『どついたるねん』 阪本順治 1989

『ロッキー』が公開された後では、そして『レスラー』を観ている今となってはもう…。
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 赤井英和主演のボクシング映画です。赤井英和というとぼくの中では野島伸司ドラマ『人間・失格 たとえば僕が死んだら』のイメージが強いです。というか、あのドラマと「ありさんマークの引越社」と「白木屋」のイメージしかないです。『人間・失格』の父親の演技は非常に素晴らしかったですね。

 さて、ボクシング映画といえばもちろん『ロッキー』ですが、ぼくは実は『ロッキー』は第一作しか観ていません。なんでも聞くところによると2ではロッキーがチャンピオンになってしまうというじゃないですか。それだと、一作目がもともと持っていた豊かさって、絶対に削られてしまうんです。これは『ランボー』でもそうでした。だからどうも2以降には食指が動かないのです。

『ロッキー』はある実話をもとに、スタローン自身によって脚本が書かれた話ですが、その実話が大好きです。有名な話ですが、知らない人のために書きましょう。ボクシングのプロモーターであるドン・キングが、無敵の世界チャンピオンであるモハメド・アリの対戦相手として、まったくの無名ボクサー、チャック・ウェプナーを指名しました。ウェプナーは当時三十六歳、優れた対戦経歴を残しているわけでもなく、当然誰もがアリの圧勝であると思っていました。アリの噛ませ犬としか思われていなかったのです。ところがいざ戦いのリングに上がると、ウェプナーはアリに対して大善戦を見せました。そして9ラウンド目には、ダウンさえ奪ったのです。15ラウンドを戦い、結局は負けてしまったのですが、それより何より、ウェプナーがノックアウトされることなく、チャンピオンのモハメド・アリ相手に最後まで戦い抜いたことが劇的で、これがスタローンを突き動かしたわけです。

 ミッキー・ローク主演の『レスラー』もそうでしたけど、勝負事とは関係ない、勝負を超えた場所まで描くと、物語はぐっと熱くなります。勝ちとか負けとかじゃなくて、戦うことそれ自体の尊さ。『ロッキー』では、スタローンがぼこぼこになりながら、立ち上がって戦おうとします。セコンドのおやじは、"Stay down!! Stay down!!"と叫びますが、とにかく倒れるわけにはいかないんだ、とロッキーは立ち上がります。負けたくないから、じゃないんです。戦い続けること、がロッキーには大切だったのです。実際、試合前のロッキーは相手のアポロを前にして、「すごいなあ」みたいな表情を見せています。意地でも倒してやる、という感じじゃないんです。とにかく、勝とうが負けようが、倒れるわけにはいかないんだ。その心意気があの『ロッキー』を傑作にしているのです。また『レスラー』においては、プロレスという、展開自体が決まっているリングの上へとランディ・ラム・ロビンソンは向かっていきました。そこには勝ち負けなんてなかったのです。あの場所で生きること、たとえ死の危険があるにせよ、それでもあの場所で生きること。そこに『レスラー』の熱さがあります。

 さて、なかなか『どついたるねん』の話に入れませんが、そうした傑作を観たあとで観ると、うーん、なんですね。当然作り手も『ロッキー』を意識せざるを得なかったでしょうが、あのような熱さがないんです。

 赤井英和って人がもともとボクサーで、だからこそこの映画のような「返り咲き」を描くには恰好の人物だったと思うんです。赤井が引退するきっかけとなった試合の相手、大和田正春との試合が冒頭に描かれており、現実の赤井同様に映画の主人公もまた、引退せざるを得ない怪我を負ってしまう。現実と虚構が入り交じっており、だからこそ一人のボクサーの「返り咲き」話として、説得力を生めるお膳立てがあったはずなんです。『レスラー』のランディは心臓を悪くし、もう一度戦えば死ぬかもしれないとわかりつつ、リングへ向かった。今回の映画でもそこを活かせたはずなんです。ところが、そこはぜんぜん浮き上がってこないんです。設定として引っ張ってはいるし、幼なじみの相良晴子もその点を心配してみたりはするんですが、ぜんぜん活かされていない。死ぬかもしれない、でも戦わざるを得ないんだ、という熱さがぜんぜんないんですよ。

 赤井の対戦相手となるのは自分のかつての教え子なんですが、これもなあ、どうしてもっと活かせなかったんでしょうか。こいつとの交流もないし、軋轢もないんですよ。気づいたらいなくなってた、みたいな感じなんです。気づいたら他のジムに行っていて、対戦相手になってた、みたいな。もっとそこは決別を描けよ絶対! 美川憲一なんて出して、映画の世界観をぶち壊してしまうくらいなら、あれは別にさらっと描いていいから、その分この教え子との悶着に時間を割きなよ! そうすれば最後の戦いがもっともっと熱くなるんですよ。かつての教え子でありながらもその教えを否定し、自分に引退を告げようとしてくる若きボクサー、意地だけでそれに立ち向かっていく赤井英和という構図をつくれば、最後のシーンはもっともっともっとよくなったのに。教え子を演じたのは大和武士という人で、観終えてから知ったんですが、この人はミドル級のチャンピオンだったらしいです。本物を使ってリアリティを出そうとしたんでしょうが、映画の中だけで観れば、この人は本当に気弱そうな感じで、ぜんぜん強そうには見えません。いや、それはそれでいいんです。でも、せめて赤井英和を脅かすような存在として見えないといけないんじゃないでしょうか。赤井英和は、「なんや、あんな弱っちいやつ」みたいに馬鹿にするんですけど、観客としても「そうだな、確かに弱そうだな」みたいに思ってしまいます。そうなると、戦いが白熱しないですよ。大和武士の強さの描写、もしくは、赤井英和の弱さの描写、そこを描かない限り、最後の試合が感動的なものにはならないって。

 街並みの風合いとかはいいんですよ。だからこれ、ATGの映画ならもっとよかったんじゃないかなあと思います。撮り方がねえ、テレビドラマっぽいんですよ。とりわけ残念なのは相良晴子で、あの汚い大阪の下町にいるには上品すぎる。わんぱくな感じで演じているんでしょうけれど、他の関西出身の役者の中で、彼女の話す大阪弁は下手なんです。阪本監督も大阪出身らしいんですが、この大阪弁でよしとしたんでしょうか。ところどころ、標準語のイントネーションになっているんです。そして、これは演出のまずいところで終盤、セコンドにいる彼女が天に向かって祈る、みたいなワンカットを入れるんです。入れるだけならまだしも「神様…」云々と言わせやがるんです。なんとか盛り上げなくちゃ行けないはずの最後の試合で、何なんですかあれは。タリア・シャリアがそんなことしたか? マリサ・トメイがやったか? するはずがないよ。そういうの入れちゃ駄目だからだよ! 

 これはねえ、設定自体は『レスラー』なんです。『レスラー』よりもずっと早く、なおかつ『ロッキー』ともまったく違うものとしてつくれた素材なんです。そういう優れた作品を観た後だと、どうしても厳しくなってしまいます。『ロッキー』の十年以上後で、この作品を観た当時の観客は、果たして何を思ったのでしょうか。
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by karasmoker | 2009-10-05 03:01 | 邦画 | Comments(2)
Commented by アダチ at 2012-01-09 00:57 x
バカじゃねーの? あんたの感受性の欠如だろ
Commented by karasmoker at 2012-01-09 01:26
その手のコメントに飽き飽きするくらいの感受性なら、あるんですけどねえ。
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