『マグノリア』 ポール・トーマス・アンダーソン 1999

かえるくん、映画を救う。
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『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の監督の作品ですから、いつか観ねばならぬと思っていたんですが、観る前から曲者のにおい漂う映画で、実際に相当な曲者映画でした。

 三時間の長編で、群像劇。ぼくは群像劇という見せ方が好きです。起爆点をたくさん置くことができるため、映画の語りのスピードもさほど落ちない。各視点人物の初期設定が無関係であればあるほど、各点が同時に起爆したり、あるいは気持ちよくつながったりしたとき、一気に物語の濃度が高まります。と、言いつつ、そうした映画で傑作に出会えたかというとあまり覚えがない。『パルプフィクション』も別にそこまで好きではないし、うまく繋がっているという感じではない。いわゆるグランドホテル方式で言うと、『THE・有頂天ホテル』が思い出されますが、あれはわりと好きなんです。三谷幸喜の映画では『ラヂオの時間』に次いで好きです。群像劇でいちばん好きなのは、阿部和重の小説『シンセミア』です。奇しくも今回の『マグノリア』とタイトルが似ていますが、『シンセミア』はワン・オブ・マイベストノベル。かなりぶっちぎりの部類。あれほどに興奮を覚えながら読書をした記憶はないと思います。小説と言えば、ゲームでも『街』『428』があってこれも好きです。ちょいちょい絡み合っていくのって、やっぱり単純に面白いんです。

 さて、『マグノリア』ですが、いやあ、体感時間がすごく長かったですね。うん、さして面白くはなかったというのが正直なところです。やっぱり群像劇の醍醐味というのは、ある一人の行動が別の一人の行動に影響を及ぼして、という部分にあるんですよ。だから相互に関わり合いがあるほうがいいし、そうでなければ短編を同時並行的に並べているだけになる。ちょいちょい関わり合いながら、最終的に一点に集約されるのが理想的で、『マグノリア』の構成はそれとはかけ離れていました。結局無関係な人は無関係なまま終わる。せめてニアミスでもいい、かすってさえいればもっと違うんですけどね。

 いや、でもそれはあくまでエンターテインメント的な視点ですから、監督はそんなことにこだわっていないのかもしれません。実は明示されない部分、暗示的な部分で深く繋がっていることがあるのかも知れない。でも、じゃあそれは何なのだろうということを掘り下げてみたくなるほどには、この映画には魅力を感じませんでした。監督が敬愛しているというロバート・アルトマンの遺作で『今宵、フィッツジェラルド劇場で』というのがあるんですが、あれとも結構似ているんです。何か言いたいんだろうけれど、それを控えめに暗示的にするものだから、鈍感で読解力のないぼくなどには「つまらない」と感じられてしまう。なるほどこれだけのことを語るにはこれだけの長さは必要だな、という感じはどうしてもしません。

 長い映画っていうのはやっぱり、それだけの時間が必要なのだっていう監督の意思があるんだと思うんです。違う言い方をすると、時間を掛けた作品ほどその監督が本当にやりたいことがかなり露わになってくると思うし、そこでその監督が好きなのかどうかも見えてくるように思います。『愛のむきだし』はもう園監督という人がどういう人なのか、わかるじゃないですか。くわえていえば、今の邦画でぶっちぎりの監督だってこともわかるんです。『ユリイカ』の青山監督とはやっぱりぜんぜん違うんですよ。これだけの時間を使って圧倒的に面白いものをつくってやるぞ! という意思がびしびし伝わってくるじゃないですか。黒澤明の『七人の侍』もそうですよね。阿部和重の『シンセミア』もそうなんですよ。

 逆に、デヴィット・リンチの『インランドエンパイア』を観ると、ああ、もうこの監督はぜんぜん自分には合わないなとはっきりさせられる。でも、あれをいいという人もいるだろうなとわかります。長いと、監督のやりたいことが露わになるんです。『マグノリア』はねえ、何をやりたいのかがもうひとつ見えてこない。特にダニエル・プレインビューをつくったあの監督だからこそ、余計に何をしたいのかが気になるんですが、わからない。三時間を超えて、何を語りたかったのでしょうか。

 ですが、あの蛙シーンだけは別格です。もうあれはめちゃめちゃ面白いです。あれがあるだけで許せるというか、ああ、やっぱりこの監督はただものじゃねえなと思う。蛙シーンは映画史に残りますねえ。しかもあの蛙がやけに衝撃が強いらしく、窓ガラスもばんばん割れる。すごいニュートン数で落ちてきています。台風の影響でうんぬんと説明されたりしますが、それにしたって降り注ぎすぎでしょう。『海辺のカフカ』のイワシシーンと比較されますが、村上春樹風に言えば、「世界中のガマガエルが落ちてきたような」場面です。あのイメージはホラーや何かで使えそうです。あれもまた何かを暗示しているわけでしょうし、旧約聖書・出エジプト記からの引用だなんてことも言われますが、あれは意味なんかどうだっていい。あれだけのことをやられたら意味なんて吹き飛ぶ。それこそが映画の大きな醍醐味なんです。あのシーンがなければ個人的に、もう何のあれもない映画になっていたんですが、あの場面があるだけで許せる。どうせやるならあれだけのレベルでやってほしいですね。黒沢清みたいにクラゲを川に浮かせる程度ではなくて。

あれを冒頭に持ってきても映画のバランスが崩れるだろうし、その意味では長さにも意味があるのでしょうか。「引っ張って引っ張って、大オチ」という。あの場面にでくわすだけでも、人に勧めることはできます。ぼくの予想を遙かに超える場面だったので、大変衝撃的でした。『マグノリア』はもうぼくの中であの場面につきますから、タイトルも『かえるくん、街に降り注ぐ』とかそういうもののほうがしっくりと来ますね。なんざそら。
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by karasmoker | 2010-01-12 00:37 | 洋画 | Comments(0)
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