展範囲で、十分に可能です。

 さて、長々述べましたが、ぼくはこの分野についてはまったくの門外漢。ゆえに、それがどれくらい難しいことなのかもわかりませんし、広告に携わる人々からすればとっくに考え尽くされたことなのかもしれません。しかし、テレビの広告媒体としての衰退を食い止める方法があるとするなら、上記のような方法が有効だと考えたわけです。技術的に無理だね、と言われるかもしれませんが、レコーダーにしても、昔は一ヶ月単位で全番組を録画できる時代が来るなんて夢のような話だったわけです。家電メーカーの研究室の大型コンピュータでも一週間分がせいぜい、なんて時代が十年前。それが今じゃあ家庭用レコーダーでずっと大きなことができるようになった。ケータイの発展は言わずもがな。であるならば、放送にもそういうことが可能なのではないか、せっかくデジタル化したわけだし、なんてことを考えたわけです。

 うーん、どうなんでしょう。仮に可能だとしても、コストパフォーマンス的に成り立たないでしょうかねえ。「自社のCMを見ない層」は確かに拡大するだろうけれど、かといって見てもらってもしょうがない人に見せても意味がないでしょう。ぼくにおむつのCM見せたって意味ないっす。ぼくに化粧品や生理用品のCM見せたって意味ないっす。そんなぼくにまで莫大な費用を投じてCMを見せるのは、純粋な企業的損失でしょう。だったら、見せるべき相手に届けるシステムの構築が必要なんじゃないかなあ。それに同意する企業からお金を募れば、システムは構築できるんじゃないかなあ。夢想なのかなあ。デジタルに万能性を期待しすぎなのかなあ。うーん。でも、これ以上の方法って、今のぼくには思いつかないなあ。今の枠組みの中で考えたらテレビは衰退するだけでしょうしねえ。

 最近はいろんなものの未来について考えているので、そのひとつとして書いてみたのでした。ご意見いただければ幸いです。おしまい。
虚構の術師ティム・バートンが語る、現実と虚構。

 ティム・バートン監督作で言うと、『アリス』『プラネット・オブ・ジ・エイプス』『スウィーニートッド』は観ていなくて、他の長編は『ビートルジュース』以降なら一応全部観ているのですが、いちばん好きなのはベタベタですけど『シザーハンズ』です。『マーズアタック!』みたいなわちゃわちゃしたのも好きなのですけれど、監督が虚構と現実の間でふわふわ遊んでいる感じが好きなのですね。『チャーリー』はもう、虚構のほうに没入してしまっている感じであまり好きになれず、むしろ虚構と現実が混じり合っているほうが、その混融具合が観ていて心地いいのです。

 その意味で言うと、なるほど本作『ビッグ・フィッシュ』はまさしく、ティム・バートン監督そのものといったような映画でありました。監督のやりたいことが、映画自体によって語られていたように思うし、これほどまでに自己の表現に言及する作品も珍しい、と思ったのでした。

 死期の近い父親と、その息子をめぐるお話です。父親は自分の過去を語るときに、まったく法螺話としか思えぬようなことばかりを喋り、一方の息子はといえば父に対し、本当の過去を語っておくれよとせがむのです。映画の大部分は父親の語る昔の出来事、それも本当かどうかもかなり疑わしい出来事で、半ばファンタジックな様相さえも呈します。フィクショナルな世界観で語り続けてきたティム・バートンが今回は「おっさんの昔話」に目をつけたわけですが、なるほど彼はこの題材に最も適した監督であるなあと思いますね。

「本当の過去を語ってほしい。本当の父さんが知りたいんだ」
 アルバート・フィニー演ずる父に、ビリー・クラダップ演ずる息子は訴えます。そのたびに父親ははぐらかすのですが、このやりとりが繰り返される中で、ぼくは思いました。
「そもそも、『本当のこと』というのは、いったい何なのだろう?」

ぼくたちは常々、「本当のこと」を求める。インターネット上にあふれかえる有象無象を目にして、何が嘘で何が本当であるか、誰がぼくたちを騙していて誰がぼくたちに事実を伝えるのか、精査しようとしている。真偽を見極めようという態度を、いつだって無意識に取っている。
 それ自体は悪いことではないし、むしろそうでなくてはならない。嘘に踊らされるのはごめんだ。
 だけれど、「本当のこと」というのは、果たしてどれほどに本当だと言えるのか。それを考え出すと、本当と虚構の境目は溶け始める。ぼくたちが本当だと信じていることのうち、いったいどれくらいが本当に本当なのか? 


息子は父親の本当のことを知りたいと言う。でも、土台、本当のことなんて語り得ないし、知り得ない。このことはすごく重要です。たとえばぼくが父親に、昔の話を聞いたとする。でも、それが本当かどうかなんてわからないし、本人にだってわからないはずです。人は自らの過去を十分には語り得ないのです。己が思う自己像と、他人から見た自分の像が食い違うなんてのはいくらでもある話だし、人は往々にして記憶を変えてしまうものなのだから、本当に本当の過去なんてものは、語れないんです。

 映画を観終えて、またひとつ認識の基盤を揺るがされる思いがしたのでした。やっぱりぼくはそういう映画が好きなんですね。極論すると、映画を観ている間、面白かろうが面白くなかろうがどうでもいい。映画を観終えた後で、思考の刺激になるようなものが好きなのです。

ぜんぜん『ビッグ・フィッシュ』の話をしないじゃないか、検索でヒットしたから来たのに、とお思いの方がいたら申し訳ないんですが、いいのっ、ここはそういうブログなのっ! ってことで話をすると、映画は二時間なら二時間だけ面白ければそれでいいじゃないか、的な考えって、今のぼくは距離を置いてしまう。二時間、面白いことにふけるとしたら、ぼくはテレビゲームをしていたほうがよほど愉しい。映画よりもずっと没頭できる。ではなぜ映画を観るかと言えば、そこから何か学び取りたいのですね。だから面白くなくたっていい。白状しますが、『ビッグ・フィッシュ』はそんなに面白くなかった。でも、そんなことは問題じゃない。そこに思考の種があったかどうか、そのほうがぼくには大切なのです。

先ほどの話に引き戻します。「本当のことが知りたい」と父親に迫る息子。でも、ぼくは思ったんです。彼は、「本当らしい話」を聴きたいだけなんじゃないかって。父親が語ることは作り事めいている、嘘に違いない、そう思った息子ですが、彼が求めていたのは結局のところ、「本当らしい話」でしかない。そうでしかあり得ないと思った。
 仮に父親から「本当らしい話」を聴き出したところで、そうやって満足を得たところで、何の意味があるのか? それは結局のところ、自分がつくりだしたに過ぎない「リアリティ」なるものに、当てはめようとしているだけなのではないか? 

 ネタバレーゾーン。

 かたや父親。法螺話ばかり吹いていた父親。彼が死を迎え、葬式に人々が寄り集います。その中に出てくる面々は、いずれも劇中、彼の話に登場したような人々がキャスティングされています。そこで観ている側ははっとする。
 あの虚構の中に、現実はあったのではないかと。
 父親が語った話はおおかたが嘘かもしれないけれど、その中には本当のことも紛れていたんじゃないかと。そもそも、現実と完全に分離した虚構など、あり得はしないのではないかと。

 ぜんぜん映画の話をしないじゃないか。と言われそうですが、今回はもうそういう回として割り切ってほしいです。
 まとめに入りたいのですけれども、本作で語られていることは、映画を観るうえでとても大事なことだと思います。ティム・バートンがどのような考えで虚構=映画を作り出そうとしているのか、感じ入るものがあります。

 現実は現実としていくらでも現実にあふれているし、ぼくたちはその現実を当たり前のものとして受け流してしまったり、当然そこにあるものとして考えがちであるけれど、ぼくたちにとっての現実とはそんなに単純なものなのか。虚構は虚構に過ぎないとわりきれる虚構もあるけれど、虚構は現実を元につくられるものであって、だとするなら虚構の中には、虚構として封じ込めきれない現実が埋め込まれているのであり、そこに本当の現実は見いだせるのではないか。

 わー、わー、わー、難しい話になってきたよー、くちゃくちゃするよー。

でも、ぼかあ思うのですけれども、この息子にとっても誰にとっても、現実というのはおそらく、蓄積した時間の中にしかないのだろうと思うんです。父親が昔立派な人物だったかそうでなかったか、そんなことは本質的にはどうでもいいというか、どうしようもないことであって、確かなのは、ともにした時間の中にある共有した記憶しかないのではないかって、そんなことも考えます。

 この現実と虚構の問題というのは、いつまでも終わり無く語れそうなトピックであり、ゆえにしてまだ簡潔に物語ることはぼくにはできぬのですけれども、ぼくたちにとって現実とは何か、そして虚構(=映画)とはいかなるものなのかを、じいっと考えさせます。思った通り、ちょっとまとめきれるもんではなかったですね。現実と虚構にまつわる認識を揺るがしてくれる、いい映画だと思います。おしまい。
SF的想像力に訴えかける作品。

近頃はいろんな方面の「未来」についてあれこれと考えていて、SF映画をあらためて興味深く観ている次第です。何かお薦めのSFがあったら教えてもらいたいです。本作は『ターミネーター3』の監督による、アメコミ原作のSFで、タイトルである"surrogate"
とは「代理人、代行者」という意味です。劇中で動き回る登場人物はいわばロボットで、じゃあ人間は何をしているのかというとベッドに寝そべり、マシンによって脳波を伝達し、そのロボットを動かしているのです。人間の存在は意志として機能している一方で、実際の物理的世界ではロボットたちが活動している、という世の中なのです。

ロボット、と書きましたが、この種の試作品のようなものは既に完成していて、知能ロボット工学者、石黒浩教授のグループがこの方面の研究を日夜進めているようです。「ジェミノイド」と名付けられています。この動画は『サロゲート』の原初を実現していると言えましょう。




物語構成よりも、この世界設定自体から考えを膨らませたくなります。SF的想像、というやつです。たとえば映画では、街を歩く人々は全員がサロゲートなのです。そしてそのサロゲートは、実際の人間よりも多分に美化されていたりする。いやそれどころか、年齢も性別も、自分の理想的なスタイルにして動かすことができるのです(映画で鍵を握るのは『Virtual Self Industries』)。面白いなと思ったのはこのくだり。序盤で男女二名のサロゲートが破壊され、その操作主も同時に殺されるという事件が起こるのですが、なんと若い女性のサロゲートを操っていたのはひげ面の太ったおっさん。つまり、サロゲート同士のやりとりでは、実際の相手の姿など、まったくもってわからなくなっているわけです。


これは既にネット上で実現していることですね。日本では大コケしたセカンドライフですが、あれなどは自分のアバターを手軽に設定できるわけです。パソコン通信の草創期からネカマと呼ばれる人々はいただろうし、今もツイッター上で、自分の身分を偽ってやりとりしている人がそれなりにいるのでしょう。

 このサロゲートのような再現度のジェミノイドが誕生するのははるか先のことでしょうけれど、実際の近未来像として予測できるのはたとえば、アバターコミュニケーションの発展です。ぼくはこれは結構濃い線だと思います。

 PSvitaでも『みんなといっしょ』というゲームが発売されていますね。キャラクターのアバターを通じて、コミュニケーションをしていくというもの。オンラインゲームの発展は既に言わずもがなだし、どれくらい先かわかりませんがあのドラクエの次回作でも、オンラインコミュニケーションが取り入れられる。このようにゲームという領域でアバターコミュニケーションは発展を見ていますが、いずれこれはゲームをしない人たちにも訴求していくと思います。何年先になるかわかりませんが、ツイッター、セカンドライフ、オンラインゲームのようなものが組み合わさった大きなメタバースができるんじゃないかと期待しています。3D技術も発展しているし、かつて夢見た未来の象徴みたいな、あのヘッドマウントディスプレイも登場した。現実がジェミノイドに覆われる日の前段階として、アバターコミュニケーションが広まっていくだろうと予想しています。

 そうなったとき、コミュニケーションの質はさらに変容する。これはとても面白いことであるなあと思います。映画に話を戻しますが、肝心なこととして、この作品ではあくまでも人間の意志によってすべてが動いている、ということです。たとえば『ターミネーター』、たとえば『マトリックス』、たとえば『トランスフォーマー』、どれにせよ出てくるのは、人間ならざるものの意志です。機械が人間を支配するとか、機械が人間以上の知能で攻めてくるとかそういう世界観。でも、『サロゲート』は違う。あくまでもサロゲートは器に過ぎず、それを人間がどのように使うかという世界になっている。その点においてのリアリティがあったのがよかった。

 映画全体を通して観ると、設定的にどうやねんみたいなのはいっぱいあるんです。だから今回は映画そのものではなくて、映画に描かれている技術や思想について考えてみたい。ブルース・ウィリスの髪の毛がふさふさ、とかそういうのできゃっきゃするのは他の人に任せておきます。

 90分程度にいろいろ詰め込んでいるのですが、考えの種をたくさん撒いてくれています。そこからSF的想像をしてみたいのですが、たとえば面白いのは、皆が皆、理想的なサロゲートにしているせいで、美男美女ばかりが出てくるというところです。サロゲートに反対する人間の集落が出てくるのですが、その人たちは太っていたり不細工だったりする反面、サロゲートは皆若くてきらきらしている。さて、そういう世界が実現したとき、果たして顔や美というものはどんな意味を持つのか。性というのは意味をなすのか(そういえばこの世界では生殖活動はどうなっているのでしょう。その辺が甘い映画ではあります)。そもそも、現実の世界を動かすことに意味があると信じられるのか。

 物語的なネタをばらしますので、そのつもりで(このような注意書きは無駄だなあと思っています。何か簡素な記号で済ませたいところです。考えておきます)。

サロゲートが動き回る現実に対して反旗を翻す人が出てきます。その張本人はなんと、そのシステムの第一人者である博士なのでした。自分でつくっておきながら、こんな世の中は間違っているのじゃい、人間らしくあらねばならんのじゃい、と言って壊そうとします。暴走しきってしまい、人間まるごと殺してしまえ、という発想に行ってしまいます。

 一方のブルース・ウィリス。そうはさせるかといって人々の命を救うのですが、ふと立ち止まります。彼にはサロゲートを通じてしか自分と話そうとしない妻がいて、彼女をなんとかしたいと常々考えていたのです。だから迷い、迷い、迷った末に、すべてのサロゲートをシャットダウンすることにしてしまうのです。

ぼくは『エスケープ・フロム・L.A』を連想しました。あの映画でも、主人公のカート・ラッセルは、管理社会をぶちこわしてすべてを近代以前のように戻してしまえ、という最終決断をするのです。『サロゲート』と共通する、劇中の社会システムの否定です。


勝手な話っちゃ勝手な話です。このブルース・ウィリスは、家族がインターネットに没頭して困る、だからインターネットシステム自体を壊してしまえ、みたいなことをやっているわけですから。甚だしい極論というか、幼稚な考え方なんです。このような技術が実現した世界では、あんな思想自体が間違いでしょう。ですからね、SF映画としてはちょっと褒めにくいところもあって、なぜなら技術が高度に進んだ時代を描きつつ、今の価値観を当てはめているからです。あのブルース・ウィリスにしたって、妻がちゃんと向き合えなくなったのは、現実のコミュニケーションの問題だろうと思いますね。それを、技術やシステムを壊したら我々の健全なる人間性は回復するのだ、みたいにするのはどうやねん、なんです。それはおかしな話ですから。

 まあ、サロゲート社会を賛美するような終わり方というのは難しいのでしょうし、観客のウケを考えれば現実肯定に行くのもわかりますけれど、もったいなさを感じます。そこにもったいなさを感じさせることもわかったうえで、作り手はたぶんやっているんでしょう。なのでつまるところ、これはこれで別によいのです(どないやねん)。


ストーリー展開やらなんやらよりも、こういう社会だったらどうなるだろうね物事は、という想像を膨らませるという点で、よい映画だと思います。おわり。
原作からの大胆な改変は吉と出ていると思います。


久々に新作を取り上げる本ブログ。ねたばれがんがん。
 前作の『恋の罪』をうかつにもスルーしてしまったのでその辺の話はできぬのですけれども、『ヒミズ』については原作漫画にも唸らされるものがあり、これは早めに駆けつけておきたいよね、というわけで池袋HUMAXシネマズ。

さて、ふうむ、長くなるか短くなるかもわからずどのあたりから話し始めればいいのか迷っているのですけれども、設定をざっくりいうと、「いわゆる普通の」生活を営めずにいる十五歳の少年を主人公とした、彼の生き方を巡るお話、とまずは言えましょう。ボート屋を家業としている彼の家は両親がまともな教育を与えることをほとんど放棄しており、彼自身もまた学校に普通に通うような暮らしに順応できずにいます。 主人公の住田少年を演ずるのは染谷将太、彼に惹かれる少女茶沢を演ずるのは二階堂ふみです。二階堂ふみは沖縄出身で、「南の島の宮崎あおい」みたいな人ですね。

 原作は四巻あるのですが、その中身を二時間強で描ききるのは難しい、というわけで、この住田と茶沢の話に絞って綴られていくことになります。原作と大きく異なる点がいくつも散見されるわけですが、それらはおおよそ有効に改変されていたとぼくは思いました。土台、あの漫画のトーンで映画をつくるのは難しい。はっきり言って暗いお話なのです。だからそのままやれば下手なナイーブさに走りかねないし、荒涼感やら内面的うんぬんに絡め取られる。そこを思い切り舵を切り、面白い映画になっていました。

 演出としてわかりやすく引っかかってくるのは二階堂ふみのパワフルさです。原作ではもっと物静かな、シニカルな風情の少女なのですが、映画ではライトノベルよろしく、染谷将太に猛烈アタックを掛けます。うん、ラノベっぽいなあという感じを最初受けました。ラノベの一般的手法として、「静かに暮らしたいんだよ俺は」的な少年のもとにパワフルな少女が押しかけてきて引っかき回すというのがあるのですが、それに近しいものを最初感じた。『シガテラ』にせよ『わにとかげぎす』にせよ、古屋実の作品では女性側からアタックを掛けてくるのですが、本作はそこでまずどーんと押してきます。おいおい大丈夫か、と思って見始めたのですけれども、途中からそのテンションがこの映画の熱量を確かに高めていると気づく。原作にはないやりとりも加味されていて、ああ、これは原作に見られるような冷静なコミュニケーションからは大きく飛ぶのだね、とわかって、わくわくしました。

 二階堂ふみの演技はとにかくパワフルパワフル。なおかつ主役二名の間で交わされるやりとりには、幾度も暴力が挿入される。そこで本作が、ラノベ的な甘え合いとはまったくもって異質なものであると気づかされる。二人は語りを通し、暴力を通してぶつかりあい、わかりあう。これは第二の、『愛のむきだし』なのでした。

 パンフレットで佐藤忠男氏が書いていることで、はあなるほどその通りと膝を打ったのは次の箇所。
「日本人には周囲を気にして言うべきことも言わないで暗示ですますという傾向が強い。この映画の会話は、だからこそ逆に、普通なら言わずにすますことを声を大にして言う」 この点は原作から大いに改変されているところでした。主人公二人以外でも、そうした演出がかなり前面に押し出されています。

 たとえば光石研演ずる父親がそうで、彼は原作に輪を掛けて最悪の男です。あれ、こんなにひどい父親だっけ、と記憶を探ってしまうくらいに光石研が最悪。なにしろ息子に向かって、「早く死んでくれよ」「おまえなんか本当に要らねえんだ」としつこくしつこく言うのです。原作では数ページしか出てこず、ろくに会話もしない父親の像がかように増幅されている。他方、これまた原作にはなかった茶沢の家族も場面も挿入される。黒沢あすか演ずる茶沢の母親は、なんと娘の死を渇望して首つり台をつくるという有様です。園子温は『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』で壊れた家族を描いていますが、そのような最悪の背景を持ち出すことで、主役二名の造形をより立体的にして見せているのです。

演技テンションが高い本作においてバイプレイヤーとして光るのは、まあ誰もいいのですけれども、やっぱり窪塚洋介を語らずにはおれません。窪塚洋介には本当にわくわくさせられるというか、この人の放つ躍動感とか攻撃力というか、他の役者とは明らかに異質なものを感じます。渡辺哲を引き連れて泥棒に入るシーンがあるんですが、ここはすごくぞくぞくしました。「脱! 原! 発!」などと叫んであんな跳び蹴りをかませる役者は、日本には他にいないのではないでしょうか。『凶気の桜』とかにしてもそうですけど、ああ、この人はちょっとおかしいところあるんかなあ、と思わせるくらいの役者は観ていて気持ちがよい。今後も是非園子温作品に出ていってほしいです。

 本作は暴力表現において、過去の園作品の中でも最も充実していたのではないでしょうか。映倫区分はPG-12なんですけれども、乗ってる韓国映画みたいな泥臭さや乱暴さがありました。その点ははっきりと原作超えしていると言っていいのではないでしょうか。なおかつ、その話で言うと、この映画ではまあ、キチガイな人たちというのも出てくるんですね。キチガイといえば白石晃士ですが、彼にも匹敵するようなぞくぞくするキチガイが出てきました。彼らの場合、人物背景がまるで読めないんです。ただ、彼らのような存在は確かにこの国にいっぱいおろう、という実在感があり、迫力で言うと『冷たい熱帯魚』のでんでんより怖い。で、染谷将太がそれこそ『気狂いピエロ』のジャン=ポール・ベルモントみたく顔にペンキを塗りたくり、包丁を紙袋に入れて街を彷徨する。原作だとわりとこまめに住田少年の内面が語られるんですが、語らないところは語らずにおくこの映画では、彼が何をしでかすのかわからないという緊張感が高められます。

 他にもいいところはいっぱいありましたので全部語るわけにもいかないのですが(たとえば謎の魔物が出てこないことなどについては他の人にお任せします)、一方ちょっとどうなのや、というのが終盤でした。わりと平和に着地するというか、しっとりしてしまう節があります。主人公二人が寝そべりながら未来を語るなどしていく場面は原作にもあるのですが、場面場面で狂い咲き、時として愛をぶちまけていた二人が語るには、いささか退屈なやりとりだったように見受けました。原作とは違うトーンで攻めまくっていた本作が、終盤の肝心な場面で原作通りに静かに語り合うというのはなんだか、戸惑いを感じた。これね、でね、終わり方が原作と真逆なんです。それはそれは真逆。だったらもういっそのこと、あれだって絶叫しながらやってよかったんじゃないかなあと感じるのです。熱量を持続させながらやってきた本作の最後の語りがあれだと、ちょっとしょぼんとしちゃうんじゃないかしら、というのが個人的な感じ方です。

 本作は3・11を受けて大幅に内容が変わったようなのですが、あの終わり方はそれ以前から設計されていたんでしょうかね。ラストのラストで、「がんばれ!」を連呼しながら走るんですけど、そこの前で一回しんみりしているのでねえ。「がんばれ!」で終わる、うん、うーん。うん、いや、でも、ここはちょっと判断保留というか、もう少し時間をおいて考えておきたいところです。それと、どうなんだろうと思うのは、あの肯定的な終わり方をするならば、せめて茶沢さんにもう少し優しくしたってもええんちゃうんけ、というのもあるんです。茶沢さんに支えられっぱなしなんです。最後も「住田がんばれ!」と一方的でしょう? もうくさくなってもかまわないから、「茶沢がんばれ!」があってもええんちゃうかなあと、ふと思いました。住田は自首するかもしれないとして、茶沢は茶沢であのあとどうしていくねん、ということですから。

いやあまだまだ語りきれぬこと多しですが、いろいろ詰め込んであるし、人の語りも読みたくなるし、ちょっと整理しきれていないというのも含め、存分な熱量を感じる作品でありました。お薦めであります。

コーエン兄弟の映画はなんだか語りにくいのです。

原題『Raising Arizona』
 コーエン兄弟の映画は『ノーカントリー』を最後に、以降の新作を観ていないといううつけ者のぼくですが、これまで観たので言うと『ブラッドシンプル』『ミラーズ・クロッシング』『ファーゴ』『ビッグ・リボウスキ』『オーブラザー!』『ノーカントリー』といったようなところで、『ファーゴ』がいちばん好きです。

 個人的には、どうもコーエン兄弟の映画というのは、読みにくいところがあるというか、DVDや新作を観てもなぜだかどうも食指が動かない。これは何なのだろう、というと、ひとつにはぼくの無知なところが大きいようにも思いますね。

「絵画は見るものではなく、読むものである」という言説がありますが、それを初めて聴いたときにふうむ、なるほどと感じ入った記憶があります。つまり、絵画を見て、表面的な色遣いがどうの、筆遣いがどうのということを見るだけでは不十分であるということで、その画が描かれた時代の背景や筆者がそれを書いた動機などを含みこんで鑑賞するものなのだ、という態度です。

 考えてみるに、それこそが大人の鑑賞者が取るべき態度であろう、と思うのですね。映画についてもそうで、やれあれが面白い、これが格好いいというだけでは、子供となんら変わらない。むしろ子供のほうが難癖をつけず、つまらなければ放り出して終いにする分たちがよい。やっぱり映画にせよ何にせよ、それを観て何かを考えたり、映画の奥にあるものを見いだしたりしなければ、たくさん観る意味がないわけです。この辺のことを最近強く感じています。

 そういったところを踏まえたときに、どうも今までのぼくは、コーエン兄弟の映画から何を見いだせばよいのか、わからずに来たところがあります。『赤ちゃん泥棒』もそのひとつで、何を読み取ったらいいものやらと立ち止まってしまう。これはぼくの無知、無教養の表明であります。

 さて、やっとこさ映画の話に入るのですが、『赤ちゃん泥棒』はニコラス・ケイジとホリー・ハンター夫妻が乳児をさらってきてしまい、どたばたが繰り広げられるというお話です。

ところで、人はなぜ子供を産むのでしょう。ということを考えたときに、ひとつには、人が未来を望むものだから、というのがあるのでしょう。大人になって、自分自身の人生を考え、安定した生活はあるにせよこの先めざましい成長はない、という風に思ったとき、人は子をなし、その成長を支える側に回ることで、未来への希望をつなぎたいと願うんじゃないっすかね、わかんないっすけど(急に投げやり)。発展途上国のほうが人口が増えていて、先進国のほうが少子化している、というのは何でなんだろうと考えるに、そりゃあ労働力確保の問題とかもあるんでしょうけど、発展途上国のほうが娯楽も少ないし、環境や境遇上この先の自分の人生が大きく変わるという可能性を信じにくいところもあって、子供の成長を自分の人生の楽しみに置き換えるっていうのが強いんじゃないかなあ。先進国は娯楽要素も多いし、自分の可処分時間を自分の人生の充実に使いたい、そしてまた使えてしまうっていう要因があるんじゃないでしょうか。

 この映画の夫妻はアリゾナの荒野の中のトレーラーハウスに暮らしているんですね。で、ニコラス・ケイジは何度も刑務所に服役していた過去のある男なんです。そうなると、現実の世界で出世したりなんなりで、自分の人生を今後輝かせるのが難しいってのがある。そうなったとき、妻が切実に子供をほしがるのも頷けます。子供がほしいと強く願うことは、「自分の人生はこれくらいのものであろう」という諦念と繋がっているんじゃないでしょうか。だってあのトレーラーハウスでただ年を取っていったって、何もないと思いますもの。

 それでその後、服役中の知り合いが尋ねてきて引っかき回すなどして、映画は進んでいきます。ドタバタコメディ的に、どんがらがっしゃんなシーンも用意されています。ここを楽しむのがこの映画のよい見方でしょうが、ぼくはちょっともたつきを覚えました。もうそれはわかっているよ、というのを押してくるところがありました。

 たとえばケイジの知り合いの二人組が、彼の家からベイビーをさらってしまう。で、強盗などをして逃げていくんですが、その途中でベイビーを置き去りにしてしまうんです。で、「しまった! えらいことだ! わーわー」になるシーンがあるんですけど、ここなんかもね、もうわかってしまうんです、途中で。それなのにその後、ちょっとばたばたしたりする。彼らが銀行強盗をする場面なんかでも、掛け合いが面白かったりするんです。でも、どかんと来ないというか、何でしょう、M-1で審査員の平均点が80点くらいの漫才を観ている感じというか、ちょいちょいええボケあるのになあ、もうちょっとそこでたたみかけるもんがほしいわあ、テンポ上げたらええのになあ、というのがありました。まあ、これはコメディに対する感じた方が人それぞれあるのかもしれないですけど。

 25年前のものだから無理もない、とも思うんですが、中にはそれこそ50年以上前のコメディでも十分笑えるものもありますもんで、じゃあその差は何かというとこれはテンポとの相性だろうと思います。50年以上前のスクリューボールコメディって、ぼくには心地いいテンポだったりする。この辺はまだまだ語れる言葉が多くないので、これ以上の話はやめておきますけれど。

 コメディで行くのか何なのかもうひとつ読みにくい部分があったのですね。『マッドマックス』みたいな人が出てくるんですけど、この人がどういうことなのか、よくわからない。何かの寓意なのでしょうか。映画全体を通して、赤ちゃんをめっちゃ愛してるわあ、赤ちゃんがめっちゃ可愛いわあ、というのが乏しいのです。いや、可愛すぎて仕方ないわ!みたいな場面はあるにはあるけれど、その後は特に前面には出されない。そのこと自体は悪くないというか、むしろぼくには心地よくて、赤ちゃんをあくまでも愛玩の記号にして、それに振り回される大人たちのコメディというのでいいと思った。

 なのに、あのマッドマックスおじさんが子供をさらおうとするのに対して、変にマジになってぶつかったりするんです。あのおじさんにマジでぶつかるのなら、対話がほしいなと思ったんです。「子供をもとの親のところに連れて行くんだ! それはさらった子供だぞ!」と言われてひるむとかすれば(別の人物とのそういうやりとりはあったけれど何も発展しません)、あの夫妻の哀しい像がもう一層明確にできたんじゃないかと思うんです。せっかくのマッドマックスおじさんは、ただのモンスターになっちゃった。

 エンディングもよくわからなかった。変にしっとりさせていました。子供の誘拐という、ともすればナイーブな話なので、「コメディ一辺倒で行くのはどうかね」というのがあったのでしょうか。あのエンディングはコーエン兄弟が「これで行くぞ!」と本気で思ったものなのでしょうかね。映画制作者よりも健全で真面目な上位意志が映画に働いたような感じがしたのです。妙に感傷的というか、コメディタッチ、マッドマックスおじさんタッチとは合わないように思った。

全体を眺めたときに、はて、これはどうしたいのだろう、これはどういうテンポで行きたいのだろう、というのが読みにくい映画でありました。何を書きたいのか定まらないまま書き続けてしまいました。コーエン兄弟はなかなかぼくには難しい、というのが今回の感想です。
次の時代を予期させる傑作。

 ドリームワークスとピクサーというのはもうほとんど手がつけられない領域に入っているというか、「どうせ、面白いんでしょ?」というレベルに来ていますね。もう観る前から面白いのはわかっているんです。もちろんあれこれほじくっていけば何なりと言い出せることはあるんでしょうけれど、そういうのはもういいよってくらいちゃんと面白いんです。この二強がつくりだすCGアニメーション映画の安定感というのは、実写のアクション映画とかの比ではないんじゃないですかね。なんかもう、達成してるやんっていう。

 3D公開の本作をぼくは2DのDVDで観たわけですが、こういうのをしっかりつくる人たちはもう好きにしてくれという感じです。3D映画についても、新規なものへの抵抗感から、否定的とは言わぬまでも結局のところどうなん? みたいな懐疑的な立場だったんですが、どんどんやってくれればと思います。発展しようと苦闘する人たちを応援せずして、何が映画好きであるかというのが今の考えです。ピクサーにせよドリームワークスにせよ、「やつらに2Dは狭すぎる!」の段階まで来ているのでしょう。


『モンスターVSエイリアン』は大変な快作でありました。
巨大化したヒロインがモンスターとして捕獲され、他のモンスターたちと一緒にエイリアン退治に駆り出されるのですが、細部の芸も細かく、ギャグも豊かでした。過去の作品から引っ張ってきているネタなども面白いところですね。


 パクリとオマージュの違いのひとつは、それを隠すそぶりがあるか無いか、ですね。隠すとださいじゃないですか。むしろ、面白いと思ったんで使わせてもらいました、という風に堂々と出されると愉快に感じるわけです。開き直ってがんがん使っていくと、それを見つける楽しみも増える。パロディ的な面白さとも融合しますしね。90年代それをもっとも顕著に示したのが言わずもがなのタランティーノ、そして日本で言えば『エヴァンゲリオン』だった。パクリと言われるのを恐れて過去のおいしい具材を使わないなんてもったいない、でもこっそり使うってのも過去の作り手たちに申し訳が立たない。だったらいっそのこと、誰にでもわかるように開き直っていっちゃえ! という態度が新たな面白さを開拓したわけです。

モンスターものと言えばピクサーの『モンスターズ・インク』ですが、当然作り手が第一に意識した作品のひとつでありましょう。あれとは別種の面白さを生み出そうとしているのが頼もしいの一言でした。ボブというキャラクターは作り手もお気に入りのようですが、なるほど確かに面白い。これは『マックイーンの絶対の危機』という映画からの引用のようです。他にも、『ハエ男の恐怖』『大アマゾンの半魚人』から持ってきたキャラクターがメインを担います。50年代SFから引っ張ってくるっていうのも、味な真似であります。『モスラ』は見た目をデフォルメしていますが、もうそのまんまですね。

 ヒロインもいい。コメディ風味たっぷりのこの映画において、「きゃあきゃあ言う女」は楽しい楽しい。うん、特に洋画の場合って、ぼくは「きゃあきゃあ言う女」がいるとテンションが上がりますね。『テルマ&ルイーズ』が好きなのはそれも大きいのです。で、彼女の行く末もこの映画では見所で、旧来のハリウッドスタイルからまことに時代は変わりつつあるのであるなあと思います。

 ネタをがんがんばらすのが旧作メインブログなのでそのつもりで。

 巨大化して強くなった彼女自身と対比させるかのように、結婚相手の男はまるでだらしないのです。ここまであからさまなのか、と思うほどに、「ぼくは力になれない」と明言して震えているんですね。これは思い切った脚本を用意したものです。


「いわゆるハリウッド映画」へのイメージですと、やっぱり主人公は艱難辛苦乗り越えて、愛すべき相手と結ばれてハッピー、というのを持っていたんですけれども、そこには明確に背を向けている。安心させるハッピーエンドをつくろうと思えば、男は男で何かしら力を貸して、それでヒロインが勝利して、モンスターとも仲良く暮らすみたいなのもできるじゃないですか。そのほうが無難なのは間違いないです。でも、「もうそういうおためごかしは終わりにしよう」というのをはっきり打ち出している。「もう映画として達成してるやん」と前述したわけですが、物語面においても次のステージに行っている。

 この映画は着地しないんです。ヒロインがなんだかんだで最終的に落ち着いたりしない。巨大化してモンスターたちとともに生きていく道を選ぶ。この結末はすばらしい。アマゾンで低評価をしている人がいて、「ストーリーが読める」とか言っているのがあるんですけど、本当かよ、っていうか、この話は「先が読めない」っていう終わり方なんだぜ?

 この辺はとても大事で、なぜならこの映画ではヒロインがおきまりの幸福に収まっていくことを否定しているんです。彼女はモンスターたちと一緒に次のモンスター退治へと向かっていくんですが、はっきり言ってそれが幸せな道かどうか、わからないでしょう?
少なくとも、「その後もヒロインは幸せに暮らしました。めでたしめでたし」ではない。

 どうなるかわからない。だとしても、今までの世界に安住することはもうできそうにない。だったら、行くところまで行ってやれ、自分ができることをしてやれ、という終わり方なんです。一方、アホ全開の大統領が、アホ全開の核のボタンを押してしまうというブラックなエンディングも用意されていて、これもアンチハッピーエンドなんです。世界はどうなるかわからねえぞ、という厳しい未来をギャグの中に忍ばせているんです。

 うーん、何なのでしょうね。お気づきの方もおられましょうが、去年のベスト1、2が、女性の話なんです。女性が規制の権威に立てついていく話なんです。なぜだかぼかあそういう映画に惹かれるようになってきたんですね、これは何なのでしょう。

 本作の場合画期的だなと思うのは、これが子供、ファミリーを大きな観客層にしているはずのコメディアニメでなされていることです。ご家族でご覧になるとお父様はさぞ肩身が狭くなることでありましょう。ファミリーの団結って素敵、というのを、既存の知り合いや閉じた共同体の中ではなく、むしろモンスターという訳のわからないもののほうに軸を置いて表現している。ここを語り出そうと思えば、なんかいろいろ語れそうです。

 映画に詳しくなくとも面白いし、多少詳しいと元ネタを探ったりして面白いし、そのうえ物語構造的な面でも興味深い。もう降参です。いや、負けないぞ(何なのだ)。
 とにもかくにもぜひご覧になっていただきたく思います。
使役されるゾンビを通して、過去と未来を描く離れ業。

ponさんよりお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

原題『FIDO』
 映画という表現技法が発明した、開拓した面白みというのは数多くありますが、その中の代表格のひとつが、ゾンビという存在でしょう。世間一般には「永遠のキワモノ扱い」だと思うのですが、それもまた称号であって、死者という存在でありつつも幽霊のようなおどろおどろしさもなく、ファニーさがある。ゾンビ映画が大好きだ、という人は世の中に多いですが、それもうなずけるところです。

 ぼくは個人的にゼロ年代を「ポスト・ロメロの時代」と位置づけているのですが、なるほど本作もまたその例証となるような映画でありました。パッケージの様子からするにどうもあほくさい感じがあるかもしれませんが、その内容は結構深いというか、いろいろな寓意の見て取れる映画なのでした。コメディとしても愉快な一方、ゾンビという存在を通して社会の有り様を描く。ゾンビを通じた社会風刺はロメロが意識的に行っていたことですが、より鋭いものがあるな、と感じたのでした。

 本作では、人間を襲う敵対物としてのゾンビ像から跳躍して、ゾンビを使役する社会、召使いみたいにする社会が描かれています。ゾンビを制御する道具が発明され、ゾムコンという会社が「あなたの家にもゾンビを置きませんか?」と宣伝するような社会なのです。


 それでいて面白いのは、舞台となる街の風景はあからさまに50年代のアメリカであるということです。挿入される歌曲も、演出も、画の感じも、すべてが古き良きアメリカみたいになっている。そこにゾンビがいて、奴隷的な存在として登場するわけです。



ネット上の論評をいくつか見るに、公民権運動時代のアメリカを模しているというのが目につきました。つまりはゾンビ=「奴隷としての黒人」というわけです。なるほどその寓意もあるのですが、ぼくはむしろ違う方向の想像を膨らませていました。

 と言いますのも、近頃ぼくは未来のロボット技術に興味を惹かれていて、この映画におけるゾンビはロボットのようであるな、と感じていたのです。この映画が面白いのは、ゾンビという存在を描くことで、現実の過去の出来事としての黒人奴隷、あるいは現在まで続く人種差別、そして未来に起こりうるであろうロボットの登場までをも感じさせるところなのです。ロボットを通して差別社会を描くというのは、既にあの『鉄腕アトム』でなされているのですが、ゾンビという要素がこれまた別の色合いを与えてくれるのです。


 ところで、原題の『FIDO』はファイドと読み、これは主人公の少年の家で使役されているゾンビの名前です(主人公の父親は「ゾンビに名前なんてつけるな」というのですが、この辺の細かい部分にも作り手のリアリティへの配慮が行き届いています)。ぼくがロボット映画として本作を観ていたのは、このファイドがフランケンシュタインの怪物に見えたからです。

 フランケンシュタインの怪物というのは、一般的に人造人間、アンドロイドということになるのでしょうが、果たしてそれは正確な捉え方なのでしょうか。といいますのも、フランケンシュタインの怪物というのは人間の死体からつくられているのです。脳も死体のものなのです。だからあれはロボットとはまったく違っていて、むしろゾンビに近いのです。ですが、一般的には「人造人間」ということになっているようです。はて、いろいろ考えて頭がくちゃくちゃしてきました。ゾンビ、人造人間、ロボット、そしてそれに向き合う人間。それぞれにどういう境界が設定可能なのか。『ゾンビーノ』はそんなことまで考えさせます。


 ゾンビにせよロボットにせよ、そこに人格はありません。この部分は、公民権運動時代のアメリカと本作がつくられた現代を大きく分かつところです。「黒人は奴隷なのだから人格や権利など考えてやる必要はない」というのはもう昔のことになりましたし、たとえ国々、地域での差別はあるにせよ、「人間性を認められていない人間」は、歴史を通してだんだんと少なくなりつつあるはずです(うむ、この辺の言い方はちょっと複雑ではあるのですが)。

だからぼくが面白いと思ったのはそこではなくて、人間性がないものに対して人間性を感じる人々の振るまいについてでした。主人公の少年も、母親も、ファイドを大事にします。ゾンビだから人間性はないはずなのに、人間のように見えてくる。これはロボットの問題に近しいのです。たとえばこんなテクノロジー。

人間ならざるものに人間性を見いだす、というのは、昔から人間がやってきたことで、宗教とはそういうものです。迷信の類にしてもそうですし、類例を示すまでもないことです。現代では宗教よりもアニメのキャラクターなどでそれが見られるようになってきたように思います。これもまた枚挙に暇がありません。ネットにしたってそう。これは人間性の有無の問題とはずれますが、現実の人間関係よりもネット上のコミュニケーションが大きい、という時代に生きているわけです。社会評論ぶって恐縮ですが、リアリティの質が変容してきているのですね。

 ぼくたちにとって他者とは何か。ゾンビという存在を用いて、そうしたことを考えさせる。また同時に、ネットに見られるように、公民権運動とつなげて人種差別の議論もできるのかもしれない。パッケージの印象から、また映画の感じからして、チープで退屈なゾンビコメディと思われるかもしれませんが、いやいや、これはなかなかいろいろ語らせる映画でした。50年代を模した風景でのゾンビ映画であると同時に、ロボットSF的な意味合いを持つ作品としてもお薦めできるという、離れ業をやってのけています。まだまだ語ろうと思えばいくらでもできそうですが、疲れましたので、ここまでにします。
白石晃士流ジョーカー、炸裂。

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 どうも年末年始は映画を観る気持ちが弱まっております。なんだかなぜだか映画を観る気にならないのであります。そんなわけで更新頻度が高まるまでは今しばらくお待ちいただければと思うのですけれども、まあこんなブログでありましても更新を待ってくれる方がいるのであろう、来たときに「更新されてないや」と思われるのは少し哀しい、というわけで、去年に書いておいた記事をひとつ上げておきます。年明け一発目を飾るには少し、というかかなり問題があるんじゃないかね、もっとみんながハッピーな気持ちになれるファミリー向けな作品などでご機嫌を伺ったらどうかね、というためらいもあるのですが、年明け一発目に白石晃士のエネルギッシュな怪作を取り上げるのも悪くは無かろうというわけで、『超・悪人』です。先に申し上げておきますが、まだ正月気分で惚けていたい場合は、そんな気分が抜けてからお読みいただければと思います。

『グロテスク』についてはここで何度も名前を挙げていますが、あの映画が本当に危険なのは見た目の残虐さではないんじゃないか、と最近考えました。『グロテスク』は変態男に付き合いたてのカップルが拉致され、拷問される映画で、その過激なゴア描写にどうしても意識が集中してしまうのですが、その単純な映画構造の裏面に、ぼくたちの認識を揺るがすような仕掛けが施されているのです。

 結論を先に言うならば、「あの変態男こそが観客自身である」ということです。実にアクロバティックかつ、挑発的かつ、危険に満ちた設定なのです。説明します。

 大迫茂生演ずる変態男は川連廣明と長澤つぐみのカップルを路上で襲撃し、密室で磔にします。なぜそんなことを、という問いに対して、彼は言う。「感動させてほしい」と。生の感動、愛の感動を見せてほしい。二人のうちにそれを見いだすことができたなら、生きて帰すと約束する。彼はそう宣言して、数々の残虐な行為を開始します。

 このとき、観客にとって変態男は「他者」です。日常的感覚、社会的道徳の範囲で言えば、彼に感情移入できるわけがないし、拉致拷問して「感動」などと嘯くのは頭がおかしい。
 ただ、その一方で、観客は映画の進展に期待を抱いてしまう。そして、映画でひどい目に遭うのを観て、「感動」を得ようとしている自分たちに気づくことになる。
 そんなことはないって? ゼロ年代半ばに思いを馳せましょう。
 『グロテスク』はゼロ年代の日本映画の一面を、実に過激に、まっすぐに切り取っています。
  『世界の中心で愛を叫ぶ』を筆頭にして難病、死にオチの純愛映画が流行し、『恋空』を代表とするケータイ小説的な悲劇のジェットコースターが流行った。感動感動という言葉が嫌というほどメディアを駆け巡った。あれらに涙した観客がいるとするなら、その人々は『グロテスク』の変態男と同じことを求めていると言ってもいい。換言すれば、あの変態男は、死に至る受難の最中に「感動」があると信じ込む観客自身だとも言えます。
 
 なんとアクロバティックなことでしょう。観客が本当の意味で感情移入しているのは、あのカップルのどちらでもあり得ない。あの変態男でしかない。映画に「純愛」だの「感動」だのを求めている人間は、変態男と知らずのうちに同期するのです。90年代にはハネケの『ファニー・ゲーム』がありましたが、あれよりも遙かに鮮烈な皮肉です。

『グロテスク』に惹かれながら、この構造に気づかずにいた自分の不明を強く恥じ入るところです。読者の方から記事にコメントをいただいて気づくことができました。大変感謝しております。この映画はゼロ年代の純愛と感動を巻き込んでぶち殺す、最凶の恋愛映画ということができます。「泣ける純愛映画みたいなのを観たいんだよねー」という方に、ぜひお薦めしましょう。そして、もしも観た後で文句を言われたら、「何を言っているの? あなたの観たいものが、克明に描かれていたじゃない」と言ってあげればいいのです(ただしその場合、二度と映画の話をしてもらえなくなりますが)。

前置きが長くなりました。今回は『グロテスク』の監督が撮った『超・悪人』を取り上げます。そして、本作もまた、『グロテスク』同様に、認識を揺らしてくる映画でした。

『超・悪人』の主人公は連続強姦殺人男です。『オカルト』でも狂人を演じた宇野祥平が演じていますが、あのときとはまったく異なる演技で、サングラスをしているのもあって途中まで気づきませんでした。

 映画は全編がハンディカム撮影で、白石晃士が得意とするモキュメンタリースタイルです。冒頭は十分以上に及ぶワンカットの長回し。描かれるのは、男が女性の部屋で住人の女性をレイプ殺人する様子です。
 去年、『レイク・マンゴー』を評したとき、「現代はネットの普及によって、以前よりもモキュメンタリーが困難な時代を迎えているのではないか」と書きましたが、白石晃士の作品はぼくの認識の甘さを教えてくれます。本作はニコ生的な、素人の生々しい自分語りをなぞっているのです。今後のモキュメンタリーの路線はこのような方面で花開くのではないかと思います。

『グロテスク』はまだあの非日常的空間と劇映画的演出で毒素が中和されていた感がありますが、本作はそういうものがありません。あるのは日常的風景だけです。だからこそ、冒頭のレイプ場面は生々しくて、これは女性が観たら強い強い強い嫌悪を覚えることでしょう。本作を女性が観たらどう感じるのかは、とても知りたいところです。

前半でぼくは持って行かれたんですけれど、白石がうまいのは、このレイプの場面を長回しで撮ってショックを与えて引き込んだ後で、ふっと現実の、日常の場面に落とすところです。それもまあ言ってみれば気持ちのよくはない、けれど十分に今もこの街中で起こっているであろうコミュニケーション風景を切り取ること。レイプシーンの次の場面で描かれるのは、メイド喫茶を盗撮しているところです。ここの描き方はすばらしいというか、うん、面白い。ここには、フェイクだとは思えない現実味があります。


 撮り方自体は視野の狭い、ハンディカムの定点撮影なんですが、ウエイトレスと男とのやりとりはものすごく面白い。ああ、こういうことはある、間違いなく日常で起こっている、と思わせる。ぼくは実はこのメイド喫茶のシーンがいちばん好きかもしれません。
 そしてこのシーンでは、男の「ジョーカー性」があらわになります。「ジョーカー性」とはつまり、「常識的で道徳的で正しいと信じる我々の自己像を、悪人が正直に照射してぶちこわす性質」のことですが、あるきわめて身体的な指摘が、彼をただの殺人レイプ魔として突き放すことを許さなくなります。それは別に、「彼が正しい」という種類のものではない。ただ、「我々が正しい」という基盤が狂わされる、ということです。あんなにも日常にありふれているであろうと思える場面で、そこを描き出すというのは、すごいの一言です。白石晃士って、正当に評価されていないと思います。

『オカルト』『ノロイ』『バチアタリ・暴力人間』などがそうであったように、本作でも監督の白石晃士自身が登場人物として出てきます。清瀬やえこという人と一緒になって、この男を取材しに行きます。このくだりの長回しも没入を促すうえで大いに作用しています。監督と清瀬という二人の人物がレイプ魔に接触することで、物語は駆動します。

 白石監督の面白さを一言で言うなら、「狂人」の描き方です。監督はその辺の取材やなんかをたぶんすごく行っていると思います。彼の描き出す狂人は、他の監督の手つきよりもはるかにリアルというか、ああ、狂人ってこういうものだな、と思わされる。

 今回の男で言うと、怒りの沸点がものすんごく低いというか、瞬間的に怒り出すんです。 それまでにこやかだったのに、ちょっと言葉を間違えただけで一秒後にぶん殴ってくる。 これはねえ、怖いですよ。本当に地雷原を歩いているようなものですから。

 やっぱりね、狂っている人ってのは、調節弁が働かない人なんでしょうね。ためらいがないというか、こうだろうと思ったらもう、途中の細かいこととかは何も見えなくなる。こんなことしたら相手はこう思うだろうから、とかそういうのがないんです。でも、だからこそ、狂人というのはこちらの認識を揺らしてくるんです。近代という「狂気の歴史」の中で、常識から逸脱するものを檻に閉じ込め、それを狂気と呼ぶようになった。しかし、常識などというものはたかだか「社会的な、なんとなくの合意」に過ぎない。ジョーカー的な狂人はそういうものを信じない。ゆえにときとしてこちらの欺瞞を有り体もなく告発する。

この映画の殺人レイプ魔が、ただの暴力的で破壊的な人間だったら、単に突き放して観られると思うんです。『バチアタリ・暴力人間』の二人組にはその色合いが強すぎたようにも思うし、AVのレイプものを観てもただ不快でしかないのは、ただ単純に嫌なものでしかないからです。でも、『超・悪人』は異なる。狂っているとか、壊れているとかいうのがどういうことなのか、今一度考えるように仕向けてくる。

 本作でも終盤、実にアクロバティックな展開が起きる。男を徹頭徹尾嫌悪して観ていると、あの終盤はレイプ魔肯定的ファンタジーという不快なものにしか見えないかもしれない。というか、「普通に観れば」そういうものに見える。

 ただ、ぼくにはそうは思えなかった。これが映画の怖いところです。
『時計仕掛けのオレンジ』だって、最悪なレイプ魔アレックスが人間性を喪失したとき、どうしようもない気持ちになったりしたでしょう。悪人が処罰されてハッピー、ではなかったはずです。この映画はそれを裏返している。悪人が愛を成就して不快、だけでは収まらない。これは何なのだろう、ということを考えているのですが、はあ、そろそろ疲れました。続きはまたの機会にしようと思います。女性がどう観るのか、が気になるところではありますね。
そろそろと年の瀬でございます。
 年の瀬に映画ブログがやることっつうのはだいたい相場が決まっておりまして、まあその一年に観た映画でよかったものを総括するってことでございます。
 ぼくもご多分に漏れず、やってみようと思います。
 このブログも数年ほどのささやかな歴史がありますが、振り返ってみるに、年末にその年を振り返るということは一度もしていないのでありました。
その理由のひとつにはまず、ぼくが新作をぜんぜん観ない人間であるというのがあって、これよりお示しするものもまた、旧作ばかりなのでございます。
 先にばらすならば、今年公開の作品というのはひとつも入っていないのであります。
なんたら映画ブログでありましょう。
 でもまあ、そういうのは他の皆様にお譲りするのでございます。
 ぼくは皆様の評価を参考として、半年後とかにDVDを選ぶことにするのでございます。

 新作の話題についていけぬというのは、エイガミにとってはもの寂しい面もあるのですが、ぼくは他のエイガミの方々ほど古い映画を観ていないのであります。優先順位としてそちらが断然先なのであります。
 というより、正直な話、話題の新作がどうのこうのという話題それ自体、ぼくにとってはそのほとんどがどうでもいい。ぼくが求めるものは「その映画から何を見いだせるか」に尽きると言ってもいい。ぼくの興味は近頃とみに、映画がどうであるかそのものよりも、映画から何を読み取るかへと傾いています。

 この辺の話は無駄に長くなるのでやめておきましょう。

さて、これまた今までやったことのないことですが、ベストテン形式を採用してみます。
 ただ並べるよりも、多少のイベント性というか企画性というかなんかそんなのを持たせた方が読み応えもあろうという愚考であります。しかし、本来であれば、個人でベストテンをつける行為は好ましいものではありません。
 ベストテン形式にしていますが、こんな順位などあってなきがごとしであります。そもそも年代自体がばらばらであるし、描かれようとしていることもばらばらですから、順位をつけようがないのです。じゃあ順位付けするなということであって、まことにその通りでございますが、とかく人の世は順位なるものに拘泥するのが習いで、代理店に愛された48人の順位をめぐって、誰も彼も浮かれ騒いだのも今年のことでございます。ぼくとしてはアイドルなどは順位など気にせずに楽しめばよいと思うのであって、ここでも順位は気にせずに読んでほしいのであります。

 そろそろいい感じでじれったくなった頃合いでございましょう。
 このベストテンは今年、当ブログで取り上げた映画から選んだものです。
すべて旧作です。新作のランキングを観たい人はよそにいってください。
 それでは行ってみよう!


10位! 『トーク・レディオ』 オリヴァー・ストーン 1988
何かを伝える覚悟がおまえにあるのかよ? と殴りつけてくる。

9位! 『ヤング・ゼネレーション』  ピーター・イェーツ 1979
必死になった一瞬は一生を支えてくれる、と思わせる。

8位! 『何がジェーンに起ったか』 ロバート・アルドリッチ 1962
 一つの舞台と二人の女優がいれば傑作は生まれる。

7位! 『ヘルボーイ ゴールデンアーミー』 ギレルモ・デル・トロ 2008
娯楽作品として言うことなし。

6位! 『サイドウェイ』 アレクサンダー・ペイン 2004
この映画に惹かれる人と、ぼかあ酒が飲みたい。

5位! 『パッチ・アダムス』 トム・シャドヤック 1998 
笑いは人を救う。そのことを心底信じている人は、完璧に格好いい。

4位! 『ミツバチのささやき』 ビクトル・エリセ 1973
 ぼくたちがいるのは、たかだか社会というものの内側に過ぎないのではないか?

3位! 『ジョニーは戦場へ行った』 ドルトン・トランボ 1971
 徹底して嫌な映画。だからこそ戦争映画として最も価値がある。

2位! 『テルマ&ルイーズ』 リドリー・スコット 1991
90年代に現れたANCは解放感に充ち満ちた女性の二人旅、そして圧巻のラスト。

1位! 『哀しみのベラドンナ』 山本暎一 1973
 夏にお薦めいただいた作品で、レンタル困難ゆえに思い切って買ったら大当たり。度肝を抜いてぶるぶると震えさせるド傑作。アニメーションとは何か、映画とはいかなるものかまでをも考えさえてくれる一作。


いざ並べてみると、いやあ面白みのないというか、まあ世間で既に賞賛されてきたような作品が多いことであります。それが傑作なのはいまさら言われなくなって知ってるよ、というものばかりでありましょう。新作を追いかける趣味のある方などは、この辺のものは至極当然に観てきたものでありましょうが、ぼくはまだまだ古い名作に出会い足りずにいまして、それはそれで幸福なことであるなあと思っています。「なにさま映画評」の二つ名は「いまさら映画評」でもあるのです。いまさら観てみるのも、いいものなのです。 レンタルビデオ・ファンタジーなのでございます。

ベストテンには入れませんでしたが、未見の場合はぜひに観てほしいものを以下に列挙しておきます。

『3時10分、決断のとき』 ジェームズ・マンゴールド 2007
『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』 山中貞雄 1935
『イリュージョニスト』 シルヴァン・ショメ 2010
『ロンゲスト・ヤード』 ロバート・アルドリッチ 1974
『鬼畜』 野村芳太郎 1978
『パプリカ』 今敏 2006
『渚のシンドバッド』 橋口亮輔 1995
『フィクサー』 トニー・ギルロイ 2007
『必死剣 鳥刺し』 平山秀幸 2010
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 押井守 1984
『リトル・ミス・サンシャイン』 ジョナサン・デイトン/ヴァレリー・ヴァリス 2006

年末はそれなりに忙しく、記事をアップできてもひとつかふたつになりそうで、だったらまあ決まりのよい記事で終わってもよかろうということで、今年の更新は今回をもって終了とします。今決めたのであります。
 
 今年はどうもありがとうございました。多くのレスポンスを賜ることができ、語るうえでの大きな励みになったのでありました。リクエストしていただいた方、ありがとうございました。教えてもらった映画でも数多くのいい作品に出会うことができました。また一方、お薦めいただいたのに酷評をぶつけてしまうこともありました。不快な気持ちにさせてしまったことがありましたら、あらためてお詫び申し上げます。
 ご愛顧いただいている方、コメントはしないけれども読んでいるぞという方、ならびにアンチ様を含めまして、読者の方々に深くお礼申し上げます。
それでは、また来年お会いいたしましょう。See you next year.
善悪の地盤が端から壊れている、絆と生き方をめぐる人生譚。
 
 間を開けつつ各作を観ておりまして、近頃に『完結篇』を観ました。まあ映画ブログたるもの名作はひとつでも多く取り上げておいたほうがよかろうっつうことで、『仁義なき戦い』。

 注:今回の記事はいつも通り、いつも以上に話がだらだらくねくねしています。ご注意ください。

しかしまあ二年以内に五作を続けて公開っていう勢いは、今の日本映画界では考えられぬハイスピードであります。1960年代から70年代にかけての日本映画は年に二作、三作を公開するシリーズものがばんばんつくられていたのですね。東宝で言えば怪獣もののほか『若大将』『クレージーキャッツ』、大映で言えば『座頭市』『兵隊やくざ』、松竹なら『男はつらいよ』。東映はシリーズもの華やかなりし時代を迎えており、『仁義なき戦い』のほか、高倉健主演の『日本侠客伝』『網走番外地』を筆頭に任侠ものが大量につくられ、菅原文太の『トラック野郎』もありつつ、ぼくの大好きな『女囚さそり』も公開。枚挙に暇ないとはまさにこのこととも言うべきシリーズ文化で、これでもごく一部に過ぎないのですから、いやあこの頃に映画を観まくった人というのは、もう本当に観まくったんだろうなあと思いますね。もちろん洋画もあるわけで、プログラムピクチャーの時代でもあって、二本立て三本立てが当たり前と来て、今よりも人と映画の距離が近かったのかなあと思います。DVD世代のぼくとしては、圧倒されるばかりの時代であります。

『仁義なき戦い』がそれまでのヤクザ映画と違うのは、それまでのヤクザ映画が任侠(= 弱きを助け強気を挫く)的側面を有していたのに対して、暴力団組織同士の抗争を全面に描いたことであると言われます。本シリーズは「ヤクザ映画」というよりもむしろ、「政治映画」のニュアンスが非常に強いというか、いや、「政局映画」という言い方が伝わりよいのかもしれません。何々組の誰々を味方につければ何々組を圧倒できるぞ、いやしかしそうなると何々組の誰々が力を持って分が悪い、ここはひとつ別の何々組と示し合わせて、いやいやそうなるとこちらとしてはメンツが立たない、ここはやっぱり・・・・・・というきわめて政治的な出来事が繰り返されていくのであります。そこへ来てヤクザの世界とあって、血気盛んな若い衆が勝手に行動してお偉方の思惑がおかしくなったりしてぐちゃぐちゃになったりして、向こうにこっちの誰それを殺されたので大人しくしてはおれぬから復讐をするべきだと思うんだよね、というか復讐をしなかった場合向こうはこちらをなめてくるわけでそれは輪をかけてむかつくよねとても、殺しに行くよねこの流れだったら、的なことで血で血を洗う。ゼイウォッシュブラッド・ウィズブラッド。ゼアウィルビーブラッド。

ちょいとぼおっとしていたりすると、あれ、これは誰と誰がどういう関係なのだっけ、というのがわからなくなったりするので、1回ちゃんと把握した上で2周目に入るとより面白く感じるかもしれません。ただ、名作と言われる本作でありますが、この映画が大好きである、この映画を悪く言うなんて信じられない、という人はたとえば、同じ役者が役を変えて別の作品で出てくる、ということについてはどう考えているのかは気になるところです。松方弘樹は1,4,5作目で出てきますが、毎回違う人物になってしまいます。北大路欣也は2作目の主役級の人物として登場し、壮絶な死を遂げるのですが、5作目ではぜんぜん別の組の幹部として出てきます。他にも、あれ、この役は前は違う役者だったぞ、というのもあって、その辺がもうひとつ大河性をなくしている感はあるように思うのですが、どうなのでしょう。公開当時の観客の人々は気にならなかったのでしょうか。「俺は2作目が大好きなんだよ、あの北大路欣也の役がねえ」と思っていたら5作目でぜんぜん違う人になっているのはいいのでしょうか。北大路欣也は北大路欣也で、「いやあ、ぼかあ2作目で死んだので」と断ったりはしなかったのでしょうか、その辺はいろいろと気になります。

 そんな中にあって光るのは主役の菅原文太はもちろんのこと、山守という実に老獪な親分を演ずる金子信雄です。この人は5作すべてに出ていて、一貫して山守なので安心です。広能はもともと復員兵なのですが、山守組員に代わって殺人を行い、刑務所で出会った梅宮辰夫演ずる若杉と出会い、その後山守と盃を交わして極道の世界に入るのです。その後山守のために働いたり裏切られたりというドラマが広がっていくわけです。

 五部作を見終えて思うこととしては、役者の変転、再登板なども鑑みるに、ひとつの貫徹した大河ドラマとしてはそれほど収まりがよくない、というのはあります。『完結篇』というからにはやっぱり、広能と山守の因縁に何か蹴りがついたりするとぴしっと締まったようにも思うのですが、そういうことではないようです。『完結篇』といっても、その後の『新・仁義なき戦い』もありますし、終わりは終わりで、「戦いは終わらないのであった」的なことになるし、この辺は実在の人物の手記から始まった実録ものの話でもあるから、映画的、物語的な完結性は持たぬのでしょう。

 ヤクザものといえばこの前年、1972年にはあの『ゴッドファーザー』がありますね。あの3部作はもう、マイケル・コルレオーネの話じゃないですか。もともと堅気だったマイケルが跡目を継いで、そこからどう生きていくかっていう大河ドラマなのですが、『仁義なき戦い』は広能の話としての収まりはあれほどにはよくない一方、広がりも見いだしにくいところがあります。彼はあくまで一勢力で、それ以上の上位意志が方々で働いている、という構図があるため、混沌としています。『完結篇』ではもうほとんど刑務所にいて、出てきてからも何もしていないですね。

 ただ、物語的な収まりや起承転結のようなものが明確でないことが、映画的によろしくない、ということではぜんぜんありません。それであればこれほどまでに語り継がれ、愛される映画シリーズになるわけはないのです。

『仁義なき戦い』が面白いのはひとつに、この映画においては、「善なるものは端からない」ということです。まさしく「仁義なき戦い」なのです。なにしろ題材はヤクザ同士のシマ争い、メンツ争い、シノギの削り合い、だまし合いばかし合いそして殺し合い。そこには初っぱなから最後まで、勧善懲悪は皆無です。これは実際の戦争に通ずる、きわめてメタフォリカルな構図です。

 話はそれますが、東映は1971年にあの『仮面ライダー』を放映開始しています。仮面ライダーとは何か。平成版はおくとして、こと昭和版のライダーシリーズというのは、善と悪というきわめてわかりやすい図式を用いたヒーローものなのです。
 ウルトラマンシリーズ、あるいはゴジラシリーズとは大きく異なります。ヒーローものを一緒くたで考えていると気づきにくいかもしれませんが、ウルトラシリーズは善と悪の話ではない。むろん、「地球を侵略する悪い宇宙人をウルトラマンがやっつける」的構図はいくつも見られはするものの、多くの話において、果たして人間は善か? 宇宙人や怪獣は悪と言えるのか? と問いかけるものがあります。

 『機動戦士ガンダム』はこのような「非・善悪図式」を採用しています。ジオン公国は地球に対して戦争を起こしますが、その大義は、「地球連邦からの完全な独立」。はっきりとした戦争行為で、どちらが悪と一概に言い切れるものではない。作中では残虐な殺人行為や過激な壊滅計画を行うなどして悪辣な印象をもって描かれますが、そこにあるのは「悪」ではない。戦争による作戦行為です。

 物語において、善と悪の図式が採用されることがままありますが、そもそも我々の社会において、悪とは何か? 「倒されるべきわかりやすい悪」などというものがあるのなら、既に淘汰されていてしかるべきなのではないか? 我々は何かを「悪」と規定することで、自分たちの足場を保持、あるいは構築したいだけなのではないか?

 既得権益は悪だ、私利私欲をむさぼる政治家は悪だ。
 なるほど、ならば速やかに排除すればいい、しかしできない。
 なぜか? 
 彼らが権力を持っているからか? 
 しかし政治家とてただ一人の人間に過ぎず、彼が独り荒野で権力を叫んでも意味はない。 彼の持つ権力を支える人間や、そのシステムの存在があるんじゃないか。
 そうしたことを突き詰めたときに見えてくるのはつまり、「我々は何に支えられているのか」ということです。

 まだまだ話はそれますが、今年を表す漢字として、「絆」が選ばれました。絆、なるほど、それはいい言葉に思えます。とりわけ被災した地域の人々にとって、絆というのはとても尊いものに思えたことでしょう。絆は「善きもの」であると言えましょう。しかし、既得権益やら私利私欲の政治家やらの持つものもまた「絆」と言えるのです。何々さんには世話になったから手厚くしてやれ、選挙の際は是非に応援してやれ、というのも絆。記者クラブ同士仲良くやろうぜ、というのもまた絆。絆を尊ぶ人間が、他者の絆を糾弾するのはおかしな話と言えます。絆というと聖なるつながりに見えますが、何事も聖性だけに目を向けようとは虫がいい。その絆から離れたものにとって見れば、打ち砕くべきものに見えてくる。そしてぼくたち自身だって、絆にただ乗りすることで現在の生活を保てている。税金で私腹を肥やすな、税金の無駄遣いをして増税とはなんたることだと怒りながら、日本がアフリカの諸国よりもずっと贅沢な生活環境を維持できているというこの国民的既得権益には何も言わない。ぼくたちだって既にうまい汁を十分に吸っている。

『仁義なき戦い』は暴力団の話ですが、暴力団はいわば「絆」の最たるものでもありましょう。疑似家族的な共同体を形成し、規律と連帯のもとに寄り集まっているのです。先の話で言えば、暴力団は「悪」と一般的には言えるのでしょうが、はて果たして簡単にそう言い切れるのか? 
 とりわけ戦後の混乱期において、共同体がぐちゃぐちゃで、法的信頼もずたずたの最中で、暴力団に入ることで救われる人間というのが確かにいたわけです。あるいはその暴力団の存在ゆえに救われた人々もまたいたのでしょうし、今だっていくらでもいるのでしょう。そうでなければこんなにも長い歴史を持つわけがない。今年にはあの大物芸人が、「暴力団とのつながりは駄目だ!」と言って引退して、だけれどその後もいろいろ報道が出たりして、ぼくたちはそれを笑って眺めたりしているけれど、あの後、何か変わったのか?
 彼はいわば捨て身で「暴力団とのつながりはアウトなんだ!」というメッセージを発したけれど、誰かそれをきちんと受け取ったのか? 芸能界の図式は変わったのか? あの後たとえ一件でも、暴力団とのつながりが明るみに出た芸能事務所や芸能人があるか? 結局は彼を揶揄して終了? 彼だけが特殊なケースで芸能感は真っ白? マジで信じられる? それじゃああまりにも実りがないと思うけれど、やっぱり暴力団に支えられている人はいっぱいいるなあと思えるわけです。

『仁義なき戦い』とはこれすなわち、善と悪の崩壊した状況の中での、絆をめぐる話とも言えるのです。そして一見、物語的な簡潔さを帯びないつくりであるこの作品は、そうであるからこそ、ぼくたちの社会の写し絵たり得る。終わりの見えないこの話、綺麗な勧善懲悪も起承転結もないこの話は、ぼくたちの人生の進行とも同じです。『仁義なき戦い』には人生がある、というのはあまりにもおおげさですが、人々が熱狂するのはひとえに、そうした延々の流転があるからだと思うのです。

 思いつきで書いているのでいつも通りいつも以上にだらだらしました。個人的にいちばん好きなのは4作目の『頂上作戦』。3作目で絡まりきった混沌がついに爆発したような4作目の熱量に惹かれました。初見の際には、ある程度構図を頭に入れたうえで観るのがお薦めと言えます。
寡黙さを埋めるだけのエロスは感じられませんでした。

なめこさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 台湾映画というのはぜんぜん観ていない分野です。ここで取り上げたのも『モンガに散る』くらいですね。アジアで言うと香港映画がアクションの分野で人気で、タイ映画もそれを追随している。一方、ゼロ年代には韓国映画が大きく花開き、とりわけノワール系での強いインパクトをもたらした。台湾映画には何があるのか、ぼくにはよくわからなくて、なかなか観ずにいるのが現状です。

さて、『西瓜』です。タイトルからは何もわからず、予備知識ゼロで観ました。西瓜といえば夏の風物詩みたいに言われますが、ぼくはというと西瓜が好きではありません。子供の頃には家で食べたりしましたが、何がうまいのかさっぱりわからなかったんですね。西瓜の甘みというのがてんで感知できぬというか、「西瓜は甘くておいしい」みたいなことを言われても、何のことだかと思っていた。むしろ、「此は今あまり食はずに置きて、虫籠の中の甲虫にやらう。かの虫の方が悦びをもつて汁を吸ふらむ」と思っていたので、カブトムシに捧げたりしていたほどでした。「塩をかけて食うとうまい」と聞いたので、そうやって食べてみると、ふむ、塩味がするのでうまい。しかしその場合、ぼくは塩をうまいと思っているのであって、西瓜である必要性がなく、なんなら西瓜は要らないから塩だけ舐めていたいとさえ思ったほどに、西瓜の魅力がわからなかったのです。

 映画もまた、実際の西瓜同様に、ぼくにはよくわからぬものでありました。
 演出としては90年代の北野武や、あるいはキム・ギドクのように寡黙な作品で、その風合い自体は嫌いではないのですが、いかんせん何をどうしたいのかよくわからないところが多かったのです。

 台湾では当年の興収一位を記録したという本作はしかし、日本ではR-18であり、性描写がたくさん出てきます。寡黙な本筋の一方で、この性描写が映画の「おかず」として機能してはいるのですが、ふむ、まあ、ふむ。

 台湾の性産業事情というのがどのようなものなのか、ぼくはよく知りません。中国よりはオープンなのかなあとも思うけれど、日本よりも進んでいるようにも見えません。日本の映像における性表現といえば当然往年の日活ロマンポルノやピンク映画があり、その後アダルトビデオ市場の隆盛が今日まで続いているわけですが、台湾にはそのような歴史があるのでしょうか。いや、別に歴史のあるなしなどどうでもいいのですけれど、こと本作において言うなら、ううむ、なんか、古くさいなあ、というのがまずありました。

 話は変わるようですけれど、現在のAVにおいても人気があり、ゼロ年代AV界で市場を広げた「S1ナンバーワンスタイル」というメーカーがあります。AVを観る諸兄において、S1の名を知らぬ者はおりますまい。このメーカーの特徴は単体系美少女、美女の女優名を前面に出して作品をリリースするところで、ぼくの大好きな恵比寿マスカッツの女優の多くも、このメーカーから作品を出しています。
 では、S1はなぜ売れるのか。
 美人女優を使っていることもさりながら、大きな特徴として、あのメーカーのAVはだいたい「緩い」んです。いや、緩いと言っても、むろんがっつりとした絡みを映しているのですが、映像から醸されるエロさが足りない。だからこそ、狭くてコアな客層には見向きもされない一方で、AVを見始めたりするような高校生、大学生などにはウケがいい。適度にエロい。

 ただ、それがゆえに、素朴さが無い。過剰さが足りない。肉体に言及していない。S1の監督が撮る作品には、職人的手つきは見えても、フェティッシュな変態性が一切見えない。
 
 この映画にもそれに似たものを感じました。S1のAVのような綺麗さは皆無ですし、むしろそれとは逆で汚いのですが、いかんせん過剰さと肉体への言及性が足りぬように思いました。生真面目で芸術的な映画が好きな人たちには、刺激的なエロと見えるかもしれない。しかし、ぼくのような品性下劣な人間からすると、何一つエロくないし、たとえば浴室で撮っているAVにしても、無様さが足りない。精液のインパクトに頼っている。
 足に煙草を挟んでむにゃむにゃやっているシーンでも、なんか、古くさいんだよなあと思いました。何のメタファなのか読み取れなかった。メタファとかじゃないよ、芸術的な構図だようんぬんと言われても、はあ、そうですか、としかぼくには言えぬのです。

 これは何なのかなあ、と考えてみるに、ひとつには「体温が感じられない」というのがあるように思いました。登場人物たちに体温がないんです。ではなぜ体温がないと感じたのかと言えば、身もふたもないのですが、彼らが何をどうしたいのかよくわからなかった。

 この映画は寡黙です。寡黙な映画は数多くあります。そういう映画はやはり、静かな中でも個々人の性格とか背景とか葛藤とか目的とかがあるものです。この映画の登場人物についていえば、ぼくはしばらくしたら全員忘れてしまうと思います。彼らがどういう人間なのか、まるきりわからないのです。出てくるAV女優が終盤昏睡していますが、どうして昏睡しているのかわからない。彼女はなぜ昏睡しなくてはならなかったのでしょうか。昏睡した状態でAVを撮るのもわからない。昏睡ものはありますし、それ特有の魅力はありますけれど、あの局面で撮らなきゃいけない理由は何もない。

 正直なことを言いますが、お話がよくわからなかったんです。たとえば主要人物の男がいて、彼はAV男優をしているのですが、ネット上にある解説文などを読むに、主人公の女に対して、彼は自分がAV男優であることを隠そうとしていたようなのです。なるほどそうなれば、終盤のクライマックスでそれが効いてくることもまあ解せます。
 しかし、わからない。なにしろ台詞が少なくて、彼らの考えていることがわからない。 というか、自分がAV男優であることを男が隠そうとする理由もわからない。

 ここにはなんというか、作り手の保守性というか、傲慢さを感じてしまうんです。AV男優なんて職業は隠して当たり前、知り合いのちょいと恋仲っぽい女性に対しては特に隠さずにはいられない。ということなのでしょうか。
 そういう社会通念があること自体はまだわかります。でも、そこを何の説明もなくさらっとやっているわけです。AV男優なんて正体はばらしたくないものだよね、それは言うまでもなく当たり前のことでしょう? っていうのを感じるんです。「彼氏がAV男優だったら嫌でしょ、そんなの説明要らないじゃない。言うまでもないじゃない。だから隠そうとする男の行動もわかるよね」っていうんですかね。いやいや、この映画のつくりならせめて女のほうから、「AV男優なんて嫌だわ」という一言は要るって。
 台湾社会では自明の通念なのでしょうか。たとえそうであるにしても、この映画は通常の社会の写し絵とも見えないし、ビルの屋上の貯水タンクで水浴するなんて無茶なことも行われているし、この映画で一般通念を説明なく押し通そうとするのは、ちょっと無理がありませんか? 水道の機能しない非日常、家族を持たない女、およそ一般的な状況から離れた基盤を用意し、ミュージカルに非現実性を持たせながら、自明の通念を利用する? ぼくにはわからない。

ミュージカルシーンにしても、結局飛び切れていないというか、現実と遮断し切れていない安っぽさがあります。あれはもう、現実と断ち切れている場面じゃないですか。ところがねえ、安いんです、なんか。ぼくは既にゴテゴテでデコデコな画づくりのものを観てしまっているし、かちっとした洋画のミュージカル映画も観ているし、そうなったとき、あのミュージカル場面ではもう、うわあ、なんか、想像の世界まで安いのかよ、というのがあったんです。低予算娯楽映画なら目線を下げて笑って観るけれど、この映画はそうじゃないはずで、だとしたらあの中途半端な盛り上がりのミュージカルは、あのレベルなら入れないほうがいいんじゃないかとさえ思いました。

ラストのフェラチオもなあ。
 登場人物の内面がうっすいので、ただのトリッキープレイにしか見えてこないんです。 いや、何か意味はあるんでしょう。横にチャイナエアラインのスチュワーデスの看板を置いて何事かを対比させたりしているんでしょう。過激さを狙ったのもあるんでしょう。 男根を咥えながら涙するところに、愛のなんちゃらを読み取らせたいんでしょう。
 でも、根本部分の、彼らの内面が、なさすぎやしませんか?
男が女に対して愛情をぶつけたかった? 別にあの状況じゃなくてもいいでしょう。
 職務を全うできていない駄目AV男優です。
 精液を口内に発射することが愛情の暴発? それならそれでいいけど、それに値する内面も物語もない。
 それならいっそのこと、内面をかなぐり捨ててファックを見せてくれる本物のAVのほうが、よほど感動的なんです。

ぼくはよくここで書くのですが、登場人物が筋書きの上を歩くような映画は基本的に好きじゃないんです。そりゃあこの局面ではこういう行動取るよな、というのがわからないと、ぼくは入り込んで観られないんです。

 本物の西瓜の魅力もわかりませんでしたが、本作『西瓜』もまたわからなかった。旨味を足してくれる塩はあったにせよ、「潮」を味わうならばもっと別の食材がありますから、ぼくはそっちが好きです。
語ってわかる良さがある。

 本ブログの記事も通算400を迎えました。読者の方々には大変感謝しております。とりわけレスポンスをくれる方の存在はとても励みになります。

 今年はなんといっても震災があり、原発事故がありの年で、原発については「過去」ならず「今」であるよりもむしろ「未来」をも侵食しかねぬ出来事でありますし、またそのためにぼくたちの多くはひとつの重大な「選択」を迫られることになりました。
 原発から漏れ出した大量の放射能は日本を、とりわけ福島を中心とする東日本を汚染し、その被害を避けるために西方へと「疎開」する人々も数多く出たようです。他方、ぼくを含めて多くの人間は、疎開することなく東日本にとどまり続けている。これは明確な「選択」の結果です。子供をお持ちの方であれば、その選択を子供に強いたわけです。子供の給食に何が出ているのか、放射性物質はどうなっているのか、それを確かめずに日々を過ごすことも声を上げるのも、大人の選択です。政府や東電を批判することとは別に、自分がどんな選択をしたのかを考えなくてはいけない。あとあと健康に被害が出たとしても、それは自分の選択の結果です。政府や東電の責任が大きいのは言うまでもないし、批判の声を絶やすべきではないでしょうが、その一方で、もしも被害が出たときには、自分が選んだ道の結果として受け止めることからも、逃げてはいけないというわけです。もしもいつか自分に放射能の影響が出ることがあったとして、ぼくはまず自分の選択を顧みることだろうと思います。逃げようと思えば逃げられたのに逃げなかった、ことについて、思いを巡らせることになるのだろうと思います。

 原発の影響は健康面のみならず、ぼくたちの社会認識を大きく揺るがすことになりました。何よりも、政府や既存マスメディアの言うことはまるで信用できないのではないか、と強く感じられたことです。今までだって信用していなかったことは数あれど、今年ほど露骨に、長期にわたって、信じられないと思わされた年はありません。長い目で見たときに、新聞やテレビなどのマスメディアがさらに凋落を見せたときに、今年はその大きな象徴の年になるのでしょう。それもまた、新聞社やテレビ局の選択の結果です。

そんな中で、よりいっそう「考える」ことが大切になりました。本ブログの性質上、これ以上社会についてあれこれとのたまうのは避けます。前置きが長くなりました。今日はブログ記事400ということで、「『映画を語る』のすすめ」と銘打ってお話ししたいと思います。ぼくが皆さんにお話しできることなど多くはありませんが、まあ一応その辺の人よりは「映画について語る」ことについては日常的にやっているわけで、その辺の人よりもお話しできることがあろうと思います。鼻くそをほじくり、屁をこき、じゃれつく猫に足のにおいをかがせながら読んでもらえば幸いです(それが幸いなのか)。

 映画を観るのが趣味である人は多かろうと思いますし、映画が好きでもないのにこのブログを読んでいる人というのはちょっと想像しかねるわけで、まあ皆さんぼくと同じように、ぼく以上に映画が好きで、ぼく以上に詳しい人もいらっしゃるであろうと思います。

 ぼくが今日述べたいのは、こんな映画が面白いよ、あんな映画がいいよということではなく、映画を観て、語ることは面白いよ、ということであります。

世の中には映画を毎日毎日観る人もいるのでしょうが、観てそれっきりにするのはずいぶんともったいない話だなあと思うわけです。話題の映画を見に行ったと言って、まあそれをツイッターでつぶやいている人もいっぱいいますが、ツイッターくらいではあまりにももったいないなあと思います。あるいは映画を観て、その後「余韻に浸る」などして、また別のものに目移りするというのは、これまたもったいないなあと思うわけです。

 映画を観たら、その内容についてぜひ語ってみてほしいのです。
 語ることによって出てくる味わい、というのが、映画にはあるのです。
 語る前までは気づかずにいたことに、気づくことがあります。
「ああ、自分はこんなことを考えていたのか」とわかることがあります。
 まさしく、映画について、自分で考えてみることになるのです。

ぼくがブログを書くときは、構成についてとかそんなのはぜんぜん考えていません。ゆえに大変だらだらした文章になるわけですが、その結果最初には思いもしていなかったことが出てきたりするのです。

 この場合、映画に詳しい詳しくないは何にも関係ありません。そんなことを言い出したら、ぼくは映画についてぜんぜん詳しくありません。大事なのは、映画を観て感じたことを少し掘り下げてみることなのです。たとえばある映画を観て、面白くないと感じた。じゃあなぜ面白くないと思ったんだろう、と考えてみるわけです。
 そうするとたとえば、「なんか主人公に感情移入できなかったんだよなあ」という回答が頭に浮かんでくる。そこでもうひとつ突っ込む。なんで感情移入できなかったのか。そこから脚本的な問題が見えてきたり、人物造形の問題が見えてきたりします。場合によっては、書いているうちに印象が反転する、という実に愉快な体験をすることもあります。その奥には、映画とは離れた、自分のものの考え方が見えてくるのです。

 ここで大事なのは、「それが中立的だったり客観的だったり的確だったりする必要はまったくない」ということです。そういうものが必要になるのは「批評」の世界のことでしょう。

 勘違いする人がいるようですが、このブログは「映画批評」をしているつもりも「映画評論」をしているつもりもありません。あくまで「映画評」です。

 何が違うんだこのやろう。

それはね、「評」の一語にとどめているのはね、「批評」とか「評論」には及びませんぜ、という表明なんですね。好評とか悪評とか評判という言葉における「評」と同じレベルなのですね。どちらかというと感想にも近い、いや感想そのものに思われるかもしれない、でも、評する部分もあるにはあるよ、というね。

 なんか中途半端だなこのやろう。

 まあまあ聴きなさい。ぼくの力点はね、人を説得するとか、的確な論評を加えるとかそんなことにあるんじゃないんです。あくまで、それを観て何を考えるかってことにあるんです。人それぞれが考えることなんだから、そりゃあ感想に近しいものにもなるし、自分の受け止め方の表明なんだから客観的なものじゃああり得ない。でも、それでいいと思うんです。土台、映画の見方なんて、人それぞれと言うしかないです。むしろ、誰かの批評や評論を読んで、そうなのか、ふむふむと単純に納得するだけになるなら、自分で考えなくなってしまいます。参考にすることは大事ですが、それぞれが生きてきた文脈があるわけですから、受け止め方は十人十色で構わない。自分で考えないやつのほうが、誰かの「批評」とか「評論」とかってものにしがみつきたがるんです。

 テンポが悪いって百万人が言ったって、自分にとって心地よいテンポならそれでいい。
 脚本が最悪だって百万人が言ったって、自分にとっていい物語ならそれでいい。
 誰もがみんな傑作だと言ったって、自分が駄作だと思うなら、それでいい。
  誰もがみんな駄作だと言ったって、自分が傑作だと思うなら、それでいい。
 
 ただ、そのときはぜひとも、その理由を考えてみてほしいわけです。語ってほしいわけです。言葉にして初めて気づくことがあるのです。

映画について「語り合う」ことはどうなのか、というと、これはこれで面白いと思います。ぼくは残念ながら現在、語り合えるという人が身近にほとんどいないので、ダイアローグの旨味については深くを語り得ません。でも、思うに、まずはモノローグで考えた方がいいんじゃないかという気もしています。喋っていて気づかされる視点、というのはとても貴重なものですが、自分でじっくりと、沈黙して考えてみて初めて出てくる自分なりのものというのがあるでしょうし、ダイアローグだとそこを深めることができないようにも思うのです。議論は大事ですし、大歓迎ですけれども、最終的にはわかり合えないとも思っています。

 もちろん、知識も重要だと思います。ただ、知識集めに偏重するオタク的な見方やトリビアルでマイナーな映画ネタで喜ぶというのは、あまりぼくの趣味ではありません。映画を観て、映画ネタのアーカイブを充実させるだけではつまらないです。映画をネタとして消費するのは、ぼくがもっとも忌み嫌う態度のひとつでもあります。

 映画を観るのはいいけど、語ってる暇なんてないよ、という人もいらっしゃいましょうが、映画を観る時間はあるわけですから、三本観るところを二本にして、余った一本分の時間を語ることに当てたっていいわけです。そこで映画を「観る」だけでは満たされない面白さというのが見いだせるのです。

映画は一般に「娯楽」のひとつに数えられるものだと捉えていますが、単に娯楽として享受するのはもったいないというものでしょう。娯楽は娯楽として楽しむのはいいとして、その一方で映画に何を見いだすのか、そこに醍醐味があるというものでしょう。

今回は「語る」ことについて書いてみました。「映画を」に続く熟語は多岐にわたりまして、「観る」「語る」「考える」のみならず、「語り合う」「知る」「紹介する」などもあるのでしょうが、ぼくにはまだまだ語り得ないことも多いのです。熟語を持てば持つほどに、「楽しむ」の文字が大きくなることだろうと思います。
 ぜひ、自分の言葉で語ってみてください。ぼくとしては「語るのを読む」のも、面白いですからね。

 いろいろ偉そうなことを書いたような気もしますが、まだまだ浅い部分でしか語れていないとも十分に自覚しております。知識も教養も経験も不十分ですので、ご指導ご鞭撻のほどを今後ともよろしくお願いいたします。
西部劇の武器を存分に活かした傑作だと思います。

原題『3:10 to Yuma』
 そういえばこのブログではぜんぜん西部劇を取り上げていないのですけれども、おそらくぼくは西部劇感度が高くないのですね。傑作と言われる昔の西部劇とかを観てもいまひとつ乗れないこと多々でありまして、どうも楽しみ方がよくわからん、というのもあったりするのです。『ワイルドバンチ』はわかるけれども、『リオ・ブラボー』がわからない、という人間なのです。

そんなぼくですが、本作は大変に面白かったです。西部劇の面白さというか、西部劇というものにぼくが潜在的に求めていたものが、ばっちり入っていたのです。
 本作は1957年の『決断の3時10分』のリメイクでありまして、そちらは観ていないので深い話はぜんぜんできそうにないのですけれども、なんというか西部劇ってつまりこういうことなんじゃないか、というのがひとつわかった気がするのです。おいおい話していきましょう。


 主人公のクリスチャン・ベールは南北戦争の退役軍人で、家族とともに貧乏な牧場暮らしをしています。戦争で片足を失い、借金にも追われてさんざんな目にあっています。
 そんな彼と息子たちは借金の交渉のためにと街へ行く道すがら、ラッセル・クロウを首領とする強盗団たちに遭遇します。命を狙われそうになりつつなんとか生き延びるのですが、向かった先の街でなんともう一度ラッセル・クロウに出会ってしまいます。
 しかしこのとき既にクロウは保安官たちに囲まれていて、お縄につくことになります。 彼はユマという場所にある刑務所に連行されることになります。 
 なんだ、ほっと一安心、と、そうは行きません。

 クロウの配下の連中が彼を取り戻そうと狙ってくるに違いないのです。ユマ行きの汽車があるコンテンションという町まで、彼を護送せねばなりません。大変に危険な旅になるだろうから無事連れて行けば大金をもらえる、というわけで、クリスチャン・ベールは同行を願い出るのでした。

「護送もの」というジャンルで言うと、ぼくが好きなのはイーストウッドの『ガントレット』や、マーティン・ブレスト監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ミッドナイト・ラン』が好きです。どちらも現代劇ですけれど、善玉と悪玉が呉越同舟でともに旅をしていくというのは緊張感の構造としてよくできています。両者の間でも、いつ逃げるんじゃないかという緊張感が生まれるし、彼らをまるごと狙ってくる相手に対しても緊張感が生まれるし、二重の構造があるのですね。

 本作はその辺を実に巧みに織り込んでいます。とてもよくできていると思うのですが、何か賞は受賞していないのでしょうかね。同年のアカデミー賞はと調べて観ると作品賞ノミネートもなく、他には『ノーカントリー』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。くわ、これは強敵です。『フィクサー』とか『レミーのおいしいレストラン』とかもあります。これはなかなかの粒ぞろいであります。アカデミー賞は映画会社の中で何を押すかとかそういうのも大いに関連しているとも聞きますが、ゴールデングローブ賞にもぜんぜんノミネートされていません。リメイクだからというのもあるのかもしれませんが、これはもっとちゃんと評価されてほしいと思います。IMDBを観るとノミネートこそあれ、作品として賞を取ったのは「ウエスタンヘリテイジ賞」しかないようです。

 本作は「旅団の中での緊張」「旅団の外からの緊張」「奪還をもくろむ敵との緊張」が綺麗に織り込まれ、その折りごとに異なる見方を提示してくれます。そしてここにおいて、西部劇というものの特質が存分に生かされていると思いました。

 日本の時代劇の場合、「秩序の不条理」が武器です。『忠臣蔵』がわかりやすいですけれども、「お上が決めたことだからどんなに不条理に思えても従え」というのがあって、その中でどう抗うのかというのが物語を厚くしているのですね。今年観た中でいうと『必死剣 鳥刺し』がその良さを活かしていますし、『13人の刺客』もまた秩序の不条理に挑戦していく話です。

 では西部劇はどうかというと、こちらは反対に秩序がありません。南北戦争で国内が分かれ、移民と先住民の対立があり、保安官はいるにせよその広大な国土ゆえに悪党はやりたい放題、キリスト教に頼るわけにもいかない。

 その背景を有したうえで、クリスチャン・ベールとラッセル・クロウの旅路はより意義深いものになります。ラッセル・クロウは人殺しの強盗ですが、この映画ではジョーカー的な役割を果たしています。道中、いわば善玉サイドであるはずの同行者を殺すのですが、そもそも彼が善なるものと呼べるのかが疑わしい。途中で過去の恨みからラッセル・クロウを殺そうとする相手が出てくるのですが、その場合も私刑はよくないと言ってクリスチャン・ベールがその相手に立ち向かう(2000年代のクリスチャン・ベールはまさしくバットマン的な存在として活躍していたのですね)。アパッチの襲撃をクロウの力によって助けられる。観ている側は悪人クロウを単なる悪として見なすことは許されなくなる。ぼくたちにとって、悪とは何か、秩序とは何かを突きつけてくる。彼が聖書の言葉を口にしつつも、終盤、聖書をまるで信用していないように描かれるのは実に説得的です。

きわめつけは終盤でしょう。この展開には驚きました。こういうことが起きる西部劇って他に何かありましたでしょうか。ばらします。

 二人がしばし留まることになったコンテンションの町のホテルをかぎつけ、クロウ奪還を狙う強盗団が駆けつけてきます。ここまではまあ予想できるところ。しかし、ここで強盗団のナンバー2、ベン・フォスターが町の人々に向かって叫びます。
「護衛の保安官たちを殺したら金をやるぞ!」

これによって町にいた何の関係もなかったはずの人々が一斉に敵になってしまうのです。 保安官はこりゃ駄目だと言って逃げ出し降参しますが、あえなく殺されます。
 秩序が完全に崩壊するのです。

 ここでバットマン的な存在、クリスチャン・ベールは「決断のとき」を迎えるんですね。 ラッセル・クロウからも、「逃がしてくれれば金をやるぞ。いいじゃないかそれで」と言われます。しかし、ベールは決断するんですね。

 ここではひとつ、過去に死んでいった仲間たちの存在が思い出されてぐっと来ます。
 今ここで折れたら、あいつらに申し訳が立たないじゃないかって。何のために死んだんだって。確かにここで折れれば賢いかもしれない。この状況を合理的に安全に回避するには賢明な方法に違いない。でも、それをするわけにはいかないんだ。彼が足を失ったときのエピソードもそれを助ける。もしもここで逃げたら、自分は一生誇りを持てずに生きていくことになるぞ。ベールは決死行に踏み切ります。

 クロウはクロウでこれまた格好いい。クロウの存在は実にこちらを不思議な気持ちにさせます。「俺は根っからの悪人だ」とうそぶくクロウを、ついに最後の最後に、ベールが動かしているんですね。ベールはついに勝利したんです。

アマゾンのレビウを観ると、星一つをつけているやつらがいて、「善人なのか悪人なのかはっきりしろよ」とか「ラッセル・クロウは単に頭のおかしいやつ」とか「要らないものが多すぎる」「見分けがつかなくなる」だそうで、お一人などは高校の行事で観ることになって、ほぼ全員の感想が「ひどい!」だったとか。ひどいのはてめえらの幼さだよと言いたくなるのですが、まあ学校では秩序を学べばよいので仕方ありません。
 

 上記の通り、何が善で何が悪なのか、秩序がぶち壊れている中で人はどのように揺り動くのかを追っているのです。何が善で悪かはっきりしないと観られないなら、昔の仮面ライダーを延々と観ていればいいのです。実写映画版『怪物くん』とかを観て洟を垂らしていればいいのです。

 最後に、原題にもなっていますが、アメリカにはユマという町があるのですね。ユマといえばぼくにとってはユマ・サーマンでも中村由真でもありはせず、もちろん恵比寿マスカッツの現リーダー、麻美ゆま様であります。ゆま様をユマに連れ立ち、「ここは君の町さ!」と言いたいものであります。阿呆のきわまることを言って、今日はここまで。
ほえーっとしてしまいます。地上波テレビでやっても好評を博すはずです。

 暗い映画が続いたので、ここら辺でまったく雰囲気の違う映画をと思い、評価が高くてちょいと気になっていたアニメを。

 作家の高樹のぶ子の自伝的小説をアニメ化したものです。監督の片淵須直という人の作品は観たことがないのですが、この作品を観ると他のものも気になってきます。
 制作はアニメ会社として名高いマッドハウスで、同じ年には『サマーウォーズ』をヒットさせていますが、個人的にはこの『マイマイ新子』がもっとヒットしてもよかったと観てみて思いました。『サマーウォーズ』は相当持ち上げられたように思うのですけど、なぜだかどうして『マイマイ新子』のほうは一部で話題になったくらいのようです。これは地上波のテレビで放送しても結構好評を博すと思いますよ。知名度がないから最初はあまり視聴率を取らないでしょうけれど、二度三度とやっていけばジブリ作品みたいにウケるはずです。家族そろって観られるし、テレビでぜひやるべきでしょう。



 舞台は昭和三十年の山口県周防市で、田園が広がる田舎です。感じとしては『となりのトトロ』にも似ていますね。キャラクターの画は昔の世界名作劇場っぽくて、おじいさんは『ハイジ』のおんじにも似ているし、主人公の少女たち二人も『ハイジ』に出てきそうな感じです。そういう意味でも、テレビ放映には向いているはずです。

 主人公の新子は小学校三年生ですが、ちょっと声優の声が大人っぽいというか、女子高生っぽいのは気になりました。最初のモノローグで、ああ、これは声優じゃないな、と思ったらその通りで、どうもメインキャラクターには声優があまり使われていないんですね。
 
 世の中にはアニメ好きが多くて、その中でも声優好きという人はかなりいるように思うのですが、そういう人たちはアニメの一線に声優が起用されないことについてはあまり何も思わないのですかね。萌えアニメの声優に萌えて満足、歌手デビウして紅白に出たりすれば満足、という人たちなのでしょうか。本当にアニメが好きなのでしょうか。どうもぼくとは認識の仕方が違うのであるなあと思います。

まあいいや。
 そこがちょっとノイズになったりしたのですが、つとめて気にせぬようにして観ていくと、映画それ自体はとてもとても良質なものでありました。終盤ではほろりと来たのでした。


 まずこの映画のもたらす田舎描写、自然の中の子供たち描写というのは、実に秀逸でありました。すっごいベタなことを言いますけど、「田舎はいいなあ」と素直に思いました。ぼくも育ちが田舎ですから、いろいろとくすぐられるんですね。もうベタなことしか言えなくて恐縮ですが、ああやって自然に囲まれて過ごす子供時代はなんて尊いのだろうと感じたのです。反面、これまたベタですが、現代の東京をはじめとする都会で子供を育てるってのは、うーん、なかなかちょっとどうしたものなのだろうな、というのも感じたりはしました。

 もちろん現代の都会の中だからこそ涵養できるものってのもあるはずですが、そういうものに強い疑いを差し挟んでしまうくらいに、この映画に出てくる環境のみずみずしさにやられたのでした。大きな出来事は後半になるまでは出てこないのですが、時間の流れ方も心地よかった。ああ、こういうのは、大事であるなあ、とつくづく。

 新子が暮らす田舎に、都会から貴伊子がやってきて、仲良くなるんですけど、こういういわばベタな友情の芽生えを映画で観たのも久々な気がして、暗い映画を最近は観ていた分余計に来るものがあったのかもしれません。二人の対比もいいし、余計なことを何もしていないし、一方小さなエピソードの数々は大変にほほえましい。色鉛筆のくだりとか、チョコレートのくだりとかね。

 うん、さっきからいろいろ言葉を探しているのですが、あまり見つからないんです。ただ、「いいものを観たなあ」とほえほえした気分なんです。ほえーっとさせてくれる映画って近頃なかなか観ずにいたので、ほえーっとしたい人にはお勧めです。

 自然いっぱいの田舎の一方で、街場も出てくるんですけど、この街場は街場でいい味を出しています。ノスタルジーものっていえば、『オトナ帝国』にせよ『ALWAYS』にせよ、結構「押し」の懐かしさなんです。懐かしの記号を出してくるじゃないですか。この映画はそういう記号をほとんど出さないんです。ああ、ひとつにはそれがあるのかもしれません。記号に頼らず、小さな出来事の蓄積によって見せていく。

 たとえば映画館に忍び込むシーンでも、そこで上映されている映画が何かってことは本作ではどうでもいいんです。やろうと思えばここで有名映画名をどんと出して、懐かしの記号を入れられるけど、そんなのはどうでもいい。大事なのは、そこで忍び込んでみんなで映画を観た、というその行為の記憶です。だから映画では架空の映画名になっているわけで、下手に現実に頼ろうとしていない。金魚の埋葬にしても、そこでみんなそろって埋葬をしたという行為が重要なんです。そうした行為の丁寧な積み重ねが、映画を支えている。子供の頃は小さな出来事が大事だった、というのがすばらしくよく描かれている。

 ある出来事が起こるんですけど、そのあとで新子と上級生のたつよし少年が夜の盛り場に出て行きます。ここは目頭が熱くなってしまいました。新子の声が強すぎる、というのはあるんですけれど、否応なく必死に大人と対峙している様には、そりゃあ打たれますって。 

この映画はもう少し時間をおくと、もっとじーんわり来るかもしれないです。ジブリでいうと、『おもひでぽろぽろ』とか『海がきこえる』とかが好きな人にはてっぱんでお勧めしてよいと思いますね。で、他の人にもぜひ観てほしい、と思いますね。まだまだ語れていないことは多いのですが、自分の中で発酵させたら折に触れて語ることもあるでしょう。日本テレビも繰り返し同じジブリ作品を流すくらいなら、一度くらいこれを流してみたっていいはずです。十分に匹敵、あるいは凌駕する出来だと思います。
反戦映画の極北

 原題『Johnny Got his Gun』
「ずっと観たいと思っていた」シリーズ。
前回の『震える舌』に続き、これまたうんざりさせられる映画でありました。
 監督のドルトン・トランボは原作者でもあり、監督した作品はこれ一作のみ。赤狩りに抗いながら脚本家として活動し、偽名で『ローマの休日』の脚本を書いたのもこの人であります。
 タイトルの『Johnny Got His Gun』は第一次世界大戦時の志願兵募集を呼びかける文句『Johnny Get Your Gun』から来ているそうです。「ジョニー、銃を取れ」と言われて戦場へ行った結果、とんでもないことになってしまった男の話です。

戦地で負傷したジョニーは四肢を失った上に顔を丸ごと吹き飛ばされ、一切の意思疎通手段を無くしてしまいます。首を動かしたり胴体をゆすったりすることはかろうじてできるし、皮膚感覚もあるし、周囲の振動を感知することで人の動きなども少しだけならわかるのですが、可能なのはそれだけ。しかし反面、皮肉にも意識だけは鮮明にあるという、きわめて絶望的状態なのです。

 近年で言うと、若松孝二監督の『キャタピラー』が似たような状況になった負傷兵を描いていました。あの映画では四肢と言葉を失った男が出てきました。目や耳は機能しているぶん、このジョニーに比べれば被害は小さい。あくまで、ジョニーに比べれば、ですけれど。ちなみにあの映画に関するぼくの感想ですが、映画のモチーフそれ自体には考えたいことも多いと思った反面、寺島しのぶがうるさすぎました。演出的にも好きじゃなかったところが多いのですが、寺島しのぶの「熱演しています」感がうっとうしい。ぼくは寺島しのぶが好きじゃないかもしれないです(判断保留)。

 戻ります。
 現代で言えば、乙武さんのように先天的な障害を抱えた人がメディアに登場し、彼が「不便ではあるが不幸ではない」という肯定的な生き方を提示したことで、おそらくはぼくを含めた多くの人々がいろいろなことを感じたのでしょうけれど(この辺は言い方がちょっと難しいです)、今まで当たり前にあった体の機能を失う、ということについては、やはり恐怖をぬぐい得ないわけです。

 特にこの映画のジョニーの場合は、本当に何もできないですからね。機能する五感と言えば触覚、それも微々たるものと、痛みに過ぎない。ただ、意識だけがある状態。月並みですが、これ以上の絶望感があるだろうか、ということです。


 劇中では過去の出来事や夢見も描かれます。この映画の構成は、ジョニーと観客をシンクロさせます。というのも、ジョニーが置かれた現実の状況はもうただ辛さばかりがそこにあり、言いたいことはあるのに一切伝えられないもどかしさが募ってただ苦しい。観ているほうもまた、実にうんざりとする。だからこそ過去の記憶や夢見が活きてくる。ジョニーにとってそうであるように、観客にとってもその場面が救いになる。今となっては顔もわからないジョニーに対して、観客は知らずのうちに感情移入します。現実と非現実の対比、それがこの状況をよりくっきりとさせ、気分を落ち込ませます。

 ウィキによりますれば、原作は1939年に出版されてから、戦争のたびに復刊と発禁を繰り返されたそうです。近年はもうそういうことはないのでしょうけれど、そりゃあこの内容だと戦争を起こそうという気分は消沈するしかないです。反戦映画というのは数あれど、なるほどその衝撃力はトップクラスといえるかもしれません。

 前にも書きましたけれど、松本人志が『シネマ坊主』で戦争映画について語ったときに、「戦争映画は面白いと思わせては駄目なのだ」というようなことを言っていました。戦場の迫力だの何だので、気分を高揚させるようなものじゃあ駄目なのだ、ということです。
「戦争映画はつまらなくていいし、戦争は最悪やなと思わせるような映画こそがあるべきものなんじゃないか」と言うのです。

 この辺について考えてみると興味深いというか、一人で脳内議論が生まれそうです。たとえば「残虐表現と教育」について言うなら、「残虐表現に触れたからと言って残虐な人格になることはない」という科学的データがあるようですし、一応社会的には、殺人ものや暴力もの、残虐ものの映画などは受け入れられている。『悪魔のいけにえ』を観ようが『十三日の金曜日』を観ようが『ホステル』を観ようが、別段反社会的人格を生むことはない、とされているわけです。

 ただ、それはあくまで個人レベルの話です。戦争は社会レベルのことになりますから、「戦争映画と社会」「戦争ゲームと社会」については同じような論理を採用できないのではないかとも考えたりします。殺人とか暴力とかっていうのは自分の身近なものとして想像できるし、等身大の感覚でわかるし、こういう言い方はあれですけど、「日常」と表裏一体のものとしてあるわけです。明日、道で巻き込まれないとも限らないから、警戒心だって持つ。殺人の報道などを見て、日頃から多少なりとも何か考える。
 他方、戦争について思い巡らせることは、幸いにして日常の中では起こらない。少なくとも、日本や欧米の生活圏では起こらない。自衛隊や軍隊を別にして、一般の生活をしている限りは、(現代の大半の世代は)被害を受けた記憶もないし、受けるという風にも思わないでいられる。
そのとき、戦争ものの表現が社会にとってどう働くかについては、十分な研究の蓄積が得られていないと思うんです。少なくとも犯罪もの、暴力ものよりはね。だからねえ、戦争映画については、残虐表現ものとは別の部分で、ちょっと戸惑うときもあるんです。

 話がそれましたが、そういう意味で言うと、『ジョニーは戦場へ行った』は反戦映画として実に強度なメッセージを放ってくれます。アメリカがまた戦争を起こしそうになったら、反戦運動の人たちはこれをがんがん流すべきなのではないでしょうか。イラク戦争の時はどうだったのでしょうね。最近取り上げた反戦映画的なものでいうと、『まぼろしの市街戦』がありますけど、あれって、「戦時下がゆえに花開いたパラダイス」を描いた側面がちょっとあるじゃないですか。あの精神病院の患者たちのお祭りは、戦争があったから実現している。してしまっている。そんなものは、『ジョニー』にはひとっかけらもないですからね。これはどんな風に見たって、もう戦争が嫌にしかならないですから。

 そんなジョニーが、自分の意志をなんとか伝えるシーンがあって、これもまた辛いです。周囲の人々が彼と意思疎通できることを知り、「何か望むことはないか」と彼に尋ねるんですが、このときの返答がね、うん、ひとつには「殺してくれ」なんですよ、最終的なメッセージはね。それは観ていても、そう言うだろうなと予想できるし、自分が仮に彼の境遇に陥ったらそう言うんじゃないかと思いますよね。

 ただもうひとつのほうがねえ、うん、くるんですね。あるお願いをするんですけど、「それこそが自分にできる、唯一のことなんだ」っていうのがこもっていてねえ、うん、いや、これは実際に観て確認してください。そこには、絶望を突き抜けた希望があります。万感の絶望に落ちた人間だけが放ちうる言葉なのでしょう(という言い方が軽すぎるのは知っている)。

とても嫌な映画です。戦争というと大きな出来事だから、つい目線を社会のレベルに引き上げたり、政治のレベルに引き上げて論じてみようとしたりしがちだけれど、本作はそこからぐうっと一気に、「自分の身体」というものまで小さくして語っていて、だからこそ生身に応える。骨身から戦争が嫌になる。

「反戦映画」の金字塔として名高い本作ですが、なるほど今までに観た中でもいちばんかもしれません。本当なら映画の作り手は、折に触れてこうした映画をつくるべきなのかもしれません。個人的にはセルゲイ・ボドロフの『コーカサスの虜』と本作を続けて観ることをお薦めします。戦争が本当に本当に嫌になります。
観ていてうんざりするのが正しい見方。


松竹のDVD発売で、トラウマ映画の名作としてイチ押しとなっている作品です。宇多丸さんが「怖くていまだに観られない」とまで言っていて、ネットでも怖いど怖いどと名高くて、どんなもんじゃーいと思って、『震える舌』。

渡瀬恒彦、十朱幸代が主演で、お話はというと彼ら夫婦の娘が破傷風にかかってしまう様子を描いたものです。原作は作家の三木卓という人が書いていて、彼の実体験がベースになっているそうです。

 序盤を除きほぼ全編が病院の中で進行し、なおかつ娘への光刺激を防ぐためにと真っ暗な病室の中がメインの場所になるので、とてもとても狭苦しく、閉塞した感じがずうっと漂っています。意識をなくした娘の病状の悪化、治療、回復が断続的に繰り返され、夫婦が看病疲れしていく様が描かれるばかりの映画です。

 怖いど怖いどというのを聞いていたので、心構えができており、そこまで震えるようなことはなかったのですが、確かにこれを子供の頃に覚悟もなく観たなら、ああ、トラウマになるのかもしれぬなあというインパクトは随所にありました。

 トラウマ映画、という概念が町山さんの本で広まって、いろんな人が自分の観た作品を語ったりしているようですが、ぼくはというと実はあまりそういうのがないんです。唯一あるのがすんごいぼんやりした記憶で、もしかしたら前回取り上げた『この子の七つのお祝いに』のものだったかもしれませんが、どうも違うような気もするのであり、いまだに確証がありません。トラウマというほどでもないし。

 トラウマ映画があるのは羨ましいなと思います。子供の頃に、映画というメディアに対する畏怖の念みたいなもんをインストールされるわけですから、そういうのがある人はいいなあと感じます。映画じゃないのならあるんですけどね、今ふと思い出したのがテレビアニメ『21エモン』の「ゼロ次元の恐怖」という回です。お年寄りが「社会における役立たず」として処理され、何もない空間に吸い込まれていくシーンがトラウマです。あと、本なのですが、講談社KK文庫の『学校の怪談』が怖くて読めなかった。話うんぬんよりも、挿絵がものすごく不気味だったんです。漫画とかでも思い出していけばありますね。『コミックボンボン』が好きだったのですが、あれのデラックス号に掲載されていた怪談漫画とかが怖かった。ふむ、ふむ、でも、映画は思い出せないなあ。悔しいなあ。

 戻ります。
 この映画の怖さのひとつは、娘の描き方とあの子役の雰囲気でもあるのですね。
 若命真裕子という子役なのですが、この子が可愛くない。いわゆるひとつの「可愛い小さな女の子」というのではないんです。存在として大変に弱々しい。この映画の脚本が面白いのは(原作は知りません)、序盤からすぐにこの子を病気にかからせてしまうところですね。健康体だった少女が罹患する、というのではなく、もう最初の段階からおかしくなっている。だから観ている側には、この子を愛する時間を与えられないんです。この子の幸福な瞬間を見ていないし、笑顔を観ていない。ああ、可愛い子供であるなあという風に思えない。だから、難病の話なのに、哀れさとか幼気さとか切なさとかは前に出てこなくて、「恐怖」が植え付けられるのです。ゼロ年代には難病ものや余命ものが日本映画で流行したりしましたが、あれは元気だった彼や彼女が病気に陥って、哀れや哀れ、ああ生きることの感動ぞ、というつくりですが、これはそうじゃない。生きていることの感動とかそんなのはない。ただ、うわあ、えらいことになった、怖いなあと観客は傍観し続けるしかないのです。

 そう、この映画にはいわば、「傍観させられることの恐怖」があるのです。
 映画においては多くの場合、主人公をはじめとした登場人物に感情移入をして観ていく構成が取られます。ベッドでのたうつ少女を救う話、というのならいわずもがな、あの『エクソシスト』がありますが、あれだって悪魔払いを頑張るカラス神父に移入できる。

 この映画はどうか。
 確かに夫婦に移入することはできる。でも、彼らはカラス神父と違って、何もできない。ただ発作が起こらぬようにと見守ることしかできない。なおかつ、この映画の場合はこの娘を可愛く思えるような構成は取られておらず、ゆえに夫婦と一緒になって娘を心配する気持ちになりづらい。いや、実際に子供を持つ親の立場になれば別なのかもしれませんが、少なくともぼくには、なんとか助かってくれ、元気になってくれと励ます気持ちでこの映画を観ることができなかった。ただ、傍観させられ続けた。
 

 悪いニュアンスで言っていると思うならそれは誤解です。むしろ、この映画は、所詮傍観者に過ぎない観客に対して、積極的に傍観的立場を強いるつくりを取っている。ゆえに、観客にはひときわの無力感がもたらされ、あの狭く暗い病室の雰囲気と相まって、疲弊感を与えるのです。そしてその疲弊感によって観客は夫婦の疲弊感とシンクロし、いつの間にか映画の中に取り込まれてしまうのです。ぼくたちは傍観するしかない。そのことを二重でたたき込まれ、恐怖する。この映画の享受の仕方は、他の映画ではあまりできないことです。 

劇中ほとんど寝たきりの娘ですが、ちょっとした刺激で発作を起こしてしまいます。そのとき舌を噛んで口が血まみれになる。こういうシーンも身体への言及として演出効果をもたらしています。それでいて、彼女とは一切意思の疎通が図れない。観客は彼女を愛せない。可哀想と思えない。ただ、怖く映ってくる。『エクソシスト』はまだいい。あの映画はオカルト的な部分が非現実性を与えてくれるから、まだ映画的な出来事として処理できる。でも、この映画にはそれすらない。

役者でいうと、主演の二人はもちろん、中野良子という女優の小児科医がいいですね。 めちゃくちゃお上品なのです。差し障りがありそうな言い方ですが、「皇族じゃないか」と思うくらいにお上品です。現代においてはほとんどリアリティを持たないくらいのお上品さですから、そこも必見であります。疲弊していく夫婦の姿と対比される冷静さによって、より夫婦の困憊ぶりが引き立つわけです。

 結末について述べますぞ。知りたくない人はそろそろ去ってくれろ。


 最後はまあね、ちゃんと回復しなきゃまあ救いがなさすぎますものね。これでもし死んで終わっていたらもう、トラウマ映画過ぎて復刻されないかもしれませんものね。落ち着くべきところに落ち着いてよかったなあ、です。回復したときにも、ぼくは「ああ、よくぞ回復した、よかったよかった」というより、「やっとこれで終わってくれるのだなあ」という安堵のほうが強かったですね。あの疲労感はもういやだよ、と思わせるだけの中盤があります。ただ、渡瀬恒彦がジュースを買って突っ走るシーンはほろっときました。転んで缶ジュースが転げてしまうのを必死で拾うシーンなんかは、なんというかね、これは子供を持つお父さんならば泣いてしまうのではないですかね。

 中盤はもう繰り返し繰り返しですからね。そのたびに悪くなるし。だから物語としての抑揚はないんです。音楽で言うと、いやなリズムが繰り返されて、ショック音が時々鳴ってびびらされるから、おいおい、もうなんとかしてくれよ、というばかりの気持ちになるのです。だからこの映画の成り立たせ方というのは、かなり特殊だと思います。人によっては、もしかしたら、「ずうっと病院の中で闘病と看病の様子が描かれるだけで退屈だ」と思うかもしれない。でも、それがこの映画なのです。うんざりしてなんぼ、なのです。これをエンターテインメント的に仕立てると、この味は出ない。観て、途中でうんざりすることこそ、この映画の正しい見方といえるのではないでしょうか。
増村保造の最後の映画ですが、増村保造的な映画ではないと思いました。


松竹のかつての作品が新たにDVD化されていて、そのひとつとして推されていたのが本作です。ツタヤで発見するまで増村保造の映画だとは認識しておらず、およよこれはと思い借りてきました。本作は角川映画で、増村が監督を務めた最後の映画です。

 既に亡くなった日本の監督で、誰が一番好きかといわれればまずぼくはこの人の名前を挙げます。『巨人と玩具』に撃たれ、『盲獣』に撃ち抜かれたものです。時間は90分程度の短いものが多いのですが、その中にぎゅぎゅぎゅっと詰め込んで勢いで持って行く力や、イタリアのネオ・リアリスモの監督たちに学んだ独特の画づくりが、他の邦画とは異質な「増村映画」というジャンルを作り出しているようにも思います。などといいつつ、まだぼくは半分も観ていないのですが。

増村保造の演出というのは、現代までのテレビドラマにも大きな影響を与えたのではないでしょうか。大映の監督だった彼は70年代にはドラマの演出も数多く務めていますし、映画の台詞のやりとりなども映画的な間よりもテレビドラマ的なテンポを重視しているように思えるのです。『清作の妻』を観たときにそれを強く感じ、『卍』や『兵隊やくざ』などを観ていてもやはり「間よりもテンポ」という姿勢が強くあるように思いました。その最たる例が1959年の『巨人と玩具』、あれはとてつもなく「早い話」でした。観たことがない人は是非観てみましょう。「うむ、早い」と思うでしょう。作家の阿部和重は『巨人と玩具』をして「史上最速の映画」と言っています。あそこまで早いともうドラマ的やりとりをも超越しているわけですが、監督自身はこの映画の批評が芳しくなかった当時に、「俺は十年早すぎた」と言ったそうです。十年どころではなかったのかもしれません。

 テレビドラマ的、と書きましたが、物語進行テンポややりとりについては、あるいはハリウッドの昔のスクリューボールコメディに近しいのかもしれません。現代の市民生活を描いたコメディ『最高殊勲夫人』などは、「1958年の日本映画」としてはかなり異質なのではないかと思いますが、いかがでしょう。むしろ洋画的風合いさえ香ってきます。


 洋画的風合い、ということで言うなら、彼以上にいわゆる「モダン」な雰囲気をもたらす邦画監督をぼくは知りません。いびつな空間を描き出した『盲獣』の場面設計にせよ、『でんきくらげ』『しびれくらげ』における渥美マリの振る舞いにせよ、ああ、モダンであるなあ、と感じ入ります。

 彼が描き出したものは、日本映画やテレビドラマを前進させたのではないかと思うのです。50年代から既にいくつもの映画を監督していた彼が70年代のテレビドラマで演出を務めたというのも、映画産業が斜陽化し、テレビドラマが人々を魅了するようになったことと関係があるように思うのです。モダンな雰囲気を持ち、他の監督にはないテンポで話を進められる増村はドラマというメディアと非常に相性がよかったわけで、やはり彼はどんどん先へ先へ行こうとしていたのでしょう。東宝のような大作映画や東映のようなシリーズ映画とはまったく別の路線で、彼は日本の映画、ドラマを引っ張り続けていたのではないでしょうか。

さて、前置きが長くなりましたが『この子の七つのお祝いに』。
 タイトルからは内容が読めず、パッケージからするとホラーテイストかと思いきや、むしろまじめなサスペンス路線でした。殺人事件が起こり、新聞記者がその犯人、真相を突き止めようと走り回るお話です。

 長々と増村保造の話を述べましたが、1970年代までの増村映画のような魅力があるかと言われれば、その点は減じておりました。60年代までのパワフルさは映画にはなかったし、「時代が増村に追いついてしまった」感というのはあったように思います。当時には既に同じ角川映画で、カットスピードが早く外連味のある市川崑の金田一シリーズがあったし、一方では大林宣彦のような「変な映画」を撮る人も出てきていた。ATGでも長谷川和彦の『青春の殺人者』みたいな破壊力のあるものがどんと出てきた。増村はそこにきて、むしろまじめで見やすいサスペンス映画を撮っていたのでした。これを増村保造の映画だと知らなければ、おそらくまったく気づかずにいたでしょう。

さて、ここからはわりと内容に踏みいりますゆえ、そのおつもりで。

 冒頭は岸田今日子と娘の貧しい生活に幕を開けます。岸田は別れた夫に捨てられた恨みから、娘に「大きくなったら父親に復讐せよ」と言い聞かせます。

 そして、まあ舞台は変わり、殺人事件だのなんだのがいろいろと起こりまして、調査だ調査だとなるのですが、このあたりの展開がねえ、ぼくは個人的には面白みを覚えないところではありました。

 というか、ぼくは基本的に、ひとつの事件の真相を追いかけるタイプの話が退屈になってしまうのです。小説などでも、事件が起きて捜査をして、でもそれがなかなか進まないとか、そういうのが出てくると投げ出したくなるのです。本作は最初の方にかましもあるんですけど、そこからがわりと普通のドラマみたいで、白熱するテンポもない。

 岩下志麻が出てくるんですけど、彼女がキーパーソンなのはそのネームバリューからも丸わかりで話がじれったい。もう岩下志麻が絶対怪しいってわかっちゃうわけです。でも、話はなかなかそこにたどりつかず、後々になってから、「えっ、あの人が!」的になってしまうので、うわあこれは観ている方は追い越しちゃうよ、と思うのです。この映画は増村映画としては長尺で1時間50分以上あるのですが、うむ、長かった。

 じゃあその背景がたとえば『砂の器』みたいな風に広がるのかというとそこまででもなく、「岸田今日子力」と「岩下志麻力」でなんとかしているきらいが強い。中盤で杉浦直樹が殺されてしまうのですが、こっちはこっちで「杉浦直樹」力がそんなに強くないという。子役はかわいらしいですが、演技自体は「お母さん」を連呼するだけで工夫がない。増村保造はこのテンポで人物の背景や立体像を描いてきた人じゃないんです、おそらく。この映画はそれこそ『砂の器』の野村芳太郎監督とかの系列だと思うんです。

お話の真相自体はというと、ふむ、まあ、岩下志麻は可哀想ではあるけれども、というかですねえ。おかしな母親に刷り込みをうけると実に辛い生き方を強いられるなあと思いますが、そこにもうちょっと力点を置いてもいいんじゃないかなあこの話。占い師のどうたらとかはどうでもいいっちゃどうでもいい。

 岩下志麻のあの役の過去というのは、確かに辛いものがあるんです。自分の母親に刷り込まれたことを実行した=自分の人生を犠牲にしてでも業を背負った、にもかかわらず、岸田今日子は自分の実の母親ではなく、むしろ自分の人生をその最初で狂わせてしまった人間だった。話としては、未見で未読で恐縮ですが、最近の『八日目の蝉』などよりも遙かに辛い、自分が信じてきたものが完全に粉々になってしまうという恐ろしい話なんです。

 ただ、それを「実はそういう真相だったのだ!」で推そうとするくらいだったら、端からそれなりに提示しておいたほうがよかったんじゃないですかね。もしくはもっともっとそこに熱量を込めなくちゃいけなかった。調査したりなんなりってことに時間を割くよりも、『砂の器』的な過去の悲劇にもっと力点を置くほうが絶対に映画のパワーとしては強くなったと思うんです。そのほうが岩下志麻の怪演により悲劇性がこもったと思うんです。途中まで、単に彼女は刷り込みの業にとりつかれていただけに見えますからね。そこについては、観客の知識が登場人物の認識を追い越してもいいと思うんです。

 で、これはあくまで物語的効果の話ですが、岩下志麻にあの父親を殺させたほうがいいんじゃないか。そのうえで真相がわかれば、これはもっとえげつなく悲劇性のある話になった。業に翻弄される人間としての像がよりくっきりとした。

 そういった点で、増村映画の弱点が浮き出る映画でもありました。勢いがないときの彼の作品は、物語的な強度それ自体が弱々しくなってしまうことがあります。『痴人の愛』『卍』あたりでその辺が色濃く出ていた。彼の大きな業績を抜きにしてこの映画単体に感じたのは以上のようなことであります。
真面目さが心地よい。高みを狙うジョディがレクターにぶつかって生まれる快感。

もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。
 
 原題『The Silence of the Lambs』
映画をよく観るようになる前、今からかなり前に観たので、忘れていることばかりでしたね。いまさらぼくが褒める必要もないとも思いますが、実に程よく楽しめる作品です。

 ハンニバル・レクターのモデルとなったのは大量殺人鬼のヘンリー・リー・ルーカスとかアルバート・フィッシュとかと言われていますね。平山夢明の『異常快楽殺人』という本を結構前に読みましたけれども、えげつなさがフィクションを遥かに超えていますね。『悪魔のいけにえ』のモデルであるエド・ゲインとか、もう「人を殺すことが何でもない人たち」ってのがいて、いや何でもないならまだしもですが、それが快楽と結びついてくるってのは、笑えなすぎて笑えてくるくらいにどうしようもない。

 その生まれ育ちがそもそもぐちゃぐちゃだったりしますからね、よく「狂ってる」とか言うけれど、狂う狂わない以前に、倫理や道徳が端からインストールされていないんです。貧困やら虐待やら度重なる不運やらでぐちゃぐちゃのまま大人になって、その状態で野放しにされたら、そりゃあどうしようもない存在になってしまうかもしれません。

レクター博士はそれをあくまで背景にしつつ、さながらホームズ的な知性をもって迫ってくるため、見ている人間は否応なく身構えてしまうわけですね。登場シーンでジョディ・フォスターに対面し、高い洞察力を示す。ホームズ登場のパターンと同じです。服装やら喋り方やらでその人の背景を見抜くというのは、現実的な「かまし」としてこの上ない手法と言えるでしょう。そういえば『踊る大捜査線』の映画版第一作でもぱくっていましたね。まあなんとも綺麗なぱくりです。あの頃のぼくは『羊たちの沈黙』を知らず、ふわあきょんきょんは怖いなあすごいなあと思っていましたけれど、このレクターを知ってからはもうださいんですね。

こいつは何かしでかすぞ、さて何をしでかすんだ、と思わせた時点でこの映画はもうほとんど勝ちじゃないでしょうか。観客は可憐なるジョディ・フォスターに感情移入して、怯えながらも手がかりを求め、彼の傍に行きたくなる。この頃のジョディは素敵ですね。『コンタクト』のときにはもう自信がみなぎりすぎて手がつけられない感じになっていたし、『パニック・ルーム』のあたりではもう頼れるママモードでガン押ししたい感じが酷いことになっていた感があるのですが、この頃はまだまだ高み狙うのよあたしはという野心がありそれがレクター博士とぶつかりあって、あの対面シーンの良さが生まれたのでしょう。


今観ると、結構「レクター接待モード」がどうやねん、というのもあるんですけれどね、たとえば外に出される途中でペンを盗んだとわかるところも「あんながちがちにされていてどうやったのだ」という話ですし、檻に入れられている場面も警官のぼんくらさがまずいから、さあレクターさん脱走してくださいみたいな展開にも映るし、皮を剥いでまんまと抜け出すシーンも、あれは警官たちのぼんくらさに助けられているから綺麗に映るけれども、あればれてたらもうそれで終わりやんけかなりすれすれやなというのもあるし。まあその辺は映画的ご愛敬なのですね。


クライマックスにはぜんぜん絡まないレクター、というのは、久々に観て新鮮に映ったところでした。あれ、これどうやってレクター絡むんだっけと思ったら絡まなかった。ジョディの映画になりました。あの犯人は敵役としてはレクターよりもずっと格が劣るわけですから、映画のつくりとしては結構危険な一手だと思いますね。途中でレクターが見事に脱走して、さあどうなるねん、ジョディにどう接近していくのかな、それとも何か別のあれがあるのかな、と思いきや、それはないですから。ストーリー的には最初から目的とされていたことを成し遂げたわけで、なんら突っ込みたいこともないのですが、勇気あるなあとも思ってしまいます。あれ、なんとかレクターを絡めたいと誘惑されると思いますもん。せっかくあんないい感じで中盤まで引っ張ったダークヒーローを出さないわけにはいくまいと思いたくなりますもん。そこを、「いやいや、当初の任務遂行が先です。レクターはそれからの話です」という真面目さはいいなあと思います。それでいて最後に、さらっとにおわせるところで観客を惚れ惚れさせてしまうってのは、これはかなりの高等技術ですぞ。

グロ描写も短い時間ですが随所に挟み込んでいくし、幼虫とかを出して観客に生理的嫌悪感を抱かせる。しかしそれもやり過ぎていることはなく、とても真面目なつくりですね。ジョディが井戸の中の女性と話したいのに、犬がワンワン吠えていてうるさいという部分も、えらい状況だぞというのを示すのに地味に効いているし。願わくばあの犯人役にもう一押しのインパクトを、というのはありました。『悪魔のいけにえ』で女性がレザーフェイスの家に踏み入ったときの「しゃれにならない場所」感はすごかったじゃないですか。羽根やら骨やらが散乱していて、狭い場所だけどしゃれにならない場所だって感じがあった。あそこまでのえぐみはなくて、井戸っていうガジェットに頼った感がなきにしもあらずですが、まあ好みの問題でしょう。


 レクター博士のようないわば「サイレント・サイコ」な人物でいうと、ぼくは『SAW』シリーズのジグソウ、トビン・ベルが好きですが、ああいう存在がどっしりしていると映画自体の重しになりますね。「映画の中の存在としては」今後もまだまだ出てくることを期待したいのであります。そういえば続編で『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』『ハンニバル・ライジング』がありますが、『ハンニバル』はテレビで観た覚えがあります。変になったオールドマンの「コーデル!」の声が妙にこびりついています。『レッド・ドラゴン』はなんかタイトルがださいのと評判がよくないのとで観ておらず、『ハンニバル・ライジング』にいたってはその存在をすっかり忘れていたのでありました。「そういうのを観たい」ときに観ることにしたいと思います。
当時の空気感、みなぎるみなぎる。青春とはこれみないちご白書なり。


原題『The Strawberry Statement』
 10代のときに「『いちご白書』をもう一度」という歌を知って、はてそれはどんな映画なのだろうとずうっと思い続けていて、映画に興味を持ってアメリカンニューシネマ(本ブログにてはANCと呼称)などを知って、このたびついにリバイバル上映されると知るにいたっては駆けつけねばならず、新宿武蔵野館。DVD化されていないんですね、VHSならあるのですけれど。

 本作はノンフィクションを原作としており、学生運動の風景を描いた劇映画です。ばりばりのANC風味が心地よいです。タイトルが秀逸ですねえ。『いちご白書』はかなりキャッチーじゃないですか?「学生たちの主張など、いちご好きな学生が多数派かどうかと同じくらいに意味がないものだ」というような大学学長の言葉が由来だそうです。

 学生運動、という出来事については多少興味がありますねえ。今の時代に学生が団結して大学を封鎖したりなんてことは、もう日本では考えられないじゃないですか。仮に局所的に起こす輩がいたとしても、それが一大ムーブメントになることは現実的に想像できない。当時のぼくはまだ生まれてもおらず、父親と母親が出会ってすらいないであろう頃のことですが、時代特有のうねりとか熱気みたいなもんを象徴する出来事として、ちょっと惹かれるものがあるんです。

 映画はと言うと、大学のボート部に所属する青年が、学生運動をしている女子に出会い、その中に入っていく話です。と言っても、たとえば大島渚の『日本の夜と霧』みたいな、ばりばり議論をぶつからせ合うものでもないし、タッチとしては全体的に、淡い青春的な感じが色濃かったですね。その中で随所随所、学生運動の風景が描かれていて、熱気よりもけだるさがありました。みんなで集まって雑魚寝したりしてね。

 本作の抗議運動のとっかかりとしては、予備役将校の学校(RTOC)を大学に設置するかどうかで揉めたのが契機となっているらしく、この辺はぼくにはぴんと来なかったところです。ベトナム戦争に対する反戦運動との絡みで盛り上がったようです。ただ、それはあくまでもひとつの契機なんですね。それ以外にも、いろいろと若者の怒りたいことが出てきたりして、一挙に学生運動として盛り上がったわけです

 そういうのって、あるよね、と思います。今夏に起こったフジテレビに対するデモも似たところがあるように思います。あれは偏向報道だとか何だとかって言っていたけど、いちばんの焦点はたぶん違うと思うんですよ。あのデモはね、要は「韓国がきらいー!」って大声で言いたかったのが根本にあったんですね。でもさすがに「韓国きらいー!」だけでは人は聞いてくれない。そういうときに、あれが丁度いい出来事だったわけです。「韓国きらいー!」って大声で言うための「丁度いい理屈」だったんでしょう。
「いやいや、韓国だからどうのこうのではないんです。公共の電波を通して偏重しているのが」うんぬん、というのは理屈をつけたいだけだったはずです。公共の電波うんぬんで怒るなら、そんなところに突っ込むより先に原発報道に注力するべきなのに、たかだか一テレビ局の番組編成に怒っているのは道理として妙でしょう。やっぱり「韓国きらいー!」が最初にあるんです。ネットの罵言の数々はそのことを日々示してくれます。

『いちご白書』においても、あるいは学生運動に参加した多くの人にとってもそういう節はあったんじゃないかなあと思うのですが、いかがでしょうね。日米安保がどうの、ベトナム戦争がどうの、それを本当に本当に真剣に考えていた人たちもいたでしょうけれど、「なんか、ノリで」とか「まあ確かに今の世の中にはなんとなく不満もあるし」とか「なんか大人たちの言うことは信用できないし、てか単純にむかつかね? 警察とかちょーえらそうじゃん」とかそういう人たちもいっぱいいたのでしょう。現に本作の主人公も、別に大学に対して憤っている感じではないんです。ああ、みんなこんな感じなのかあというノリに巻かれているんですね。彼女が運動しているからってのもあるし。

 恋人が運動家だから、みたいなのもおそらく当時は多かったのでしょう。自分としては興味はないけど、恋人が熱心で、興味ない風に振る舞って別れることになるのもあれだから一緒にやる、みたいな人もいたはずです。

 そういう意味で言うと、『いちご白書』というタイトルは実に綺麗です。あっぱれな表現であるなあと思います。ウィキによると、当時の学長の発言の意図はこのようなものです。「彼」というのは学長のことです。
「学内ラジオ放送局 WKCR-FMによる1988年のインタビューによれば、彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明抜きでのものなら、彼にとっては苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない、というのが彼の主張である。」

 これはねえ、教育過程を卒業してある程度経つと、「わかるなあ」なんですね。「大人は汚い!」みたいなことを10代の頃とか学生の頃って考えがちだと思いますけど、世の中のこととかなーんにも知らずに理想論をぶっていても、そりゃあ「いちごが好きかどうか」の話と一緒だよね、ってことです。「苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」の言わんとするところは要するに、「聞く価値がないんだよ」ってことですからね。「甘いよ」ってことでもありますね。

学生側にしても、大人になって振り返ったら甘酸っぱい思い出になったりするわけで、その意味でもこれはまさしく「いちご白書」です。

 考えてみるに、10代や学生の世代って、一言で言うに「理想論の世代」だと思うんです。世間知らずだけれどいろんな成功物語なんかにはそれなりに触れてきて、一方で世の中のおかしな部分なんかも指摘できるくらいには目も肥えてきて、「世の中はこれじゃあ駄目だ! こうあるべきなんだ!」っていう理想論が生まれる。でも大人からすると、そんな理想はみーんな抱いてきたんだよと。それが理想だとわからない、世の中の複雑さがわからないうちは、悪いけど聞く価値がないんだよ、っていう。この辺のわかりあえなさ。

 ただ、そうやっていなそうとする大人の側にも後ろめたさはある。どこかの地点で理想を捨てた自分を自覚するし、あるいはその理想を叶えられずにきた自分を弁護したい気持ちもある。大人になるってことは、言い訳がうまくなることでもあるんですね。

 なんか映画とずいぶん離れた内容を続けていて恐縮ですが、本作は全体を通してはむにゃむにゃしている部分も多いです。このままむにゃむにゃ終わられたらきついな、という心配もありました。でも、随所随所で挟まる音楽がビウティフル。ワンダフル。空気感がみなぎるみなぎる。


ラストもよかったですねえ。この映画のラストはいいです。

 講堂みたいなところに学生たちが集まって輪を囲み、一斉に歌を歌うんですが、そこに警官隊が乗り込み、催涙ガスみたいなのを撒布しながら検挙するんです。このクライマックスのえらいこっちゃ感は素敵でした。学生たちの営みが一種の宗教的儀式にも見え、それが粉々になっていくシーンには鳥肌が立ちました。ANCの醍醐味がありました。

 学生運動とANCというのは、この上なく相性のいいテーマでありますね。とにかく反抗する、でも、反抗する先の像は結べない若さ。『いちご白書』も、何か訳のわからないままの波に翻弄されている感が面白い。

 当時の空気も十分な知識も持っていないので、いろんなことを見落としているのだろうなあという自覚もあり、その点は恥じ入るところです。もっといろいろと触れねばなりません。その後で観るとまた違うように思う。そういう風に積極的に思わせてくれる映画でございました。順次全国公開ということですから、よければこの機会にぜひ、というところです。
ラムちゃん最強説、1と2の持つ独立した魅力、『涼宮ハルヒの消失』と『オトナ帝国』

『らんま』が実写化されるとかでちょいとした話題ですが、ぼくがこれまでに観たことのある高橋留美子作品って『めぞん一刻』くらいです。漫画は読んだことがありません。『めぞん一刻』は数年前にニコ動にたくさん上げられていて、50話くらいまではマイブーム的に観ていました。でも、『うる星やつら』はほとんど観た覚えがなくて、まともに観るのはこれが初めてです。「ラムちゃんが出てくるコメディ」的な捉え方しかしていなかったぼくですが、いろいろな発見があって楽しかったですね。今日も今日とてだらだらとアニメ周辺からそうでない部分まで書きたいと思います。長くなるかもしれないです。

 いきなり2を観るのは気が引ける、というわけで劇場版第1作『うる星やつら オンリーユー』を先に観ました。3、4は観ていません。そのうち観るでしょう。
『オンリーユー』も大変面白かった。2が名高いですが、なんならぼくはこの1のほうが好きかもしれません。1には2にはない、オールスター感がありますからね。ウィキによりますと、1と2において、原作者高橋留美子と監督押井守の評価は真逆であるようです。1を好きなのは高橋で、押井は「失敗作だ」と言明しているらしく、一方2はというと押井のやりたいことが炸裂し、かたや高橋は「いちばん嫌い」だそうです。なんとも好対照ですね。でも、それもわかる気がします。それを知って、わかるわあと思わず呟きました。
 

 いろいろふらふらしながら話を進めていくいつもの書き方ですが、考えてみるにラムちゃんというのはものすごいアイコンだと思います。これは何か元ネタがあるのでしょうかね。これ以前に、こんなにもアイドル性漲る女性キャラクターというのはいたでしょうか。『魔法使いサリー』とかはもっと子供向けじゃないですか。ビキニ姿でグラビアアイドル張りのセクシーさをも備えたメインキャラクターって、何かいました? うーん、うーん、うーん、ちょっと思い出せないです。峰不二子とかそういうのはいますけど、方向性違うし、メインでもないでしょう? 

 で、ラムちゃんの造形と主人公あたるとの関係というのもね、今のライトノベル界隈の原型じゃないですかね。今のライトノベルの多くって、これと似たような感じです。「押しかけヒロイン型」で、一方的に主人公を愛する、守る、あるいは振り回す。『ハルヒ』もこの形ですね。なおかつ異能の力なり何なりを帯びていることが多いわけです。極論すれば、多くのライトノベルはこの『うる星やつら』の亜流でしかないのではないかとも思ったりします。ハーレム的にたくさんの美少女が出てきたりしますしね。いや、『うる星やつら』も何かの亜流かもしれないですけど、その辺に詳しい人にはぜひ教えを請いたいです。しかし高橋留美子という人はすごいですね。これを大学在学中に造形したというのですから。



「だっちゃ」という語尾も大発明じゃないですかね。もちろんそれより前から「ござる」とかそういうのはあったでしょうけど、アイドル的キャラクターと組み合わせた例って何があります? で、この後もありますかね? 探せばサブキャラクターでどこかにはいるでしょうけど、メインキャラとしてですよ。「だっちゃ」はもうラムちゃんのものだし、語尾だけでああ、あのキャラのものね、と伝わるほどメジャーなものってあります? で、それが可愛さとうまく結びついているわけです。ビキニ姿といういわば扇情的なスタイルですが、それが「ダーリン、愛してるっちゃ」という言葉で中和されるじゃないですか。それでまたここに「ダーリン」入れるって、いや、これはすごいでっせ。今回、初めてまともに『うる星やつら』を観まして、にわかに「ラムちゃん最強説」が浮上しています。

 1がいいのはね、原作やそれまでのアニメ版に登場していたキャラクターをふんだんに登場させて、お祭り感が素晴らしいところです。ああ、こんなキャラがいるのか、テレビ版や原作にも触れてみようかな、と思わせます。ぼくはあの弁天というのが好きですね。弁天の声優は三田ゆう子という人ですが、この人は『めぞん一刻』の六本木朱美です。ぼくはどうもああいう女性が好きなのですね。『めぞん』でも音無響子さんよりもぼくは朱美のほうに惚れました。弁天も男勝りな感じなんです。三田ゆう子の声つきと非常によくマッチしています。思えばぼくは朱美見たさに『めぞん』を視聴していたのです。

 あのだらしない感じ、部屋が汚い感じ、よよよとしなだれかかるのではなく、誰もいない部屋の片隅でだけ涙を流していそうな感じ、すけすけのネグリジェで頭を掻きながら寝起き姿を見せてくる感じ、男気のありそうな感じ、ちょいと投げやりな風情の口調、それでいてセクシー。
 ああいうの、ぼかあ好きだなあ。

 誰も興味のない女性のタイプの話は置いておくとして、ことほどさように大変いろんなキャラを織り込んでいる。しのぶもいいですねえ。ラムちゃんと対比されるしのぶの持ち味ってのは、これはこれであっぱれなんです。他にも興味を引かれるキャラクター数多でありましたし、1においてはなんといってもあのハマーン・カーンの声をしたメインゲストがいたりして、いやあ愉快愉快でありました。ちなみにぼくの好きな女性キャラクターベスト3はというと、ラムちゃん最強説を唱えつつも、1位、ハマーン・カーン、2位、レズン・シュナイダー(『逆襲のシャア』の敵パイロット。ちょっとしか出ないけど格好いい)、3位、六本木朱美というところです(平成生まれ置いてけぼり)。

 さて、ながーい前置きの後でやっとこさ『ビューティフル・ドリーマー』です。

 この映画を先に観なくてよかった、というのは、原作の高橋が嫌っていることからもわかるように、もとの『うる星やつら』とはずいぶんと雰囲気が違っていそうだからです。押井守作品ってほとんど観たことがないからそっちのお話はできないんですけど、ああ、これはもう本当に、高橋留美子的なものではぜんぜんないんだろうなあという気がします。

 世界激変ものと言いますか、高橋留美子的な街場コメディから離れると言いますか、アンバランスゾーンに持って行ってしまいますね。娯楽的ではなく、芸術的、作家的な方面に比重。そういう意味で言うと、この1、2はセットで楽しむといいと思います。ぼくが映画一般に求めるものが1、2の両方に別々に入っている。

 学園祭前日の盛り上がっている日常描写から始まるのですが、そのうちどうも、「時間がいつまでも前に進んでいないのはないか」という疑念が提示されるという、『涼宮ハルヒ』でいうところの「エンドレス・エイト」的な色合いが出てきます。で、いざ調査に乗り出してみると周囲の世界が登場人物たちを残して大きく変わっており、街には誰もおらず、それどころか街自体がこれまでの世界と隔絶されているのがわかります。はてさてこれは何なのだ、という謎解きが進行していくわけです。


 観終えてみると、つくづく『ハルヒ』との類似点が見えてきますね。これは劇場版『涼宮ハルヒの消失』と合わせて観てもなおいっそうの意義があると言えましょう。  

話の要点をばらしてしまいますのでご注意ですが、この作品は物語で度々用いられるところの「胡蝶の夢」の話に触れていきます。世界が異変を起こした、これは何なのだ、この世界をつくったものがいるのではないか、そもそも自分たちが認識する世界とは、とそういうところがクライマックスを担います。

「胡蝶の夢」的な捉え方、つまりは「この世界は実は夢なのではないか」といういわば哲学的な問題については、実のところさして興味はないんです。その発想自体は面白いと思うし、物語的な装置としても使えるけれど、なんというか、格好つけた言い方をするなら、そこまで実存的な危機を感じたり自己像に揺らぎが生じるような問題ではない。

 ただ、その辺の議論から考え出せること自体は面白い。
 クライマックスにおいて、世界の異変は、ラムちゃんと夢邪鬼という黒幕によって引き起こされたものだとわかる。ラムちゃんはあたると一緒の世界、邪魔者の存在無しにいつまでもあたるとの「終わらない日常」を過ごせる世界を願った。それを夢邪鬼が叶えて、彼らとその周囲しかいない世界が残ってしまったわけです。

 あたるはそこからの脱却を試みようとする。他方、藤岡琢也の実に流麗な関西弁で、夢邪鬼は問いかける。「望ましい夢の世界にいればええやないけ」と。ここら辺にぼくは興味を引かれます。そして、『ハルヒの消失』との類似を見ます。

『消失』ではハルヒのいない世界が原作、テレビアニメ同様のキョンの目線から描かれる。そこは実に平穏な世界です。ハルヒのむちゃくちゃに振り回されることのない世界です。しかしキョンは戸惑います。その戸惑いはわかりやすく序盤で言明されます。
「突如ユートピアに連れて行かれたとしたら、人は喜べるのか?」

もちろん、世界には明日を生きるのも覚束ない境遇の人は数多くいるし、そうした人々ならばイエスと応えるかもしれません。しかし、ぼくを含めた大半の現代の日本人ならばどうか。楽しいことばかりで嫌なことのひとつもないユートピアがあるからおいでよ、その代わり今の世界にはさよならだよ。さて、向こうの世界に旅立てるのか?

 旅立てない? 
 なぜなのか。今の世界は完璧で、自分の生も満たされていると言えるのか。
 言えない? 
 じゃあなぜ今の世界を捨てない? 向こうの世界は楽園なのに。

この問いへの答えを用意するのが『消失』であり、『ビューティフル・ドリーマー』であり、そしてもうひとつ、『オトナ帝国』です。

「前者二つ」は「不完全な日常の肯定」と「ノイズの尊さの受容」を、「後者二つ」は「世界制御の不快」と「未来への希望」を描きだしています。比重はそれぞれに異なるので、言葉でいちいち説明する気にはなれません。そして三者ともが「生の尊厳」を称揚するものと言えます。『ビューティフル・ドリーマー』にはいろいろと入っているんですねえ。

 今述べた五つのことについて詳述していると書くほうも読むほうも面倒くさいのでやめておきます(気分が乗ったらまた別の機会にということで)。そうしたことを併せ考えるに、ラムちゃん最強説はさらに補強されるのであります。あの状況で繰り出される「責任取ってね」は痺れますねえ。

 ことほどさように、『ビューティフル・ドリーマー』について語れとなると、とても大変そうです。まだ話したいことの要点について詳しく述べていないわけですから、本当にやり出すのは実に骨が折れます。しかし、ぼくは『うる星やつら』をこの映画版2作でしか知らず3以降は知らず、またアニメについても大した知識は持ち合わせていないのであって、詳しい人が語ったらきっとそれはもうとんでもなく長いことになってしまうのでしょう。誰かやってください。

まとめておきますと、『ビューティフル・ドリーマー』は『消失』『オトナ帝国』と合わせて観るとより深い部分まで見えてくるということであり、そういうのは面倒くさい、単純に面白いのが好きだという人には『オンリーユー』をお薦めする、ということであります。今日もだらだらとまとまりを欠いた文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
古さに抵抗を感じる必要のない、今観ても十分に楽しめる時代劇コメディです。


井上Luwakさんにお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

 1950年以前の映画というのは何を観ればよいのやら、というのがわからずにわりと遠ざかっているため、山中貞雄という監督についても知りませんでした。その生涯を見るにまさしく「夭折した天才」であるようですね。初監督は22歳、監督として活動したのは5年間で作品数は26作。日中戦争に徴兵され、出征した先の中国で亡くなったときは28歳。当時は今よりもずっと制作ペースが速かったらしく、20代のうちから年間に4作も5作も撮る監督は他にも多かったようですが、それにしても20代で作品をがんがん撮って、それで戦争に徴兵されて死んでいったというのは、なんというか、なんというか、なんというか。

 で、現存する作品は本作とあと2つ、計3作品しかないそうです。あとのものもぜひ観てみたいと思います。非常に楽しめる作品でありました。

 時代劇の人物にてんで疎いぼくは、丹下左膳についてもよく知りませず、歌舞伎とかそういうもっと古い時代からの存在なのかなと思いこんでいたのですが、1927年に林不忘という作家が書いた新聞連載小説が初出らしく、しかも当初は主人公でもなかったそうです。片腕で隻眼、しかし刀の腕はめっぽう強いというキャラクターが受け、映画化したいという要望が殺到、人気シリーズになったということです。今で言うと、スピンオフ企画が大ヒット、みたいなことなのでしょう。

 ただ、この映画自体は、原作者サイドから抗議を受けたそうです。もともとのキャラクターや話と違う、ということのようです。その辺についてぼくには何もわからないのですが、この映画だけを切り取れば、非常に愉快なコメディであったと思います。

 コメディとしてとてもよくできているなあと思いました。
 70年以上前の作品とありながら、脚本的な面白さもテンポも十分に耐久しています。 現代の下手なコメディを観るくらいであればずっとこちらのほうが面白いです。掛け合いのよさとかギャグの構成とか、今観てもちゃんと面白い。これはすごいことだと思います。

 見た目はただの安い壺にしか見えない、本当は百万両の価値がある壺。これをつなぎとして主に三者の動きが織りなされます。複線構造を取っていて飽きさせないつくりです。

「安い壺だと思って渡しちゃったらなんと大変な価値があったのだ!」 
 というわけでそれを取り戻そうとする藩主。


「こんな汚い壺をもらったってしょうがないじゃないか、売っちゃえ売っちゃえ。
 え、何?すごい価値のある壺なの? 駄目だ、やっぱり売っちゃ駄目! え、もう売っちゃったの? ちょっと、早く探さないと!」 
 というわけでそれを捜しに行くのは婿養子になって別の家に住んでいた次男坊。


 丹下左膳はその話にはしばらく絡みません。彼は射的屋の居候なのですが、店に来た悪たれとのいざこざで一人の男が殺されてしまいます。その男には息子がおり、みなしごになったその子供の面倒を見ることになります。その息子が抱えていたのがなんと百万両の壺。しかし当の息子も丹下左膳もそんなことは知るよしもなく、はてさて話はどうなっていくのやら、とこういうわけです。物騒なことも起こりますが、むしろコメディ部分が色濃くて、落語みたいな面白さもありますね。落語好きな人も楽しめると思います。


 小さなお話で、だらだらする場面は一切無くて、「古い映画だから」と抵抗感を抱く必要はないと言えます。丹下左膳を演じる大河内傳次郎もコミカルで、喜代三という人の演じた女将の感じもこれまた観ていて非常にいい。ちょいとほろりとしました。女将は丹下左膳の連れてきたみなしごの男の子に対して、きつく当たるんです。でも、その直後で実はとても可愛がっているのがわかる。このあたりの緩急の付け方は、粋だなあと思いました。男の子がやってきたときに、「あたしは子供が大嫌いなんだよ」「どうするんだい、一日だって泊めておくわけにはいかないよ」みたいに言うんです。でも、次のシーンで、「あの子が来てからもう一ヶ月経つね」となって、無事に住まわせてもらえているのがわかる。また別の場面、男の子が「竹馬がほしい」と言うと、「怪我したらいけない。買ってやらないよ」と言うんですけど、すぐ直後の場面では一緒に竹馬で遊んでいたりするんです。表面では厳しいことばかり言っているんですけどね、ちゃんと寺子屋に通わせてやろうとしていたり、いなくなったら慌てて捜しに出ようとしたり、ああ、ちゃんと大事にしてやろうとしているんだなあとわかる。なんか、とてもほろりと来ました。ツンデレなるものよりも、ずっと小粋であるなあと思いました。


丹下左膳のキャラクターが、思っていたものと違って面白く感じました。下町のおっさん風味が強くて、喜劇にそぐうものでした。夜道で敵を倒す場面も粋です。大河内傳次郎は何を言っているのかよくわからないところもあるんですけど、逆にそれが「おっさんが喋っている感」を強めていて愉快。

 子役の使い方もあっさりしていていいですねえ。これね、今にも通じ得る作品だから、リメイクしても形になると思うんですよ。してご覧なさいな。子役の健気さみたいなもんを出しますぜどうせ。それで舞台挨拶とかして現場の雰囲気とかをママとマネージャーが教えた通りに話させるんだぜどうせ。それで映宣で19時台の番組に出て料理とか食うんだぜどうせ。そんなきらいはつゆほどもないという、当時の「あくまで大人が主役だ。子供は脇役なのだ」感がいいですね。

 壺捜しに出る藩主の次男坊のコメディアンぶりもいいんです。70年以上前のものですからね、笑いの形としては今となれば「ベタ」なんでしょうけれど、その「ベタ」なるものが「ベタ」になる以前のものであって、ああ、こういう笑いがあってこそ現代の笑いができあがってきたのだなあと感服し、とても素直に楽しめました。いつもは後ろに控えている奥さんに頭が上がらないとかね、道場の門下生の手前、自分の弱さがばれないように慌てたりとかね、コメディの要素の定番ですけど、それをくどさゼロで簡潔にぴしっとやっているのは、これはもう昔の映画の醍醐味です。

 こういう潔いコメディっていうのは、日本映画ではもうあまり観られなくなってしまったように思いますが、どうなのでしょう。単にぼくが観ていないだけで、いっぱいあるのかもしれませんね。印象として、一人の監督が年に何本も撮っているような昔の状況のほうが、変にこねくり回したりするよりもあっけらかんとしたコメディが撮れるのかもしれません。あるいは今は喜劇の伝統って、もはや舞台のほうにのみ受け継がれているのでしょうかね。昔のコメディ映画精神を今も通じさせているのは、映画ではなくて舞台なのかもしれないなあと思います。やりとりやテンポのみの素朴な面白さという点では、映像技巧に寄らない舞台のほうが、確かに受け継ぎやすいのでしょう。

 音楽の使い方も独特で、ああ、いいものであるなあと惚れ惚れしながら観ていました。この作品について今、文句をつけたりなんだりってことはなーんにもないと思いますね。70年以上の時を耐久して今観ても面白いと思わせるなんて、すごいことです。これが面白くないと言う人には「お若いのう」と申し上げましょう。
 素直に楽しめる逸品でございました。
 「反戦」って何だろうってことを考えさせますね。

原題『Le Roi de Cœur』
「長らく観たいと思っていた」シリーズ。アマゾンで三枚三千円キャンペーンのひとつになっていたので買いました。『映画秘宝』で評価が高く、町山さんのオールタイムベストテンのひとつにもなっている作品です。

DVDパッケージよりあらすじを拝借。
 第一次戦争末期、フランスの小さな村を追われたドイツ軍は、進撃してくるイギリス軍への置き土産に、強力な時限爆弾を仕掛ける。その事実を知ったイギリス軍は、爆発を未然に防ぐため一人の兵士を村に送り込むが、村人たちはすでに全員避難しており、誰もいなくなった村は精神病院から抜け出した患者たちの楽園と化す……。

「市街戦」とあって冒頭から軍隊が出てくるので、戦争映画かと思いきや、そこからは大きくかわしてくる作品です。ドンパチはあくまで背景になっていて、メインは精神病院の患者たちとアラン・ベイツ演ずる主人公の話でした。精神病院の患者がたくさん出てくる話だと、『カッコーの巣の上で』がぼくは好きですが、あのような抑圧感は皆無で、患者たちが好き放題やっている映画ですね。弾け方は『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』も連想しました。おかしな大人たち、コメディアン仕立ての登場人物をたくさん出したいときには、精神病院の患者という設定にするとやりやすいというのはあるのでしょうね。その辺をまじめに考えたらナイーブな領域にいくだろうけれど、コメディアン的な突飛なキャラにしたいならば、格好の対象と言えるのかもしれません。『パコと魔法の絵本』もおそらくそういうことなのでしょう。現代日本のポリティカリーコレクトとしては「精神病院」ではまずいので、「変わり者が集まる病院」みたいになっていたようですが、限定された空間でコメディを形作るときには、確かに有用な設定です。個々のくせもつくりやすくなるし。

 銃を持った兵士や装甲車も出てきますが、患者たちが街に繰り出してからはものものしさはありません。ドイツ兵たちまで巻き込んでコメディ要員にしてしまい、むしろ患者たちの織りなす虚構世界の進行が真ん中にある。戦争の深刻さから離れたわいわい感という点では『M★A★S★H』にも通じています。どちらの映画もベトナム戦争の最中に公開ということで、それをリアルタイムで感じつつ観る気分と、現代に観る気分では見方が違うのでしょうね。戦争による緊張感みたいなもんはこの映画の中だけで言えばそんなにないので、今観るとコメディ部分にも緊張感が乏しいなと感じたのですが、当時としてはこれくらい弾けておいて丁度良かったのかもしれません。何かにつけて、わっしょいわっしょいみたいな雰囲気になります。思い思いの扮装をして、わっしょいわっしょいです。


作品テーマとして「反戦」っていうのが広く受け止められているようですね。DVDパッケージにも「平和の狂気か、戦争の正気か?」なんて一文があります。ここからは終盤の展開にも言及していきましょう。

 作品の終盤で、村でイギリス軍とドイツ軍がはち合わせするんですが、そのときにほとんど機械的なテンポで両軍が全滅してしまうんです。その場に居合わせた精神病院の患者たちに「冗談が過ぎるなあ」みたいに言わせているところからも、「戦争のほうがあの患者たちよりよほど狂っているんじゃないのか?」というニュアンスが読み取れるわけです。


爆弾の恐怖から開放された村には人々が戻り、この世の春を謳歌していた患者たちはまた病院の中に戻ります。任務を達成し生き残った主人公は街から軍隊の拠点に戻り、勲章を与えられて次の戦地に赴けと命令されます。しかし彼はその途中、兵士を乗せた車から降りてしまいます。彼が向かった先はかの精神病院。そこで患者たちとともに暮らしていくことを決めるのでした。


 この辺の意味合いが、ベトナム戦争只中の公開当時、あるいはこの舞台となった第一次世界大戦の時代においてどう活きてくるのかというのは、幸いにして平時を生きるぼくとしてはわかりかねるところです。ヒッピー・ムーブメントが盛った時代においては、戦時下における患者たちの奔放な狂態が、反戦的態度として輝いたのかもしれません。ただ、何か引っかかるなあ、というのがあって、それがなんだかよくわからなくて、先ほどから文章が進まずにいます。

 うーん、観ながら「あれ?」と思った場面があって、それは主人公が村の外に出て行く場面なんです。主人公は患者たちに王様として扱われ、わっしょいわっしょいになっているんですが、ひとたび彼が外に出て行くと、それまでのハイテンションは急転して、誰もついていこうとしない。戻ってこいよー、外の世界は危ないよー、みたいになる。で、戻っていくと、またわっしょいわっしょいになるんですけど、その中でふと冷静に、患者の一人が、「あなたが王様じゃないってことはわかっているんだ」みたいにぽろっと言うんですね。この映画がちょっと惑わせるのはひとつにそこで、「あれ? この患者たちはどこまでマジやねん?」と思った箇所でした。この患者たちは現実とどう向き合っているのだ? そして、ラストの主人公はどうなのだ? というね。

 主人公は最後、戦地に行くのをやめて精神病院で過ごすことを決めます。彼はどうも精神病を偽装していたように思えるわけです。現実から、彼は逃げたのでしょうか?

 そうなると、反戦って何やねん、とも思えてくるんですね。戦争の世の中は嫌だと言って引きこもることは、反戦とは違うだろうと思ったわけです。だってそれは無関心と同義ですからね。お国のためだ家族を守るためだと言い聞かされ、たとえ不条理だとわかりながらも戦っていた人もいるでしょうし、あるいは、絶対に戦争は駄目なんだと主張して殺された人もいるでしょう。それに対して、この映画の結末は、「引きこもっちゃえ!」ですからね。「現実から逃避しちゃえ! ここなら徴兵を受けることもないし安全だ!」ですからね。戦争から逃げることと戦争に反対することは違うだろうと思ったんです。

 個人が逃げても戦争は続きますからねえ。いや、ぼくもね、偉そうなことを言いながらね、あの状況で次の戦地に行けと言われたら、あの方法ありやな、と思ってしまうと思うんですよ。ただ、その態度それ自体は決して人に吹聴できるものでもないとは思いますね。何のリスクも背負わずに、逃げているだけですから。

 ああ、だからだんだんはっきり見えてきたんですけれども、「戦争という行為は精神病よりもずっと深刻に狂っている」みたいなのが嫌いなんですね。そういう風な見せ方が嫌いというか。ほな何かいと、戦争を起こさないためにはみんなこの患者たちみたいに夢見心地でおったらええんかいと。人のブログから無断で転用して恐縮ですけれども、
「偏見のない観客であれば気が付くだろう――彼らが正気に見えるのは、戦争という現実から隔離されているからだ――ということを。」
 と言っている人がいて、なるほどと思ったんです。「戦争なんて、まったくおかしいよね」という態度を社会の外側から言われてもなあ、という気がして仕方なかったんですね。 
 うーん、うーん、はっきり見えてきたと書いておきつつやっぱり見えていないことに気づいたんですけれども、結局ぼくは、「反戦って何やねん」ということについて、まだまだよくわかっていないのですね。戦争反対って言うのは簡単だし、誰にでも言えるけれども、戦争っていう物騒な行為だけを見つめて反対を唱えるだけで何が解決するねんってことでもあるし、そこに至るまでのいろんなことがあってまずそこをもっと早めに問わないと駄目なんじゃないかとかも考えるし、ぜんぜんまとまっていないのでした。

 ただ、映画自体はそういったことをごちょごちょと考えさせるいい映画だったなあとは思います。あの結末、どう思う? ということだけでも人といろいろ話せることがあるだろうし。映画の中だけではなく、映画の外まで考えをめぐらさせるという点で、お薦めできる一品であります。


 ブログ開設よりこれまでにたくさんの方々からコメントをいただいてきました。その中には実に知性に溢れ、ぼくのような人間には到底昇り得ぬ高みからこちらを見下ろし、そして颯爽と去って二度と戻っては来ないという美学をお持ちの方々もいらっしゃいました。きっと読者の皆様にとってもためになる発言が数多く含まれていると思いますので、そうした貴重なコメントの数々を集めてみました。返答がないのはぼくの受け答えが稚拙すぎるからでしょうが、一応ぼくの応答も併録しています。

Commented by 通りすがり at 2010-05-25 04:47 x 『楢山節考』
「子供に見せられない」というどこかの評価に対してよっぽど気に入らなかったんだね。
この映画は単に今村得意のドギツイエログロ見世物なだけ。
子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?倍賞美津子とババアのオマンコ?村人の生き埋め?婆さんを崖から蹴落とす息子?
それを見て年寄りを大事にしようね。それとも年寄りは山に捨てちまえかな?w
昔の部落民はこんなことをしてたんだ!けしからん!か?

不快感しかねえよ。こんな映画wwwwww

外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。

Commented by karasmoker at 2010-05-25 23:57 x
コメントありがとうございますwww。
>子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?
映画を損得で観たことがないのでよくわかりませんがwwwwwwwwwwwww学べるもの、得られるものを「得」という言葉であえて呼ぶならば、綺麗ではあり得ないこの世のひとつの側面をきちんと見せている点で、「得」があるのではないでしょうかwwwwwwwwwww。
>不快感しかねえよ。
はい、貴方の感覚を頼みもしないのにわざわざ教えてくれてありがとうございますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。wを使うという品のなさまで露呈していただき、ありがとうございます。
>外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。
 受賞作でも崇められぬ作品は多く、このブログでもいくつも感想を述べております。どういった点がこの映画の駄目なところか、おそらくはとても映画にお詳しい方とお見受けいたしますので、大変恐縮ではございますが、どうかぼくめにご教授願いたく存じます。


Commented by w at 2010-10-21 16:03 x 『アカルイミライ』
いや、笑いは狙ってないやろうww
当方5人コレ見て全員 批判っすwww
評論やめたほうがいいんじゃねw

Commented by karasmoker at 2010-10-21 22:19 x
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。

Commented by さ at 2011-01-24 17:54 x 『Helpless』
そうです。あんたの読解力が低いだけです(笑

Commented by karasmoker at 2011-01-25 03:40 x
えへへへへ。


Commented by 映画を愛する者 at 2011-04-14 03:38 x 『バトルロワイアル3D』
これを面白いと感じるなら、もう映画評論はやめた方が良い。
いくつか評論をみたが、どれも表面しか見ておらず、誰でも気付くような映画の核心に気付けていない。
映画の核心に気付けるか否かは人の先天的な感覚によって決まるが、あなたはそれを備えていないようだ。
もう映画を見るのはやめた方が良い。仮に見るのであれば、自分は表面しか見れていないのだと自覚して、評論は控えるべきだ。

ちなみに私はバトルロワイヤルのいわゆるアンチではない。以上はあなたの評論のいくつかから得た感想である。

Commented by karasmoker at 2011-04-14 05:54 x
はいはい。


Commented by ぽぽぽぽーん at 2011-05-04 02:11 x 『ロミオ+ジュリエット』
あたまかわいしょうしね

Commented by karasmoker at 2011-05-04 02:53 x
がんばってください


Commented by BAKADARO,OMAE at 2011-08-14 08:38 x 『バロン』
下手な文章だね。ほんとになにさま!?

Commented by karasmoker at 2011-08-14 14:26 x
コメントありがとうございます。文章についてはまだまだ精進せねばならぬとつくづく感じ入る次第でございます。つきましてはどうか後学のために貴方様のお書きになった文章を拝読させていただきたいのですが、どこかで読めるものなのでありましょうか。お教え願いたいと存じます。また、二年以上前の記事に頼みもしないのにわざわざコメントしてきて、人のことを一言で馬鹿呼ばわりできる貴方様こそ「なにさま」なのかと、未熟なぼくはつい愚考してしまうのですが、貴方様は何様であられるのでしょうか?


Commented by k at 2011-10-15 03:25 x 『天国にいちばん近い島』
感受性が低い。

Commented by karasmoker at 2011-10-15 06:04 x
と、だけ書いて去る人の感受性やいかに。


Commented by アホか at 2011-11-07 18:21 x 『ロミオ+ジュリエット』
手紙でも不在通知あるし。
書き留めってしってる?
小学校じゃ習わないかもね。
かきとめってよみます。
だいじなてがみをおくるときにつかいます。
るすのときは不在票がはいってます。

あと、予算がなかったって、このえいがのよさんしらないんですか?ものすごい予算ですよ。

勝手に馬鹿なのあしょうがないけど、馬鹿な自分の脳内をさらして、ネットを汚すのは勘弁してくれ。
一生一人で馬鹿やってろ。
脳みそ取り出して綺麗に洗ってでなおしてこい。ばかやろう。

Commented by karasmoker at 2011-11-07 20:56 x
 コメントありがとうございます。
 ぼくのような無知蒙昧な輩に懇切丁寧なご指導をいただき、大変に恐縮している次第でございます。書留の存在については思い至りませんでした。なにしろこの映画においてあの手紙は火急の用件を記したものと見え、本人不在の場合は不在票を入れるという、書留という悠長な方法をとるのはおかしいと思ったのです。ですのでここは「その状況で書留かよ! ポストに入っていたらすぐ内容がわかるようにしておけよ! 意外とのんびりしてるなおい!
物語の緊迫感がそがれているよ!」とつっこむべきだったのですね。反省しております。
Commented by karasmoker at 2011-11-07 21:07 x
 続きです。予算についてですが、「ものすごい予算」とおっしゃられていますが、IMDBによりますと制作費は1996年当時で1450万ドルとあります。庶民にとっては大変な高額ですが、当時のアメリカ映画としてみれば「ものすごい予算」と呼ぶにはいささか不適当かと存じます。14世紀のヴェローナを形作るには十分な予算が足りなかったのではないか、という意味合いで述べたのですが、あいにく無知なぼくにはアメリカ映画の制作費にまつわる知識がそれほどないのです。大変にご聡明な方とお見受けしますので、ご教授願えれば幸いに存じます。
Commented by karasmoker at 2011-11-07 21:15 x
 続きです。長くなって本当に申し訳ありません。予算のくだりでぼくは「現代劇なのに、殺人犯を街から追放して終了」というのはおかしいのではないか、と述べました。郵便書留という細部の社会設計が行われているのに、殺人犯の処遇に関しては一見非合理的な法的処罰がなされているというこの点についても、ぼくにはよくわからなかったのです。重ね重ね恐縮ですが、貴方のような見識ある方にコメントいただけてとてもありがたいので、この機会にご高説を賜りたく思います。


Commented by ぽ at 2011-11-14 01:52 x 『パルプフィクション』
おまえには人並み程度の感受性すらない。
映画の批評に向いてないぞ。

Commented by karasmoker at 2011-11-14 02:20 x
見知らぬ人に対してタメ口で「おまえ」呼ばわりできる人が人並み程度かそれ以上の感受性をお持ちだとするならば、そういう言葉遣いが人を不快にさせるとわからない人に高い感受性があるのなら、なるほどぼくにはそんなものはありません。



 いやあ、実に心に染みいるご指摘とご指導の数々でございます。
 今後も喧嘩を売っていただくのは結構でございますが、こちらもそれなりに買うつもりはありますので、「売るよ」「はい、買いますよ」と言った後で、忽然といなくなるという謎の行商はやめてくださいね。
 
 細部のよさは十二分。人によっていろいろな感じ方をするだろうな、と積極的に思える映画です。 

OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 以前取り上げた『さんかく』と同じ監督の作品です。フィルモグラフィを観ると『なま夏』という作品がデビウらしいのですが、そこで我らが蒼井そらを主役に置いているのが活かしていますね。『なま夏』もチェックしておこうと思います。

『机のなかみ』というタイトルですが、これはどういうことなのかぼくにはよくわからないです。監督インタビューなどを探せばどこかに答えはありそうだし、あるいは何か別の作品のパロディっぽい題名なのでしょうかね。わかんないっす。
 映画はと言うと、あべこうじ演ずる家庭教師と鈴木美生演ずる女子高生が主人公で、あべがやってきてから大学受験の日を迎えるまでの様子が中心となって描かれます。

まず前半で映画の視点を担うのはあべこうじです。コントではなく一人喋りでR-1を制した彼ですが、なぜかあまり人気バラエティには出ていない印象です。どうして今のテレビで人気が出ないのか、とかを考え出すと長くなるのでやめておきますが、本作でもバラエティのような軽いノリの男として登場します。家庭教師なのですが、鈴木美生の可愛さにほえほえになり、勉強よりも仲良くなることにばかり気がいくようなやつなのです。
彼には同棲中の彼女がいるのですが、鈴木美生に気持ちが持って行かれるんですね。この辺は『さんかく』と同じです。

 宇多丸さん風にいうと「主人公を好きになれない問題」が出てきました。
 あべこうじ自身の演技にはなんらの違和感もなくよかったのですが、いかんせんキャラクターとしてぼくはこの主人公の男が嫌いです。家庭教師が生徒の女子高生を好きになる、性的対象として見てしまう、というのは別にいいんですよ。というより、それはまあわかりますわ。「女子高生なんてガキじゃねえか」と思うくらいにはオトナになったし、街できゃぴきゃぴしていたりしたら「ふん、ガキめらめ」とは思います。しかしですよ、精神的、知能的にはガキであったとしても、肉体的にはねえ、そりゃねえ、そりゃまあ、その。

 今日も今日とて好感度の低下を感じつつ進みますが、だからあべこうじのいやらしい目線とかはいいんですよ別に。でもね、この主人公は職務をちゃんとやるぞという姿勢に問題がありすぎる。そこが嫌なんです。端からもう、女として見ていますからね。もちろん時間的な面もあるし、肝心の部分を前に出して描きたいのはわかるんですけど、一応さ、観ている側としてはさ、こいつの葛藤とかを共有したいわけですよ。生徒なのにそんな対象として見てしまうことへの内的葛藤みたいなもんを感じられなくて、鈴木美生が可哀相に思えましたよ。ぼくだったらもっとちゃんと教えてやるのに!

 この男はリスペクトがないんです。彼女のお父さんは娘思いのオヤジなのです。で、夕食をともにするシーンがあるんですけど、あろうことかこのあべこうじはお父さんを無視して彼女とわいわい喋ることばかりに気がいっている。誰からお金をもらっているのかね、誰が雇い主なのだね、ということがわからない社会人には何の用事もないです。

 もちろん性格描写の上で必要なのはわかるけれど、そこはもうちょい、気のもつれというか、ためらいみたいなもんがないと、ちょっと感情を入れ込めないです。『さんかく』では「なんか、ちょっと、惹かれちゃうんだよなあ」というためらいがあって、そこからのほえほえだったからいいんです。それがないんです。

 ここからは展開を結構ばらしますので、そのつもりで。

 で、大学受験に鈴木美生は落ちてしまうんですね。このくだりのあべこうじは最悪の男です。落ちて放心状態の教え子をもう完全に性的対象として扱うんです。いや、うん、いや、そこはね、うん、わからんではないというと語弊があるんですけど、そういう「人間的な過ち」そのものを悪くは言いませんというか、ちょっと難しいんですけど、そういう風になってしまうあいつの気持ちもね、汲み取れないことはないです。100パーセント否定して、「あり得ない!」と叫ぶほどの短絡性は持ちません。文脈次第によってはあり得る振る舞い、と言えます。ただ、その文脈としては弱いんです。ここも内的葛藤が問題になるんですね。あべこうじが真面目な家庭教師で、でも気持ちがぐらついちゃって最終的にああしてしまう、だったら、ぼくは真逆の印象を持つでしょう。男の愚かさを感じてやまないでしょう。でも、このあべこうじには葛藤がなさ過ぎる。倫理が足りていない。最初はぜんぜんそんな気はなかったのに……という落差がないわけですから、これは観ていてもはらはらが生まれません。

 まあ、あの彼女に魅力を感じないのはわかりますけれどね、もうそこはそういう風に仕向けられていますし。あの彼女、踊子ありという人は面白いですねえ。あの人が喋るたびにぼくは笑いました。バナナマン日村みたいな髪型で、なんでそんな喋り方なのだというがさつな感じなんです。あれは面白い。でね、関係性としても対比的で、喫茶店のシーン。あべこうじが鈴木美生を喫茶店に連れて行ったときは、奥の席に座らせているようなんです。でも、踊子ありと行くときは彼女を手前の席に座らせている。ここでもなんか、彼女はえらいぞんざいに扱われているな、でもそういう扱いに抵抗がないようだな、と思えて、なんかキャラクターが見えてくるというか、面白いんです。あれが年取ったら最悪のばばあになるでしょうねえ。軽犯罪は平気で犯しそうです。


 先に役者の話を終えてしまうと、鈴木美生も面白いというか、角度によってずいぶんと可愛さがまちまちな感じの人ですね。映画公開時は二十歳を超えていたようですが、驚きました。十分に女子高生で、中学生と言われても違和感がないかも知れません。見え方によっては我らが恵比寿マスカッツの希志あいの様に似ていて可愛らしいのですが、正面から見ると意外にラルクのハイドみたいな顔をしていてあれ? だったり。斜めの角度が映える「角度美人」でした。キャラクター自体はもう、宮崎駿アニメの主人公みたいで、『耳をすませば』の実写化なんかをしたら合いそうだなとも思え、あるいは人との接し方なんかは『まどかマギカ』のまどか的でもありました。うん、まどかっぽいキャラだったと思いますね。友だちとのトークの感じが、まどかとさやかっぽかったです。


 映画の後半はこの鈴木美生の話になります。映画の急な反転にはびっくりしましたね。

 前半では一切の背景を欠いていた彼女ですが、その分の種明かしみたいなもんが後半でいろいろ出てきて、つくりとしては面白かったです。「彼女がいる人を好きになる」の台詞の意味とかね。複数の人間は互いに互いの背景を有している、という当たり前の事実が映画で語られると、信頼が置けます。一方向だけで捉えないやり方がぼくは好きなので。

 机の上のあのペンの使い方もね、面白かった。あれはサービスショットにもなるし、登場人物の人には見せない陰の部分が活かされていていい。ああいうのを放り込まれると、ぼくたちの日常的なものの見え方にも揺らぎが生じるじゃないですか。自分にとってはこれはただのペンであると、This is a penだと。でも、そうじゃない可能性も見えてくる。これは『さんかく』にも見られた、「我々は互いのことをわかり得ない」というテーマの凝縮体とも言えます。

 映画の細かい部分で言うと、シーンの入り方が面白いのもありました。友だちとの屋上シーン、バスのシーン。あの友だち、清浦夏実の台詞で、「創作ダンス考えてないんだー」とか「左胸のほうがでかいんだよねー」とか言うのがあって、あれはねえ、多くの映画では切るんですよ。別の入り方をするんです。意味のある台詞からはじめがちです。でも、この映画ではそうじゃなくて、日常の一こまを切り取った風によく見せている。だからもっと長回しを多用してもいいのに、とも思いました。カラオケのビールのくだりの長回しはせっかくいいのに、わりとカットを切りがちだから長回しが全体を通してはそんなに活きない。

 ひとつわからないのは、この話はケータイがぜんぜん出てこないですね。2006年段階では高校生はケータイを使いまくっていたでしょうし、教室の風景として置いておいてもよかったのになあとは思います。それこそあの好きな同級生の男子にも持たせておいていいし、ちょっとしたカットでいじらせてみたりしたら、鈴木美生との距離感にももうちょい深みが出たのではないかとも思います。デートの時も、ちょっとケータイをいじらせてみて、あれ、これはなんか、どうなん? あの友だちとの関係って、どうなってんの? みたいなじらしが入るともう一個深くなった。一瞬でいいのでね。それをしないので、中盤はわりとベタなデートになったなあとも思うんです。

 結構長くなりましたね。
 そろそろ終盤の話まで行きましょう。どう着地させるんだと思って観ていましたが、登場人物二人、あるいは三人による大号泣がクライマックス。五分くらい、びゃあびゃあ泣いていました。これは……ちょっと。ちょっとぼくは興が冷めたというか、そんなに泣きを押さんでもええのに、とは感じました。あそこまでやられると、ずっと入り込んでいた人間でないと引いてしまうんじゃないですかね。

 個人的な「泣き」への感じ方ですけど、ぼくね、「アピール泣き」のにおいがすると引いてしまうんです。冷めてしまうというか。泣きたくない、泣きたくないけど泣かずにはいられない、というのならいいんですけど、なんか、ちょっと「甘え」入ってない? と思うと、急に気持ちが凍る。たとえばこの映画で、あの人物二人が陰でこっそりと大号泣していたりしたらまた別なんですよ。人には涙を見せないぞ、でも泣いてしまうんだ、というのがあると、その涙は本物だなあと思えるんです。でも、ちょっとさあ、涙に武器としてのニュアンスあるやん、そこがゼロではないやん。アピールメインではないとは思うよ、でも、正直に言いなよ、ちょっとアピールも入ってるよね、と思ってしまう。
 ここは大いにぼくの人間性の問題と言えそうです。ぼくは「男の涙」には弱いんですけれど、「女の涙」は、それがちょっと武器たりえてるやん、と思ってしまうのです。
 なおかつ、あべこうじにいくら泣かれてもそこはもうどうしようもないです。

 まだまだ語り足りないことがあります。オヤジと風呂に入っているくだりなんかも掘り下げたらいろいろ言えそうです。いろいろ語らせたくなる映画ですね。惜しむらくはあの大号泣ですが、じゃあどうすれば正解だったかというと、まだまだこれも考えてみたい。

 映画としての強さでいうと、個人としては橋口亮輔作品のようなものが期待できつつもそこにあるものがない、とも思えた。何をどう感じていいのかわからない映画とも言えました。細部の妙技は『さんかく』同様に効いていますが、個人的に合うところも合わないところも両方入った映画でした。
 「しょせんフェイク」が「しょせん現実」を超えるには。

オーストラリア製の擬似ドキュメンタリー作品です。日本ではDVDスルーだったんですかね、副題は完全に日本の売り手がつけたものでしょう。リンチの『ツイン・ピークス』劇場版『ローラー・パーマー最期の7日間』にあやかろうとしたんでしょうけれど、え、いまさらそれにあやかるの? 『ツイン・ピークス』観ていないけれどおそらくまったく内容的類似性はないんだろうし、登場人物の名前に「パーマー」が入っているだけでそんな副題つけちゃうの? という部分について売り手の説明を求めたいところです。

 内容としては、アリスという少女が水死体で見つかり、彼女の死因や周辺に関して家族のインタビューを中心に解き明かしていく、というような筋立てです。フェイクならではと言えるのは彼女の幽霊と思しき影が随所に現れてくるところで、これが作品全体のアクセントになっているわけです。


 しかしまあこと擬似ドキュメンタリーという手法において、現代は昔と比べて難しい時代になったのではないかなあと思います。ここで言う「昔」の意味は「ネットが今ほど普及していなかった時代」ということですが、その頃であればもっと簡単に真実みを与えられたと思うんですね。創作に限らず実際の出来事についても同様ですけれど、一般の人間が今ほど情報を吟味できない時代だったわけで、「これはもしかしたら本当に起こったことかも知れないぞ」という風に観ている側を騙しやすかった。

『ブレアウィッチ・プロジェクト』なんかはその意味ではいいタイミング、ある意味で絶妙なタイミングだったとも思うんです。あれは1999年ですけど、今ほどにネットは広まっていないし、その反面、ネットを介して情報をそれらしく伝えることができた。マスメディアとは違う情報媒体としてのネット、それに今ほどの免疫が備わっていなかったから、「いや、もしかしたら本当にあったことなのでは。今まで報道されてこなかったタブーの類なのでは」という雰囲気を生み出せたわけです。2ちゃんねるの「鮫島事件」とかもそうした一例と言えましょう。でも、この10年でそれはもう無理になりました。ネットでちょっと検索すれば、それが本当かどうかだいたいわかってしまう。だからこそ擬似ドキュメンタリーはもはや、「これはドキュメンタリーの体裁を取った創作です」という態度から逃れることはできなくなってしまった。

 また同時に、ネットの普及、ビデオカメラの普及などによって、小さな組織レベル、個人レベルでドキュメンタリーがたくさん撮られるようになった。個人配信のニコ生、Ustreamなんかもそのひとつで、実際のドキュメンタリーで驚かされるようなものが歴史上かつてないほどに数多く観られるようになった。リアルタイムで放送事故的なものに遭遇する機会も多くなり、生々しいものに触れることが容易になった。

 さて、そうした背景の中で擬似ドキュメンタリーは今まで以上に、それが擬似であるというところからのスタートを余儀なくされます。現実味を帯びさせようとしながら、「しょせんフェイク」だとみんなにばれている。その中でできることは、「しょせんフェイク」と知れながらも、「あるいはここで描かれることは現実にあるのかもしれない」と思わせること。劇映画とは違う手触りで、「端からフェイクと知れたフェイク」に、「しょせんフェイクだ」と感じさせずに、真実みを帯びさせること。これはすごくハードルが高いなあと、観ながらずっと考えていました。

 観る前の情報で擬似だとわかっていたぼくは、「しょせんフェイク」ということから逃れられず、また撮り方それ自体も、「しょせんフェイク」でありながら真実みを帯びさせる努力がもうひとつ足りなかったのではないか、と感じました。
 簡単な話。アリスの死が序盤で明かされる。すると映画は家族のインタビューに移り、その内容は「死んだのを今でも受け入れられない」とか「どうして死んだの」的な話が中心になる。それも定点撮影の普通の証言形式です。それをいくらやられたところで、「だって本当は死んでないだろ」と思ってしまう。ぼくは人並みにドキュメンタリーは見ているし、ニュース映像もあるし、その中で実際に近しい人を失った人々の顔を目にしている。それに比べれば、さっぱり意味のないものにしか見えてこない。
 

 これが劇映画なら違います。劇映画はひとつの、現実とは離れた虚構の時空を打ち立てようとしています。優れた劇映画はその表現の意匠によって、「しょせんつくりごと」とは感じさせない。その中に実際に生きている人間として立ち上がらせるし、こちらはこちらで、物語を見る際のモードで受け入れることができる。でも、擬似ドキュメンタリーはそうじゃない。なまじ現実と連なっているからこそ、劇映画以上の配慮が必要になる。この映画には、その配慮が欠けていると思えてなりませんでした。擬似ドキュメンタリーに対して言ってはならないことかもしれませんが、「現実ごっこ」に見えてならなかった。

 擬似ドキュメンタリーが「現実ごっこ」とは一線を画す最適な方法の一つは、現実にはあり得ない(と思われる)ものを映し出すことです。擬似ドキュメンタリーが「しょせんフェイク」である一方、実際のドキュメンタリーは「しょせん現実」。しょせん現実、というのは変な言い方に思えるかも知れませんが、ドキュメンタリーが原理的に逃れられないくびきは、対象が現実であることそれ自体なのです。

 わかりにくいですね。ぼくがもっとも優れた擬似ドキュメンタリー映画のひとつだと思っている白石晃士『オカルト』(2009)を例にあげましょう。

 あの映画では「啓示を受けたと思いこんで殺戮に踏み切る男」の様子が描かれます。そして映画の中ではオカルトめいたものがいくつも出てきて、合成ですがカメラにもそれらしきものが映し出される。これは「しょせんフェイク」です。しかし、「しょせん現実」しか映せないドキュメンタリーとはまったく違う、「もしかしたらありうるかもしれない現実像」を描き出しています。ドキュメンタリーでは、ぼくたちはある限定された現実をしか観ることができない。現実は確かにこうである、という域に留められる。しかし、『オカルト』では、まさにそのオカルトというモチーフにより、「本当に『しょせんフェイク』と片付けられるのか」「現実にはこの男のような人間がいるのではないか、いやいたとしてもぜんぜんおかしくない」「現実には人知を超えた何事かがありうるかもしれない」「仮にないとしても、それをあると思う人間が確かにいる」と感じさせる。現実はこのようなものだ、という捉え方を、フェイクによって壊してくる。ぼくたちの見ている現実が、フェイクではない確証があるのか?

 『レイク・マンゴー』ではそのようなモチーフとして「アリスの幽霊」が登場します。
 このモチーフがねえ、うーん、どうやねん、と。
 音楽の感じなんかもね、アリスの幽霊が怖いものみたいに演出されているんです。でも、この家族にとって見れば愛する娘でしょうし、もっと好意的であってもいいと思うんです。これが誰かわからない幽霊につきまとわれているとかなら別ですけど、正体割れてますからねえ。幽霊っていうのはいわば人知を超えた存在だし、フェイクドキュメンタリーの要素としてはありだと思うんですけど、身元確かな幽霊だったら別にいいんじゃないですかねえ。なぜかあれが不気味な色合いをもって描かれるんですけど、今思い返してみるに、家族含めアリスを取り巻く周囲の人々が、彼女を本当に愛していたのやな、という風に見えてこない。そうなると「しょせんフェイク」であるところの彼女の実像自体がもはやつくりもの以外の何者でもなく思え、家族が最終的に何をどうしたいのかもわからない。

 もっと言うと、これは映画とずれますけど、ぼくね、幽霊って何をしたいのかもうひとつよくわからないんです。このアリスの幽霊もね、写真やビデオで遠巻きに映ってカメラのほうを向いているんですよ。で、何やねんと。おまえは何をしたくてそこにいるねんと。これは幽霊一般に言えます。たとえば心霊写真で顔だけ映る幽霊がいる。でも、おまえはなんで写真に写りたいのや、と思いませんか? 集合写真でみんなピースをしている中で、あれ? 手が一本多い! きゃあああ! 
 何やねん。なんで集合写真で手だけ出そうと思ったんやその幽霊は。
あるいはあれですかね、怖がらせてやる、と思っているんですかね。何なんですかその幼稚な目的は。それとも何かを伝えたいのですかね。なんで写真やビデオに映るんですかね。気づいてもらえないかもしれないのに。直接現れたほうが早いのに。幽霊は写真やビデオにしか映っちゃいけない決まりなのでしょうか。もういろいろとよくわからない。


 だから『レイク・マンゴー』のアリスにはぜんぜんぴんと来ない。
ラストもね、アリスの母親がカウンセリングを受けるんですけど、家の中を想像しながら「アリスの姿はないわ」みたいな落ち着け方をするんです。なんですか。しょせんはおまえの内面問題だったんかい、と思います。いろんな手がかりを見つけたり彼女の秘密を暴いたり何なりして、お母さんがすっとしたねみたいな話ですよ。アリスの正体を暴いて、そうしたらもう満足なんですかね。もう幽霊化した娘なんて怖くて嫌だなってノリですかね。もうアリスが可哀相すぎるよ! 結局ラストも家に置いて行かれちゃったじゃん!

 と、いろいろ言いたくなる作品でありました。ぜんぜんこちらの現実認識を揺るがせてくれない、登場人物の内面もすかすかな「しょせんフェイク」だという風に思ったわけですが、さていかがなものでありましょう。
 岸谷五朗が格好いい。でも、よくわからないところも多かったです。

DDさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 

 崔洋一監督は『クイール』という盲導犬ものを撮っているので、『犬、走る』というタイトルを知ったときには犬のお話かと思いましたが、違いました。崔監督の作品は『月はどっちに出ている』と『血と骨』しか観ていないのですが、どちらも在日の外国人の生き様を中核に据えた作品でしたね。本作もまた、在日の中国人、韓国人が入り乱れる映画でした。

 韓国うんぬん、中国うんぬん、在日うんぬん、という話にはいろいろ思うところもあるのですが、最近はどうも、韓国嫌い、中国嫌い、という言説をネットで見るのに少し辟易しています。いや、言説ならばいいのですが、ただの罵言に過ぎないものがそこかしこで湧いていますからね。うん、その辺については、書きたいこともあるんですけどね。
 まあ、そんな話は置いておきますか。。
 さて、『犬、走る』です。

 岸谷五朗、大杉漣が主演で、岸谷は刑事、大杉はどうもよくわからない立ち位置ですが、情報屋みたいなもんらしいです。二人を軸に、歌舞伎町の裏稼業の様子などがいろいろと描かれていきます。

 結論から言うと、どうもぼくにはよくわからないところが多かったのですね。もう少し説明してほしいなと思うところも正直ありました。いわゆる裏の世界みたいなもんに詳しい人にはぴんとくるようなのも多かったのでしょうけれど、ぼくには何のことやら、どうしてそうなるのやら、というのもあって、入り込むのに難儀した部分も多いです。

よかったところで言うと、岸谷五朗ははまり役だったように思います。「不良の刑事」というのがいちばん似合う俳優の一人ではないでしょうか。やさぐれた雰囲気で、違法な行為もなんでもやったるでな感じがあり、韓国映画なんかに出てみても結構はまるんじゃないですかね。『夜明けの街で』っていう映画が公開中らしいのですが、予告編やポスターの感じからして、使い方が違うように見受けます。この人はこの『犬、走る』みたいな、ノワール系が最も似合うはずなのです。崔監督は韓国映画も撮っているらしいですし、ぜひ起用してほしいと思いますね。

 岸谷五朗が出てくると映画の温度が上がります。焼き付くのはなんといっても、「シャブを売る外国人を摘発」からの~「押収したシャブを部下の香川照之と打つ」→「ハイになりながら歌舞伎町の路上で若者をぼこぼこ」→「あげくにぼったくりバーでレイプして店内を破壊」。このくだりは絶品でした。もうむちゃくちゃですからね。このノリは最近の日本映画では観ることができません。なにしろ主人公の刑事がシャブを打ってレイプするわけですから、こんなのを公開したら真面目な人たちに怒られてしまいます。


 でも、だからこそ岸谷五朗が輝いているのです。90年代の薄暗い画面と非常によくマッチしていました。HIPHOPを随所でかますのも90年代的な古くささとしていいですね。こと日本映画において、HIPHOPは90年代的映像ととても相性がいい。宇多丸さんは「日本語ラップやヒップホップを格好いいものとして描く日本映画」について難を示していましたが、それが古さと結びついたら「だささ」として昇華する。男の髪型にしても、センター分けでその分けた前髪がもっさりしているというあのだささ。ああ、90年代だなあというのに満ちていました。おわかりかと思いますが、ここでいう「だささ」は肯定語です。

 一方、大杉漣はというと、うーむ、この大杉漣がいいという声もネットであるんですけど、ぼくには大杉漣じゃないよなあという気がして仕方ありませんでした。大杉は岸谷に頭が上がらないような、弱気なキャラクターとして出てくるんですけど、存在感がありすぎるんです、個人的な感じ方ですけどね。もっと弱っちそうな人のほうがいいと思えてならず、観ながらどうもノイズになりました。だって大杉漣は岸谷五朗よりも十歳以上も上ですし、背だって高いし、それなのにあんな浪人生みたいな格好をしているのがどうも合わない。それとあの変なSMのシーンもよくわからない。岸谷のシャブ打ちバー破壊はキャラに合っているなあと思って楽しかったけれど、大杉のSMシーンは何なのでしょう。あれを入れた意図がぼくにはわからないんです。この映画において、彼の性格を描写する場面たり得ているかというと、ぼくにはどうもそうは思えないというか、うん、よくわからないんです。教えてほしい側の人間です。

 冨樫真演ずる中国人娼婦の死で物語が大きく動くんですけど、ここもぼくにはよくわからなかった。すっごい唐突に死ぬ、というか死んでいるんです、あの人が。あれね、冨樫真がどんなことをやっていたのかもうひとつよくわからないんですよ。一応台詞で説明されますよ、ヤクザに目をつけられるようなことをやったってのも言われているし。でも、そーんなに存在感がないというか、ああ、この人が殺されちゃった、えらいこっちゃ感が実に乏しい。簡単に言うと、死体としてのほうが活躍してしまっている。死体をあちこち引きずり回すことになるんですけど、そっちのほうが出番としてはむしろ長いっていうね。それだとどうも、もっと序盤で、大きな役割を担ってもらわなくちゃいけないと思ったんです。岸谷五朗にしても大杉漣にしても、冨樫真を弔う精神がなさ過ぎる。ただの邪魔な死体扱いですからね。それでいいのかよ、と思わされる。いや、それならそれでいいけどさ、でも、死者をそういう風に扱って、最後にあの展開来られても、ぐっとは来ないよと思うんです。


 それと、これまたよくわからなかったのは、最後の「防弾チョッキ、着てないのか」ですよ。え、なんで大杉が防弾チョッキを着ていると思ったんですか? ネット上の解説で、岸谷と大杉がヤクザ摘発のために一芝居打ったのだ、みたいに書かれていたんですけど、え、どこでわかるのそれ? ぼくが聞き逃したんですかね? だってその直前のシーンで、大杉はヤクザに脅されていたんですよ散々。そこから説明無しであの新宿東口大疾走に行くんですよ。どうして岸谷は大杉が防弾チョッキを装備していると思ったんでしょうか。

 それに、だったら、その伏線をどこかに入れておくべきでしょう。いざってときは防弾チョッキが役に立つぞ、みたいなことをどこかで大杉に吹き込むなどして置くべきでしょう。そう、それがないんですって。クライマックスまでのどこかでね、大杉漣が、「防弾チョッキを着ておくと安心だ」と思えるシーンが必要なんです。そうしないと観客を導けないですよ。それがあって初めて、「おい、おまえ着てないのかよ」になるんですよ。いっくらでもあったはずですよ。岸谷と二人でヤクザの事務所に乗り込むくだりが前の段階であるんだし、そのあたりで岸谷に確認させたっていい。着てるな、よし、みたいなやりとりがひとつでもあればぜんぜん違っていた。それがないのに、あれで何か驚きを演出みたいな風に持って行かれたって、それは無い話ですよ。「だってあれ、蒸れるし……」って、着たことないじゃん大杉漣!

 と、延々書きながら少しだけ不安です。「あったじゃん、そういうシーン」と言われたら終わりです。あの空き地で岸谷が着ているのがわかるのは違いますよ。あれを持ち出さないでくださいよ。あの展開より前で、という話です。いや、あの風俗の短いシーンで、もしかしたら岸谷に大杉から電話がかかっていたのかも、あの電話はそういうことだったのかも。もしもそうだとするなら、そこは絶対カットしちゃ駄目だって。あれが最後のチャンスだったのに、伏線を張るためのさ。

 韓国、中国の人々の生き様みたいなもんももうひとつよくわからなかったです。冒頭にあの部屋で拉致されていた人たちの話も、わかる人には何のことかわかるんでしょうけれど、もう少しでいいから説明してくれないかなあと思いました。それはおまえの知識不足だって言われるかも知れないけど、ああいうことにまつわる知識は、まっとうに生きていくうえでは入ってこないものなんですよ、そこで知識不足を責められても困りますよ。韓国、中国の人の生き様ってことでいうと、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』がすごくよくて、あの映画だとあの人たちの目線もわかった。でも、この映画ではわかりませんからねえ。自国から出稼ぎに来た人々の人生っていうのが、この映画では何もわからない。モチーフとして利用されているだけに思えた。

 岸谷五朗を軸とした映画の風合い自体はいい。そこはとてもよかったと思います。ただ、細かい部分でよくわからないところがあって、あるいはぼくにはこの映画を正当に評ずることができないのかもしれません。だからむしろ、教えてほしいことが多いですね。自分にはこの映画の良さが大いにわかったぞ、という人、大募集です。
Fuck'n Fuck'n Funny!!!

 はい、今日はこの回でございます。映画の話は一切しないのでございます。
 恵比寿マスカッツについていまさら説明の要はないというほどに語ってきたわけでございますが、2011年11月現在放送中の『おねだりマスカット!SP』の前身である本番組がDVD発売されるにあたり、これはお薦めせねばならぬというわけでございます。

 こと現代の日本におきましては、広告代理店に愛された48人の集団を筆頭として、アイドルグループ戦国時代などと言われております。幾多のグループが生まれ、またいつぞやのうちに泡沫のごとく消えていくのでありますが、その中におきまして我々が今どのグループを支持するべきか、どの旗印に快哉を叫ぶべきかと問われたならば、これはもう恵比寿マスカッツをおいて他になしと言わねばなりません。48人がどうしたというのです、あんな輩は広告代理店やら大手出版社やらの掌の上で踊っておればよいのです。あるいはピンク色のみつばがXだろうがZだろうがどうだというのです、十代ならば十代らしく保護者の管轄下のもと、年齢に応じた教育機関におとなしく登校しておればよいのです。 
ことアイドルという存在は何かにつけてうち騒がれるものでございます。やれ処女だ処女ではないなどと論争するのは愚の骨頂であります。どうせ抱けやしない相手の破瓜が既になされているかどうか、そんな話題で四の五の言っているやつは阿呆の極みでございます。やれニャンニャン写真が流出しただの、やれ整形疑惑がどうだだの、やれスキャンダルがどうだこうだの、そんなことで騒がれている連中もそんなことで騒ぐ連中も、ぼくに言わせればくるくるぱあのぽんぽこぴいでございます。

 マスカッツの姐さん方は、処女か否かなどというどうでもいい童貞まるだしの幻想で勝負することはなく、なぜならあの方たちの多くは、ファックファックファック! 必要とあらば怒張した陰茎を含みこみ口内で精液を受け止め、またあるときは淫猥な文句とともに肛門を口唇愛撫、そして陰部を露わに陽物を包みこんでは優駿のいななきにも似た絶頂のあえぎを響かせるのであります。FUCK! FUCK! FUCK!  ああ、この四文字をかようにも輝かせる彼女たちを愛でずして誰を愛でましょう。

 それでいて感動的なのはそんな彼女たちがそうしたいわば彼女たちだけが持ちうるその武器を、この番組とこのユニットにおいて、まったくアッピールしない点なのでございます。無粋にして性急なる方々におかれましてはこの番組を「エロ」などとカテゴライズされるかもわかりませんが、まったくもってとんでもない! 昨今の地上波テレビがそのように柔軟かつ寛大な枠組みを設けているわけがないではありませんか! ゆえにしてこの番組においてはエロというのはごくごく小さな扱いでしかないのであり、それもほんのときたまにごく一部のメンバーより発されるに留められているのであります。

 ここにまたひとつの感動があるではないですか! 彼女たちはマッコイ斉藤総演出のもとに、彼女たちが持ちうる力を抑えているのです。それを発揮すればウケがいいのはわかっている。それをやれば誰よりも優れている。でも、それを見せない! ここにはいわば恥じらいに満ちた大和撫子の気韻さえも感じうるのであります。彼女たちを観さえすれば、その辺のアイドル風情がいかな扇情的なパフォーマンスをして見せたところで、そんなものが愚にもつかないおままごとであることが知れましょう。てめえらエロを舐めてんじゃねえと、マスカッツの方々は鼻でお笑いになることでございましょう。そしてそんな彼女たちだからこそ、ほんの、ほんの時折に見せるエロが、かの妖刀村正をもってしてもなしえなかったといわれる、一等の切れ味を見せるのであります。その道に生きる女の覚悟を、笑いとともに肌身に感じるわけでございます。

わっしょい、わっしょい、わっしょい、わっしょい、わっしょい、わっしょい!

ふう、いやあ、こんな語り口でぼかあ延々と書き続けてしまいそうです。まだまだ日本も捨てたものではないなあと思います。この番組はテレビ東京系であり、関東以外の地域ではネットされていないわけですが、それでも全国キャンプと銘打ったライブツアーを行ったら、津々浦々まで観客が集まるのであります。もうすぐ香港まで行くのであります。

DVDの話もちょっとはしないとね。そうね。
 本シリーズ『ちょいとマスカット!』における大収穫は、グラビアアイドルの面々もさりながら、瑠川リナ、希志あいのというスターを発掘したことであり、これはもうドラフト1位、2位であり、打線においても1、2番コンビとして3割を優に超えるのであります。こうしたAVスターをどんどん起用してほしい、ということだけが本番組への切なる願いでございます。まだまだAV業界には珠玉がいるはずなのであります。

希志あいの様でやんす。正統派のスレンダー美女でやんす。

瑠川リナ様でやんす。独特なるかわゆさは一度解すると比類ないものに思えるのでやんす。

内容につきましてですが、これはもう観てくれればよいので、どうでもいいや。
 知らね(まさかの投げやり)。
 
 10月には綾小路翔作曲による、グループ5枚目シングル『ロッポンポン☆ファンタジー』をリリースし、今後もそのご活躍が大いに期待されます。DJOZMAの新曲プロモでも、いやはやなんとも愉快なパロディダンサーを務めているのであり、このまま行けば彼と組んで紅白出場なんてことも………ああ、彼はもう出られませんのですね。いやしかし、彼が歌番組に出る際には、ぜひとも彼女たちを連れ立っていただきたい! そこで漢を見せてくれOZMAよ! 制作者よ! 彼女たちがあんなに輝いているのだ! あんたたちがそれを助けないでどうするのだ! わー!



 そもそも紅白なんてどうでもいいのです。彼女たちの登場は紅白なんたる規制権威への挑戦であり、彼女たちの躍動は腐れ切った体制へのこの上ないアンチテーゼなのです(さすがにそんなものではない)。そろそろ読んでいるのがあほらしくなった頃合いでございましょう。こんなものを読んでいる暇があったら寝なさい。
 いや、寝てはいけません。
 その目で見知ったこの情報をもとに、いざDVDを買いに走るのです! おわり。
 ヤーニンは素敵! 泥酔拳は愉快! だからこの映画はもったいない!

 英題『Raging Phoenix』
『チョコレート・ファイター』を観て以来、二年近く公開を待ち続けた本作。しかしなんと日本ではDVDスルー。しかもDVDは発売よりも先行でレンタルが開始され、DVDを買ったお得感も乏しいのですが、そこは我らが”ジージャー”ヤーニン・ウィサミタナンの二作目とあって、買わずにはおられません。ジージャーというのは「タイ語ではなくタガログ語で、ヴァイオリンのこと。母親の友人のフィリピン人が名づけたらしい」です。

 主演第一作である『チョコレート・ファイター』はゼロ年代マイベストテンのひとつですが、別に「ゼロ年代」でなくてもベストテン入りさせるくらいに感じ入った作品です。あらためて振り返るに、ヤーニンはその小さな肉体をもってここ数十年の格闘アクションを総括していたとも言えるのです。

アジア格闘アクションの大家と言えば70年代初頭に人々を熱狂させたブルース・リーがいて、その後にジャッキー・チェンが一世を風靡し、彼は実に数十年にわたってのこのジャンルを盛り上げてきました。『チョコレート・ファイター』はそんな彼らのアクションへのオマージュに溢れていたのです。

 そして目を見張るのは、映画に留まらない格闘ものへの言及でした。ブルース・リーとジャッキー・チェンが世を席巻したその後、彼らに比肩するような、日本や世界の誰もが知るようなアジアン格闘スターは生まれてきませんでした。
 しかしその一方で、人々はまったく別のジャンルで、格闘ものへの愛着を表明するようになりました。それはずばり「格闘ゲーム」「アクションゲーム」です。ファミコンから連なるゲームこそが、ぼくを含めた90年代の子供たちを熱くさせたのです。『チョコレート・ファイター』のクライマックスはファミコン的横スクロールアクションを見事に実写化したものでありました。

そして特筆すべきは、それが筋骨隆々の男性俳優によるものではなく、若い女優によって果たされたということです。このアイドルを愛でずして誰を愛でましょう。ヤーニンは格闘×少女という、もっぱら二次元でのみ成功を収めてきた偉業を成し遂げたのです。

 少女ってわりに『チョコレート・ファイター』公開時は既に24歳じゃないか、と無粋なことを言ってはいけません。映画を観たでしょう。あんなにもあどけなく、なんとクライマックスの戦闘さえも部屋着同然の格好でやってのけるというあのスタイルに萌え踊ることなくして、あるいは燃え上がることなくして、何が映画的感動でありましょう。俺たちの時代にはブルース・リーがいた、俺たちの時代はジャッキー・チェンだ、なるほどそれは大いに羨ましい、しかし、ぼくは言いたい!
「俺たちの時代には、ヤーニンがいるのだ!」

 前置きが長くなりましたがそんな彼女の二作目、『チョコレート・ソルジャー』です。タイトルだけ見れば続編のようですが、これは日本の売り手が勝手につけたものですので、まったくもって関係ありません。

 前作では知的障害を持つ少女を演じたヤーニンで、台詞も多くはありませんでしたが、本作ではメイクを一新、スタイリッシュな若者と化しています。前作とぜんぜん違う顔のヤーニンを観られたのは嬉しい限りであります。


DVDパッケージにもあるのですが、本作では「泥酔拳」なる拳法が発揮されます。これは「HIPHOPダンス×酔拳」といういかにも外連味溢れる楽しいもので、前半のダンス的な格闘はアゲアゲの極みでした。
 時代劇の殺陣もそうですけれど、映画の中での格闘というのは、一種舞踊を見るような高揚感をもたらします。リアルかどうかは二の次であり、役者たちの身動き、そのアンサンブルが踊りやショーのような見事さを湛えるとき、観る者はアゲアゲになるのです。


 いつ消されるかわかりませんが、ワンシーンを張っておきましょう。最初、ヤーニンの台詞に変なおっさんの声が被りますが、この動画を上げたのはぼくではないので、よくわかりません。



いかがでしょう。戦いの中に悦びを見いだすという、MGS3の「ザ・ジョイ」をも凌駕するきらめきに満ちています。ヤーニンのキュートなステップにめろめろです。ヤーニンの発する「ウイッ、ウイッ」という声を聴くたび、まるで大自然を我がものとして暴れ回る野生児のような躍動を感じるではないですか。願わくばどうかぽこちんを蹴ってもらいたい(へんたい)。あるいは頭突きをしてもらいその際に飛ぶ汗を浴びたい、唾も厭わない(根深いへんたい)。

 ヤーニンに胸躍る本作であり、それで満足と言えばもう満足なのですが、ふむ、そろそろテンションを落ち着けて内容について語りましょうか。

 ヤーニンは男に振られてやけ酒を喰らい街路を彷徨するのですが、その最中に謎の集団に誘拐されそうになります。それを男に助けられ、彼から女性を誘拐する悪の組織について聞かされます。男は自分の妻を誘拐され、彼女を救うべく組織のアジトを突き止めようとしていたのでした。ヤーニンは彼の仲間である二人の男にも出会い、彼らと行動をともにするようになります。

 言いたい文句を一言で言うと、「この脚本、この物語じゃ泥酔拳を活かせない!」ということです。

 話の目的としては、「男の妻を救い出す」「悪の組織を撲滅できればなおよし」ということなのですが、どうも変にシリアスな方向に行ってしまうんです。これがいけません。

「HIPHOPダンス×酔拳=泥酔拳」の輝きはね、その戦いに悦びがあることが肝要だと思うんです。その悦びがヤーニンの至高の笑顔をもたらしたのです。ところが、話としては、「勇み足はやめるのだ。調子に乗るな。敵は手強いのだ。深刻な事情があるのだ」という方向に持って行かれるため、HIPHOPサウンドと調和したあの舞踊が拝めなくなる。

 なんでそんなことに。案の定、クライマックスではもう泥酔拳が関係なくなるのです。ぜんぜん泥酔していないのです。いいじゃん、面白いじゃん、べろべろになりながら戦うっておもろいわけじゃん、なんでそれを捨てちゃうんだ、とがっかりなのです。

 もちろんヤーニンは跳躍の連続、蝶のように舞っては蜂のように刺してくれます。しかし、いかんせんこの見せ方が前半に及ばない。『チョコレート・ファイター』のような斬新な見せ方もない。吊り橋アクションは確かに面白かったけれど、おい、泥酔拳はどこにいったんだ。ヤーニンならではだなあという感動がないぞ。萌えに乏しすぎるぞ。

 悪の組織は街外れの廃屋みたいなところの地下にあるのですが、いざ潜ると「どんな場所やねん」なんです。本当にショッカーのアジトみたいな、現実感ゼロの空間があるんです。それはいいんです。それは別にいいの。むしろそんな風に外連味を出していってほしいの。でもね、せっかく非現実空間を演出したのに、その方向性が面白くないんだ。「嫁さんはどこにいるんだ! 嫁さんを救い出せ!」ってノリに行っちゃうもんで、HIPHOP感ゼロになるんだ。

泥酔拳は前半だけでした。なんでそんなことに。もっとね、普通の時でも強いけど、酒を飲んだらもっと強いっていうニュアンスがほしいわけです。「ヤーニン! 酒だ!」というノリでぽいっと酒瓶を渡し、それをぐいっとラッパ飲みで、ふうと息を吐いたときの眼力でぶち抜いてほしいのです。そういうのは肝心の終盤でまったくの皆無。普通に強い人が普通に頑張っていたのです。いや、普通じゃないよ、あの戦い方それ自体は面白いよ。でもさあ、違うじゃんかあ。


 本作では泥酔拳うんぬんより、「二人協力プレイ」がありました。そこを観れば言い方は変わります。なるほど、ゲーム的な快楽で言えば、「二人協力プレイ」はありですからね。タッグ攻撃というのは面白かった。だったら、それで押せばよかったのに。二人で放つ技とかをもっとフィーチャーすればいいのに。この映画はそっちを結構押しているんですよ。だったらそれをこそ泥酔拳と組み合わせてくれ、そうすればもう何の文句もないのですよ。それならいっそのことHIPHOPは捨ててもいい。社交ダンスでも何でもいいから見せ方はもっとあったはずだ! と、言いたくなるのです。すっごくいい素材を使っているのに、調理法がまずい。なぜこれを煮るの? 焼けばいいのに、といったところ。
 
シリアス方向を入れ込んでしまったがために、泥酔拳との食い合わせが大いに悪くなり、アゲアゲな前半からしょぼしょぼんになってしまった。『チョコレート・ファイター』もそれなりにシリアスではあったけれど、多くの見せ方を駆使して面白かった。本作のクライマックスはタイマン勝負になってくるので、殺陣の快楽も乏しくなった。タイマン勝負はリーが存分に見せてくれたのですよ。ああ、ヤーニンが酔いながら雑魚軍団をやっつける場面がもっともっと観たかったなあ、ということです。

 前半と後半でトーンが真逆な記事になりました。しかし、ヤーニンが輝く瞬間は確かにあるのであり、今後の彼女を日本で拝むためにも、観てほしいとは思います。
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