『しんぼる』 松本人志 2009

 おかっぱの彼はまさに今回の松本監督そのもの。
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 池袋に引っ越しました。東口のほうです。池袋は映画好きにとって、日本でもトップレベルで恵まれた環境じゃないかと思います。シネマサンシャイン、テアトルダイヤ、HUMAXシネマズ、東急、シネ・リーブル、シネマロサ、そして新文芸坐。これまで住んでいたのは椎名町で、ここは池袋から一駅ですからまあそれほど変わらないとはいえ、やはり徒歩圏内に映画館がたくさん、というこれからは相当に贅沢気分なのであります。くわえてDVDにおいてもツタヤがありますからこれもウハウハです。今まで頼っていたのはフタバ図書椎名町店で、ここは24時間営業の優良店、なおかつ書店、中古本、中古ゲーム店も併設の素晴らしい場所で、二年間どうもありがとうと謝辞を捧げたいのですが、それでも品揃えで言うとアメリカ映画とアニメばかりが多く、日本映画の充実度ではもうひとつ、という部分もあり、その点ツタヤは日本、ヨーロッパ映画でも監督別のカテゴライズ、有名作品は一枚でなく数枚置いてあるという気の利く商品配置で、東西両方にツタヤはあるわけで、さらにアイ信、ゲオなどがその脇を固めるという強力布陣、映画好きにはなんともたまらぬのであります。むろん、あのバルト9、そしてさらに大きなツタヤを擁する新宿には今一歩譲るところもあるにせよ、池袋もかなり裕福であり、「映画好き ヤッピータウン 池袋」と一句詠むことでこの悦びを表現したいと思います。

さて、そういうわけで行ってきたのは松本人志監督作第二弾『しんぼる』です、HUMAXシネマズ。松本人志というのはやはりぼくにとって特別な人でありまして、彼の言動、活動にはいちいち着目しており、だからこそ結婚はショックでした。彼には独身貴族であり続けてほしかった。アンチ結婚の生き方をしてほしかった。なんか、ああ、そっちに行っちゃうのねという寂しさがありました。ああ、家庭なるものを築く人間なのだね、孤独を捨ててしまうのだね、という寂しさであります。

 さて、それはそれとして『しんぼる』です。
 結論から言うと、これはいただけません。松本の映像作品をずっと観てきたぼく、たとい多少の瑕疵があろうと彼のつくるものをこよなく愛してきたつもりのぼくですが、今回のこれはいただけなかった。うん、DVDを買うことはないでしょうし、もう一度観るということもおそらく、かなり先までないでしょう。

 簡単につくりを話しましょう。トレーラーにもあるように、密室に閉じ込められた松本が脱出をはかる場面と、メキシコの人々の一日を描いた場面の二軸で進んでいきます。

今まで彼がつくってきたあらゆる映像作品と異なり、このメキシコ部分では芸人はおろか、日本人さえ出てきません。現地の人々と思しきメキシコ人達の一日が描かれるのですが、ここがまず何も面白くない。いや、それなりの風合いはないではない。シスター姿の女性が煙草を吹かしながら車を運転するところなどは画としては面白いし、覆面プロレスラーとのドライブ場面もそうです。ところがこれ、最後の場面を別にすれば何も起こらないに等しく、一体何がしたいねんというくだりなのです。松本のいる白い密室と交互に描かれますが、互いに関連しているような演出もなく、もし仮に、密室で松本一人では画が持たない、緊張と緩和で云々などという考えでこうしたのだとすればそれはもうどうしようもないのであり、あのくだりだけで捉えても何のドラマ的悦びもないのです。

 では松本の出てくるくだりはどうかというと、ここもひどくもたもたとしていた。予告編でも出てくる「天使のちんこ」。あの初期設定自体は面白いと思った。ネタバレというほどでもないので書きますが、ちんこを押すと、壁から次々とものが出てくるんです。何が出るかはギャグ演出として重要なので伏せますが、松本人志ともあろう御方が、なぜあんな暴挙に出たのか、大いに疑問です。というのも、あの「壁からものが出てくる」というのは笑いとして相当難しいはずだからです。何が出てきたら面白いか、当然考えたはずですが、あのもったりとした演出だと、出てくるものが何なのかにかなりの負荷がかかる。つまり、「何でもあり」だからこそ、何が出てきても意外性に乏しくなるのであり、ゆえに笑いにとってとても大事な、発想的飛躍が困難になるのです。壁から無数の「天使のちんこ」が出ている。なるほどこれは面白い。でも、その後に出てくるものがその驚きと面白みを超えていない。少なからぬ松本ファンは、あの演出でヴィジュアルバムの「マイクロフィルム」を連想したはずです。中国マフィアに捕らわれた全裸の男を殴ると、尻から次々とおかしなものが出てくるというコントですが、ぼくはあのコントには面白さを感じなかった。今回の状況は映画という媒体であることもあり、余計にあの演出が難しくなっていたはず。DVD副音声ではかの松本イエスマン、倉本氏が松本と一緒にけらけら笑っていましたが、今回の試写でもきっとそんな感じだったんでしょう、目に浮かびます。

 あれを面白くするなら、きっと狂騒化、協奏化させなくちゃいけなかった。つまり、いくつものアイテムが同時多発的にアクションを見せる必要があったんです。あの設定ですから、やりようはいくらでもあった。ちんこを押すとものが出てくる、のであれば、たとえばちんこを強く押しすぎて、延々と何かが出続けている、なんてことも可能だった。そうすれば、ぜんぜんどうでもいいものが劇中延々と壁から出続けている、というアクション及び画で魅せることもできたし、そのどうでもよさが際だつし、「このまま出続けたらどうでもよいものによってそのうち部屋が埋め尽くされてしまう…」という逼迫感も生まれた。寿司なら寿司で(あっ!)、寿司をずっと出し続けていてもよかったはずです。よりあほらしい、なおかつ生理的に嫌な(なぜか本作では寿司にまつわる不快描写が何度も出てきます)画が実現されたはずなのです。人だって出てくる。ならばあのコミュニケーション不能な存在を、ずっとその場に置いておくことで気まずさを醸し、笑いに繋げることもできた。コミュニケーション困難な外人を使った笑いは松本一派の十八番のひとつであるはずなのに、なんであんな使い方をしてしまうのか。

 初めから海外を意識してつくった、という松本の発言はいささかの免罪符となってしまいます。一方で、彼が何を考えているのかわからなくさせてもいます。彼はテレビの笑いを見限った。そして映画という媒体に乗り出した。ならばその媒体の自由さを持って、テレビではできない笑いをつくってほしいわけですし、それが映画の意義でもあるはず。なのに、目線を海外に持っていくとはどういうことなのか。松本は以前、電波少年の企画でアメリカ人を笑わせるためのコント、「サスケ」をつくっています。そのとき、「アメリカ人を笑わせるには60%の力に抑えなくてはならない」と発言していた。今回の作品における笑いは、60%よりもさらに低い数値でしょう。90年代、「ごっつ」「ガキ」全盛の頃に彼が回避していた「ベタ」へと舵を取っているのです。屁のくだりの絶叫などは、彼のつくるものをずっと観てきた人間からすると、ため息を禁じ得ないのです。

前作『大日本人』をぼくは肯定的に受け止めています。DVDも持っています。あの映画における怪獣格闘描写、金をかけていかに阿呆なものをつくるかという部分にとても好感が持てたし、あの格闘描写が随所のクライマックスを生んでいた。一方でそれに比したあの大佐藤大のわびしい生活があり、インタビュアーとの対話がそのわびしさを強め、彼の哀感を生んでいた。今回はそれさえもない。

 細かいネタを明かさぬよう配慮しつつ、まとめに入りましょう。ラストについても言いたいことがありますが、要するにこの映画、劇中におけるおかっぱの男は、紛れもなく松本監督自身のメタファになっています。すなわち、何もない部屋に次々とものが出てきて、その中で脱出を計ろうとする彼は、映画そのものの出口を探して試行錯誤を繰り返す監督自身なのです。そして、彼はあの部屋を散らかしたままに出ていきます。監督自身が、あの部屋をそのまま放棄してしまったように。部屋から出口を見つけたのはいいものの、結局その後も体のいい出口が見つからない。こうなったら結末の整合性などどうでもいい、とにかく壮大な出来事が起こったようにして終わろう、という高らかな宣言の如く、彼は重力も時間も何もかもを無視して、何でもありの部屋から、何でもありの四次元に飛んで行ってしまいます。よもや1968年のキューブリックを模したわけでもなかろうあのラストは、さながら「NHK地球紀行スペシャル」の豪華版オープニングみたいな塩梅で、観客は皆、おかっぱの彼に、そして監督に対して、この言葉を想起せずにはいられません。

「おいおい、どこ行くんだよ、おいおい」
「おいおい、この話、どこに持っていくんだよ、おいおい」
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by karasmoker | 2009-09-19 00:57 | 邦画 | Comments(2)
Commented by tohitsuka at 2009-09-19 12:34 x
だんだん映画館で観るようになってきてるな。
Commented by karasmoker at 2009-09-20 02:12
そうだな。無料のチラシをもらいまくって、部屋中に張ることにしたのだな。部屋の全面がチラシに埋め尽くされて、ゴールデン街の階段みたいになるのが憧れなのだな。
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