『遠雷』 根岸吉太郎 1981

だから原作をなぞっちゃいけないんだって!
d0151584_17573542.jpg

 今年のモントリオール映画祭において、『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』で監督賞を受賞した根岸吉太郎監督、そのATG時代の作品です。この監督の作品は初鑑賞です。

栃木の田舎に暮らし、農業を営む若者の話で、ストーリーを楽しむというよりその風合いを愛でるべき映画でしょう。いい具合に「1981年の田舎」という空気感があり、飯を食うシーンが結構印象的なんです。うまく撮られている食事のシーンって、他では代替できない生々しさがあるんですね、特に日本映画の場合それを感じる。この頃撮られている森田芳光の『家族ゲーム』なんかはその典型(あれは変な食事風景ですが)だし、最近のもので印象に残っているのは高橋泉の『ある朝スウプは』のシーン。冒頭の朝食をとる場面です。咀嚼音が活写されると生々しさに繋がります。箸が茶碗に当たる音とかね。これをうまく活かすと、人が生活している空気を効果的に醸成できるため、この『遠雷』においてはとりわけ重要な機能を果たしていました。そういえば永谷園のお茶漬けのCMでも、男が茶漬けをかき込むものがありましたが、あれもまた食事の生々しさを押し出していました。

 主人公の若者を永島敏行が演じており、石田えりが恋人役なのですが、この石田えりはすごくいい感じで可愛いです。当時20歳くらいでしょうが、今の時代に置き換えても、女子大生の中で一番もてるタイプの可愛さです。ヌードも披露し、おぱーいがたわわです。演技も非常によい具合で、この映画に丁度いい。役者が醸す雰囲気、映画全体の雰囲気はいいです。ばあちゃんの愚痴に辟易した母親が、その愚痴で石田えりを辟易させる。でも本人にはその自覚がないというあのシーンなんか、ああ、人と人の関係のかゆい部分を描きよるなあと感心させられます。

 情交の場面も生々しくてよいですねえ。うん、生々しさがあるのはこの手の映画では大事だなあと思う。それでなくても、女性の裸を出す以上は生々しさがほしいですね。『楢山節考』もそうだし、キム・ギドクの映画もその辺をきちんと踏まえている。最近の日本映画でも、『ジョゼと虎と魚たち』の池脇千鶴や『さよなら、みどりちゃん』の星野真里のように、女優がヌードになっておぱーいを見せてくれるものがありますが、昔のものと比べると生々しさが足りなくなっています。綺麗に見せてしまっている部分がかなりあります。これはAVにも言えて、トップメーカーであるエスワンのAVはエロくない。そりゃやることやって見せるとこ見せていますけど、生々しさが決定的に足りない。

 話が逸れました。『遠雷』はしかし、空気こそいいんですが、どうしても原作小説をなぞった感じが否めません。立松和平の原作なんですが、これは原作小説を持つ映画全般に言えることで、どうしてもなぞった感じが出てしまうんです。原作と映画の関係について云々されますが、やはり「なぞった感」のある映画は、ストーリー的には失敗します。原作を読んで思い描いたイメージが映画だと異なって入り込めない、なんてことも言われますが、個人的にはそこはどうでもいいんです。それよりも映画を映画として独立させることがきっと大事で、下手に原作に寄りかかると、なぞった感が出てストーリーがしっかりしなくなる。

だからこそこの映画で言うと、ここが見せ場というところで思い切りしくじっている。見せ場となるのだろう三カ所が三カ所ともしくじっている(もっとありますけど)。ぼくは原作を読んでいないのですが、たぶん映画の主たる展開は原作に同じなんだと思います。改変して起こった失敗とはどうしても思えないのです。ひとつには父親のくだりです。不倫相手がいるのを隠そうともせず、金をせびる駄目な父親がいて、主人公は彼のだらしないところが許せないわけですが、いざ大事な場面になると父親がいません。どうなったのだ、と思うわけですが、そのままほったらかしです。何をやっているんだ!

  そしてあのジョニー大倉の独白場面。この映画を物語として褒める人はあそこも褒めるんでしょうが、ああいう演出にするならもっとジョニー大倉の役をちゃんと描かないといけない。ワンカットの長回しで自分の罪を独白するんですが、あれはきっと原作でも見せ場なんでしょう。でもこの映画の場合、ジョニー大倉があの構図に耐えるほど映画的な顔ではない、ということを抜きにしても、彼が濃密に描かれていないからあのやり方では耐えられない。人妻も情交シーンこそいいし、佇まいもいいけど、人物、人格ある人間としての印象が弱いので、あの告白に感慨がこもらない。簡単に言うと、脇役が終盤でしゃしゃり出てきた感じがすごいんです。おまえはそこまで物語を担っていなかったよ、と鼻白む。人妻にしても、せっかく娘という有効な装置がいるのに母親の部分を生かし切れていないから業がこもらない。蟹江敬三も拍子抜けです。多分蟹江敬三も台本を読んで拍子抜けしたでしょう。思わせぶりな登場だったのに、結局何でもなかった。

 それとあの「青い鳥」を歌うところ、これは原作にあったんでしょうか、唐突すぎて不可思議でした。結婚式の宴会の終わり頃、永島敏行と石田えりが皆の前で歌うんですが、あれはね、ああするならね、絶対あそこにいたるまでのどこかで、観客に「青い鳥」を印象づけないと駄目なんです。演出上、絶対と言っていい。いくらでもあるじゃないですか。ドライブ中に石田えりに鼻歌で歌わせてもいいし、たとえばそれを永島敏行が聞いて、「なんだいそんな歌」みたいな感じにしつつ、最後に合唱するなんて形でもいい。まあたとえそうであったとしても、友人を警察に連れて行った後で歌うには「なんでやねん」が消えないんですが、もう少し配慮があってもいいはず。あれはもうぜんぜん意味がわからないシーンになっています。

 原作をなぞっちゃったことで残念になっています。原作をなぞった弊害は何もシーンごとの問題ではなく、映画の焦点を絞るうえでまずいということ。結局どの要素も中途半端にしか仕上がらない。この手の映画の場合、いろいろな要素を盛り込むのはわかる。でも、そのせいで親父のエピソードも友人のエピソードも希薄化し、石田えりとの幸せな様子を描く場面にしたって、あの「青い鳥」は何の有効性も持たない。もっというとおばあちゃんの痴呆発症のところですね。おばあちゃんが出てくるところはいいんですよ。老人と暮らす上での、ある種の鬱陶しさというのは、ぼくも感じて育ちました。でも、その人が死んでしまうと、それに鬱陶しさを感じたことを申し訳なく思うし、むしろいとおしくすらなる。今さら遅いわけですが、そういう哀感、取り返しのつかない後悔は映画的になるはずで、この映画の場合、おばあちゃんは死なずにぼけてしまうだけで終わりですが、もっとその部分を強調できたはず。死なせろと言っているんじゃない。ぼけたときの哀感が生まれただろということです。強調できたつくりなんです。それさえもしなかった。あの描き方では、「鬱陶しいおばあちゃんが終盤でぼけた」というただそれだけになっている。

 原作をなぞりさえしなければ、はっきりともっとずっとよくなったはず。風合いはいいのです。その点が残念でなりません。さて、太宰治原作のあの映画や、いかに。
[PR]
by karasmoker | 2009-09-09 03:15 | 邦画 | Comments(0)
←menu