『盲獣』 増村保造 1969

これぞ異常な愛情。
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 江戸川乱歩の小説を原作にした作品で、82分と短いのですが、強烈なインパクトを与える映画でした。増村保造ミーツ江戸川乱歩、この化学反応たるやすさまじかったです。前半のあらすじは以下の通りです。

 モデルをしている女性(緑魔子)のもとに、盲目の按摩師(船越英二)がやってくる。マッサージにやってきたと思いきや、彼女の体をべたべたと触る不審なそぶりを見せる。彼は目が見えないが、彼女をモデルにした彫刻に美術館で触れており、その体の造形に惚れ込んでいたのだった。彼は自分の母親と結託して彼女を誘拐、アトリエに彼女を連れて行き、監禁し、彫刻のモデルになるよう要求する。

 この緑魔子という人が大変に綺麗です。これは今からちょうど40年前の映画ですが、実際観てもらえばわかるんですけども、まったく古くささがない。今普通にお洒落な繁華街を歩いていてもなんら違和感がない相貌で、現代のモデルとしても十分に通用する綺麗さなのです。顔が綺麗というより、そのファッションやメイクが特筆すべき部分です。今、映画あのままでファッション誌などに出ても、本当に何の違和感もないくらいなのです。増村保造はイタリア留学をして向こうの監督に師事しており、ヨーロッパの風合いを非常にうまく日本映画に持ち込んだ人です。ああ、モダンとはこういうことだよな、という、ひとつの規範たりえているのではないでしょうか。軟体動物シリーズのときの渥美マリにも同じことを感じました。この人のつくる綺麗な女性像は、40年経った今でさえまったく古びていないのです、本当に。

 緑魔子演ずる主人公の女性が連行されたのは暗いアトリエで、壁には無数の彫刻が埋め込まれています。それらは目や耳、鼻や手足など体の一部で、それが無数に壁から出ている。そして部屋の中央には、巨大な女性の体が横たわっているのです。そうした異常な空間は一切の馬鹿らしさを帯びず、この映画の不気味な雰囲気と見事に調和しているのです。

 盲目の誘拐犯、船越英二も素晴らしかった。この犯人は生まれつきの盲目で、母親によって育てられてきており、世間知らずで大変純粋な男なのです。やはり純粋さとは狂気に繋がるものであって、この船越英二の狂気は緑魔子とぶつかりあって、すごいパワーをこの映画に与えています。規模自体は非常に小さいです。何しろこのアトリエと狭い居住空間以外はほとんど出てこない映画です。でもその分、ぼくが常々書いている「限定空間性」、すなわちひとつの空間にこもる濃度があり、それがあのアトリエであり、役者は緑魔子と船越英二、もう要素としては一切の非の打ち所がないのです。

 緑魔子は逃げだそうとします。この辺の加減も実にうまい。船越英二を誘惑して、母親の嫉妬をかき立てて逃げだそうとするんですが、このあたりなんかもう最高の一語ですよ! 母親が子供、特に息子に対して持っている「女性的愛情」、「母親的愛情」でなく「女性的愛情」を利用する場面、うまいです。これはうまいです。緑魔子がうまいです。増村保造がうまいです。そのときの緑魔子の表情、目線もむろん見逃してはいけません。というか、この映画における緑魔子の表情と目は、ぼくが今まで観てきたすべての映画、その中に出てくる女性の中で、最も魅力的だったとさえ言いましょう。願わくばこの二年前の『痴人の愛』には、彼女に出てほしかった。谷崎潤一郎の『痴人の愛』におけるナオミはいわば「超悪魔的小悪魔」であって、アゲハチョウではなくアフリカメダマカマキリか何かであって、つまりはオスを喰ってしまうわけです。ナオミは理想化された美少女なわけですが、この緑魔子ならそのイメージに太刀打ちできたのではないでしょうか。

 長くなりすぎるので、かいつまみます。
中盤でもう、ああ、この感じで行ってくれたらいいなあ、と思っていましたが、後半の展開はやや急です。82分しかないので致し方ありませんが、もっと長くてもぜんぜん問題なし、いやむしろもっと長くしてくれと思うくらいでした。ちょっと急だなあ、と思わざるを得ない展開があります。そして終盤、本当にこれぞ「愛=狂気」という展開に行くのですが、残念なのは血が一切出ていないことです。表現上の規制をかけられたのでしょうが、あそこで血が出ていないのは本当に残念。あれは百人中百人が、「えっ、血は?」と思う場面なんです。それに、やっぱりあのくだりは全裸じゃなきゃいけない。うん、あれが全裸で、血もどばどば出ていたら、これはもう世界に類を見ないほどの狂った場面になったはずなんです。

 ただ、増村保造ミーツ江戸川乱歩。血が出ない、全裸ではない、展開が急だという非常に致命的な欠陥を持ちながらも、そんなこと、観終わった後ではほとんど気にならない。というのも、この映画は絶えず身体にこだわっているからです。この映画における最重要モチーフは「身体」ですが、ずっと「身体」にこだわってきた映画だからこそ、最後の最後、あの狂気の爆発が生まれる。あの場面を観ると、逆に血は要らないな、とさえ思えてくる。うん、あのラストに限っては、一切血が要らないんです。あれはまあ、直接映すことはできないのですが、変に小細工をせずに映さないことにして、大正解。あそこで観客は、「映画を目で観ながらも、小説的に想像力で観る」という体験をすることになります。観ていないと何のこっちゃでしょうが、あまり文章で書きたくないのです。

 終盤の演出的欠陥はあるにせよ、緑魔子と船越英二が最強なので、この二人の迫力で全部オッケーになります。本当にすごい役者二人だと思いました。できればこの二人に、『痴人の愛』をやってほしかった。この『盲獣』でこそ、増村が『痴人の愛』で表現できなかった「狂気としての愛」が、直接的に描かれているのです。


 ぼくが恋愛系の作品にあまり惹かれない理由は、そこに狂気がないからです。愛が成就するか否か、という問題に留まり、その先に行くと狂気にぶつかる、ということまで言及するものがほぼないからです。でも、この『盲獣』は、「恋愛」という眠たい過程を一気に飛び越え、しかし「愛という狂気」を爆発させている。狂気の愛に至るうえでの母親の存在についてなども、いろいろと書きたいところですがひとまず、「ああ、そこまで言うなら観てやろうか」というくらいの感想は抱いてもらえたでしょう。
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by karasmoker | 2009-09-20 19:52 | 邦画 | Comments(4)
Commented at 2009-09-21 05:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by karasmoker at 2009-09-21 19:52
コメントいただき、どうもありがとうございます。
狂気にはまっていく様を描くこと抜きに、ほとんど唐突なレベルで、緑魔子は狂気の渦に入り込んでいく。まともな物語ならあり得ない。でも、船越英二の狂気とあのアトリエ全体に漲る不気味さが、そこに至るための空気を十分に醸成しており、なおかつ二人のまぐわいが圧倒的な迫力を持っているため、勢いで観客を持って行ってしまう。本当に強烈な映画、そして監督だと思いますね。
Commented by onigashima at 2009-09-21 21:06 x
そうそう、暴れん坊将軍でのじいじのイメージしかなかったのですが、船越英二って凄い俳優なんですよね。あの密室空間でのむせぶような濃密な空気がこちらにまで漂ってきそうで、あの音楽とともに、私の脳裏に焼き付いて離れない映画となりました。
Commented by karasmoker at 2009-09-22 03:12
昔の映画を観る醍醐味のひとつは、出てくる役者のすごさを観ることだと思いますね。そして映画としての強さもそこに加わる。『盲獣』はいい例で、今、こんな日本映画はとてもじゃないけどできそうにないな、と感じさせられる。予算とか映像技術とかそういうものとは違う何か別の部分で、今の映画に対して圧倒的なものを持っている気がします。
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