『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』 富野由悠季 1988

ガンダムはやっぱりいいなあ。
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 何度か観ていますが、昨年末にDVDを買いました。ZやZZのDVDを買おうかどうしようか、買いたいなあ、くらいの感じでいます。やっぱりガンダムはいいのです。エヴァとガンダムはロボットアニメの金字塔ですが、その規模においてさしものエヴァもガンダムには及ばない。その物語性においても、ガンダムのほうがやっぱりいい。

といっても、ぼくは最初のガンダムとZとZZしか知りません。平成に入ってからのものはちっとも知らないし、サブストリームのものも知らない。メインストリーム三部作がすばらしいので、下手に小品に手を出すと拍子抜けしてしまいそうで。

「ガンダム芸人」なんて話題になったりしていますが、あれはなぜだかどうして、最初のガンダムばかり取り上げる。個人的にはZのほうがいいです。あとZZの後半もものすごい熱量です。最初のガンダムは今見ると、どうしても70年代の汗臭さがある。Zの洗練に惹かれる。

 最初のガンダムとZにおける見た目の大きな違いは(もしかして、とは思いますが、Zを「ゼット」と読んでいませんよね。当然「ゼータ」ですよ)、宇宙戦の多さです。宇宙戦のほうがぐっとあがります。なんで宇宙の戦いってのはあんなにも格好いい。『逆襲のシャア』の戦闘も全編宇宙ですが、地上の戦いよりも単純なSF的快楽に充ち満ちているのです。

 ガンダムの何がすばらしいかをわかりやすく言うなら、ロボットアニメに「戦争」の概念を持ち込んだこと。『スターウォーズ』があるじゃないか、というかもしれませんが、あれとは違って、きちんと双方に大義があるのです。最初のガンダムは地球連邦軍対ザビ家という構図ですが、ザビ家はザビ家で、「地球連邦からの独立」という大義を掲げているのです。一年戦争はザビ家によるスペースノイド独立戦争だったのです。「ザビ家」というのが世界史的で、発想としてすごいです。悪魔帝国とかそういう勧善懲悪用組織じゃないのです。エヴァはこの点、使徒という怪獣にしてしまったので後退している感もあります。使徒がどこから来たのかとかよくわからないわけですからね。シンプルでいいと言えば、そうなのですが。

 子供にもわかりやすく作られたアニメですから、一応感情移入の必要上、ザビ家は悪者として描かれ、地球連邦軍のアムロ・レイを正しく描く形を取っていますが、もっと両者を公平に描くこともできたでしょう。その先に描かれているのがZなのです。Zでは、地球連邦こそ悪であるという視点が持ち込まれます。ティターンズという地球連邦の組織が、宇宙に住む人々を弾圧するという形が持ち込まれる。これほどにダイナミックな反転はそうそう見られるものじゃない。文学作品などで探せばどこかにそりゃあるでしょうが、これほどにポピュラーなものでは他にないんじゃないでしょうか。地球が悪だ、なんて、他にあるのでしょうか? ここにザビ家の復興が絡み、非常にややこしくなります。これがZを傑作たらしめているのです。ハマーン様も出てきて万々歳です。ハマーンの声はナナイの声でもあります。

 ああ、いい加減『逆襲のシャア』の話をしたい。本作をリアルタイムで鑑賞していたわけではないですが、当時ずっと見続けてきたファンは度肝を抜かれたはずです。なにしろシャアはクワトロとしてZ、ZZの味方であり続けたのに、敵に回っているわけですから。 
 この映画の音楽はなんとも勇壮な盛り上げ役です。宇宙で戦闘が始まる際のBGMは勇壮の一語であります。ぼくが愛してやまないのはレズン・シュナイダーというキャラクターで、このレズンはめちゃめちゃ格好いい女パイロットです。ほとんど戦闘シーンで、ちょこっと顔が出てくるだけなのですが、そのたびそのたびのちょっとした台詞がもう格好いい。全編合計で一分も出ていないキャラですが、それだけでも格好いい。レズンをもっと観たかった。レズンがメインの話を観たいくらいです。

 クェスもいいです。クェスやレズンをもっと観たかった。本当を言えば、この映画は二時間の映画では短すぎる。三部作くらいでやっていいのです。その意味では物足りないんです。もっと観たいと思わせるので。エヴァでいうと、マリ・イラストリアスという劇場版キャラクターがいますが、あれよりも遙かにいいです。変に狙っていないところがいい。ぼくからするとマリちゃんは狙いすぎです。この手のキャラでしょ? という媚びが見えます。うん、『逆襲のシャア』は映画としては非常にもったいない。二時間という制約では収まりきらなかった。クェスがシャアのところに行くのが、どうしても唐突なんです。たとえばZでいうと、レコアがゆっくりと確実にシロッコに惹かれていくわけですが、あれは何話もあったからできたことで、このクェスの翻身はちょっと急すぎるんです。

 でも、宇宙の戦闘シーンの濃度が高いので問題ありません。富野監督はやたらと登場人物を死なせますが、クェスの死に様は気持ちよくもやもやさせる。なぜハサウェイを払いのけたのだ? と思わせられ、これはいいもやもやです。ハサウェイがチェーンを撃つところも、これ見よがし感もなくよろしい。富野監督はやたらと死なせるわりに、その死に様をきわめてあっさり、これ以上なくあっさりと描きます。死に際の絶叫みたいなものはないんですね。一瞬のうちに爆発している。ZZでプルが死んだときもそうでした。ここにはこだわりを感じます。絶叫して死ぬなんて戦争じゃないぞと。いつだって突然死ぬんだぞと。そこには富野監督の冷徹さがあり、いいのです。

シャアは「人類の革新のため、地球の人々は死ぬべきだ」という、超ウルトラ左翼なんですが、ここでも富野監督は、小気味のいい演出を施しています。宇宙で暮らす人々を映し、シャアがいかに彼らに頼りにされているかを描きます。電車が夜の街を通り抜けるシーン、軍歌みたいな歌を人々が歌っているのですが、ああいうのをぽんと放り込むあたりがすさまじいのです。この人たちはこの人たちで普通に生き、その中でシャアを信じているのだな、と思わせる。悪であるはずのシャアを、観客は悪として捉えなくなる。Zを描いた監督だからこそできる、観客に戸惑いを与えまくる演出です。

 エヴァの『破』は評判がよかったけれど、ぼくとしては不思議です。クオリティを褒める気持ちはわかるし、ぼくもすごいと思うけれど、そこで語られた内容、あるいは語られ方を褒めているんでしょうか。アスカが人とわかりあう大切さを語ったり、綾波が「ぽかぽか」してカレー作ったりしたら、エヴァは台無しなのに。エヴァの重要な魅力って、つまりはあの「ヘッジホッグジレンマ」。延々とうじうじするうじうじドライブにあったと思うんですけどね。いたずらなポジティブより、骨のあるネガティブがいいと思うんです。ぼくがこう思うってことは、世間的には逆なんでしょう。あのいたずらなポジティブさ(マリちゃんはその最たる象徴)こそを求めているんでしょうね。ははは、笑わせる。

 どうも話がずれる。ガンダムについて、エヴァについてなどを語ると、それだけで長々だらだら続くので、適当なところで打ち止めにしなくちゃなりません。ただひとつはっきりと言っておきたいのは、ガンダムにしろエヴァにしろ、いわゆる「オタク」的なものの代表とされますが、あの領域まで行けばもう文学だよ! ということです。ロボットが戦うアニメなんて子供じみている、オタクだ、というてめえ! エンターテインメントってものがちっともわかっていないようだな! ものをつくるってことが何もわかっていねえんだな! あれらはエンターテインメントとしてすばらしく、その辺の文学より遙かに文学です。ガンダムやエヴァが「オタク的」ではなく「文学的」と呼ばれる日を、待ち望むばかりであります。
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by karasmoker | 2010-01-06 02:09 | アニメ | Comments(0)
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