『セルピコ』 シドニー・ルメット 1973

ある意味で最も優れたアメリカン・ニューシネマでしょう。
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 台風が日本列島に上陸うんぬん。ところで、インフルエンザが流行っていると言いますけれども、今回の台風でインフルエンザウイルスが一挙に吹き飛んだりはしないものなのでしょうか。それと、台風のニウス映像などでよく、傘を吹き飛ばされてひっくり返ったりしているものがありますが、「一切吹き飛ばされない傘」というのは開発されないのでしょうか。傘は古来進化していない物品とされますが、ぼくはここで傘会社各社に対し、「その辺をうまくあれするといい感じなんじゃないかな! 革命的ってのはつまりそういうことじゃないのか!」と声を大にして言いたいです。  
 
 素朴な疑問アンド漠然とした妄言で始まりましたが、映画の内容と今の前置きは一切何も関係ありません。その辺のわりきりがドライで素敵、ともっぱら評判です。「もっぱら」という日本語は面白いですね。「も」の後に「っ」があって、「ぱ」と破裂音が続き、「ぱ」となんだか相性のよい「ら」で終わる言語センスは、なかなかのものです。

『セルピコ』はアル・パチーノ主演の、警察の腐敗に立ち向かう刑事の話です。タイトルの『セルピコ』とは、実在したその刑事の名前です。警察官という仕事に誇りと希望を持って職に就いたセルピコでしたが、いざ内部に入ると犯罪者に賄賂をもらって馴れ合いを続けているような連中ばかり。上層部に訴えても黙殺され、むしろ警察の中でセルピコは孤立を深めていきます。下手を踏めば身内に殺されかねぬほどの孤立の中にありながらも、決して己を曲げることなく腐敗を世に告発した、なんとも格好良すぎる男の話です。

昔から人は「朱に交われば赤くなる」とされ、「郷に入っては郷に従え」など命令形の諺もあるくらいですが、セルピコは一切妥協しません。これは実は、最も優れたアメリカン・ニューシネマの形なのかもしれない、と思いました。

 アメリカン・ニューシネマの核心をぼくなりに解釈し、一言で言うなら、、「体制への反抗」です。物語としての筋もさりながら、そもそもニューシネマは古きハリウッド体制への反抗から始まったのでした。ノワールにおいても暴力が描かれることがなく、セックス描写などもってのほかだとするヘイズコードがあり、なおかつ悪名高き「赤狩り」によって、反体制的な映画は御法度とされました。「反体制的」というのは何も政治性の強いものばかりとは限りません。社会不安、社会問題を描く内容の映画、なんてものをいざつくれば、それはアメリカの社会状況を悪く言っているのだ、つまりは資本主義社会批判だ、容共的だ、などということにされるため、家族で安心して見られるハッピーエンドの物語ばかりがつくられるようになったのです(ん? 背景事情は大きく異なるとはいえ、何かにつけ規制著しい昨今の日本に似ていませんか?)。

 とはいえ、世の中では映画のような幸せな出来事ばかりではありません。米ソの緊張が高まり、ヴェトナムは惨禍の現場となり、人種差別に立ち上がったマルコムXが殺され、やがてはキング牧師も殺される。若者たちは革命を歌い、ヒッピーとなって既存の価値観にノーを突きつけました。アメリカン・ニューシネマは混沌たる社会状況の申し子だったのです。

『俺たちに明日はない』『イージー★ライダー』『明日に向かって撃て!』などの名作が陸続と生まれました。後には『カッコーの巣の上で』『タクシードライバー』などこれまた大変有名なニューシネマ代表作がつくられます。これらの作品は自由を謳歌しつつも最後には悲劇的な終わりを迎えたり、日々の生活の鬱屈を凶暴な形でぶちまけたりする作品ばかりです。ニューシネマはかつてのハリウッドとはまさに真逆でした。夢と希望に溢れる世の中、そんなもんは嘘だろ。まさに思春期の反抗期そのもののうねりが、アメリカ映画で花開いたのです(『卒業』『M★A★S★H』など先に挙げたものと別種の作品もありますが、ここでは割愛します)。

 ですが、思春期の反抗期がそうであるように、このニューシネマは致命的な弱点を抱えていました(それは当時革命を謳った多くの若者に当てはまることではないでしょうか)。すなわち、「じゃあ、具体的にどうするんだ?」という問いへの答えがないのです。後世、尾崎豊は盗んだバイクで走り出しますが、どこに行けばいいのかについてはよくわかっていなかったのです。それと同じで、思春期の煩悶の正体はまさに、「反抗したい! かといってどうすりゃいいかはわからない!」というものなのです。

 さて、ぜんぜん『セルピコ』に入れませんが、ようやくこれで話が整いました。つまり、『セルピコ』は、「体制への反抗」を行いながら、「じゃあどうすればいいのか」をきちんと示しているのです。これが「最も優れたアメリカン・ニューシネマ」と書いた理由です。制服勤務から私服警官となったセルピコはひげをもじゃもじゃと生やして髪を伸ばし、だぶだぶの服を着て、誰がどう見てもいかがわしいヒッピー姿になります。このヒッピー姿は一目瞭然の、体制への反抗ユニフォーム。犯罪の現場にうまく溶け込むため、と上司には話しますが、彼は体制の中にありながら、体制に決して馴染もうとしないのです。

 そして、この誰よりもいかがわしいヒッピーセルピコは、実は誰よりも腐敗、汚職を憎む男であって、周囲からの圧力、反目にもめげずひたすら突き進みます。最も体制から遠い格好の男が、体制の暗部を突き崩していくのです。おまえらが正義だというなら、俺はおまえらと一緒の格好などできない。だって、おまえらは正義じゃないから。そのメッセージを、セルピコは全身で表現しています。セルピコは本人の希望で移ることもありますが、次から次へと部署を移されます。要するに警察の中では鼻つまみ者なのです。誰よりも正義である、このセルピコがです。

 映画における警察では賄賂を受け取ることが常習化しており、これを受け取ることが一種の仲間としてのしるしとなっています。セルピコは頑として受け取りません。一度でも受け取ればもう何を言っても意味がないことを、セルピコはわかっているからです。セルピコのメッセージは、この上ないほどシンプルかつ、実に当たり前なものです。
「正しくないことをするな。正しいと思うことを、周りになんと言われても貫け」
 これがいかに困難なことか!
 体制への反抗を叫んだアメリカン・ニューシネマ、そして革命を叫ぶ若者が進むべき道は、実は最も単純で、最も困難な道だったのです。結果として、人々は貫けずに終わったのです。「周りになんと言われても貫く」なんて、流行にかぶれた人々には土台無理な話だったのです。結局ほとんどの人々は時代に流され、いつまでも頑張っている人は「まだそんなことやってんのかよ」と白い目で見られるわけです。「慣れちまえばこっちもいいもんだよ」と、いつしか体制に染まった顔で笑われるのです。
 セルピコは、それどころではありませんでした。命の危険すらあったわけです。でも、たとえそうでも、よくないことはよくない! と愚直に叫び続け、結果、腐敗を世に公表することができました。これは最高のアメリカン・ニューシネマのひとつでしょう。

 メッセージを叫ぶこと、あるいは何か行動することが難しいのではないんです、たぶん。
叫び続けること、行動し続けることが、いちばん難しいのです、きっと。
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by karasmoker | 2009-10-08 02:28 | 洋画 | Comments(0)
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