『卍』 増村保造 1964

とても明確なひとつの敗因。

d0151584_130194.jpg

 
 谷崎潤一郎が神戸に移り住んでから発表された作品、『卍』を原作としています。ずいぶん前に読んでおり、大してぴんとも来ず、ほとんど内容を忘れていました。全編が谷崎お手製の関西弁で書かれており、なぜなら彼は非関西圏の出身。関西弁の魅力に惹かれてこのような語り口を用いたのだろうと思われます。

 その点で行くとぼくは非常に相通ずるものを谷崎に感ずるのでございます。と言いますのもぼくもまた、非関西圏出身でありながら、そして修学旅行で京都くんだりにただ一度行っただけでありながら、疑似関西弁を用いる人間なのでございます。独り言なども関西弁で言ったりするのでございます。とはいえネイティブではありませんから、テレビに出てくる芸人の言葉から覚えたのであって、中身はぐちゃぐちゃなのでございます。それこそ兵庫出身のダウンタウン、奈良出身の明石家さんま、京都出身の島田紳助、大阪出身の笑福亭鶴瓶など様々な言葉を聞いて身につけたものでありまして、自分でもどの地方の言語なのかさっぱりわからない始末なのでございます。

 ちなみに最近当ブログで頻発される「ございます」口調は何を隠そう桂枝雀の影響でございまして、なぜか知りませんが関西圏の言葉というのは実によくぼくになじむのでございます。

 どうして関西弁についてあれこれ述べているかと言いますと、この『卍』という映画において、関西弁は非常に大きな要素であり、また看過できぬノイズになったからでございます。主演は岸田今日子、若尾文子、川津祐介、船越英二という錚々たる面々なのですが、いかんせん彼ら全員、関西弁が稚拙なのです。これは大きなノイズでした。正直、物語にぜんぜん入り込めなかったのです。いちいちいちいちイントネーションが気になるので、そちらに気が行ってしまう。ネイティブの人が観たら余計に感じることでしょう。

 公開されたのは1964年、増村保造が年に三、四作のすごいペースでつくり続けたいた頃合いですから、演出の細かい部分にまで気が回らなかったのかも知れません。これだとちっとも入り込めず、増村保造にずっと魅せられ続けていたぼくですが、今回ばかりはいいものとは思えなかった。別に関西である必要はないのだから、いっそのこと東京の話でもよかったのでは、もしくは関西圏の俳優を連れてくるなりすればよかったのではないか。『痴人の愛』を現代風にアレンジしたりしたんですから、東京風にアレンジしてもよかったんじゃないでしょうか、少なくとも、あの言葉の出来を聞く限り。

 話はと言うと、「最速の映画人」増村保造らしく、すごいペースで進んでいきます。評論家の柳下毅一郎が、『ケータイ小説は増村保造に撮らせるべき』と言っていて、これは膝を打たせる評言でした(もう増村は死んでいますけれど)。増村のスピードを持ってすれば、ケータイ小説もうまくマッチするように思います。それくらい彼の映画は急展開だったりするのです。他の監督のものならば「話が急だ」と悪い評価をされかねませんが、彼の場合登場人物間の熱量があるため、否応なく納得させられてしまうというか、別に展開が急とかそういうのはいいや、と思わされる。『盲獣』はその好例です。今回も役者陣自体はすごい人たちですから、熱量は生めたはずなんです。いや、生まれていたのかも知れない。でも、えせ関西弁のノイズはすべてを粉々にしてしまった。その意味ではなんとももったいない。これが外国映画なら気にならなかったでしょうけれど、いかんせん日本映画の、それも関西弁で全編がなされるものとなると、どうしても厳しくなる。

 熱量を失った増村作品は、今度はすかすかに見えてくる。もっといえば、ぼろぼろにさえ見えてくる。どうしてあんな結末になるのかがさっぱりわからない。不倫関係が新聞に露見した、もう社会的に破滅だみたいになって心中するんですが、どうして有名人でもない人の不倫があんなにでかでかと出るのかとか、そういう普通の疑問を感じさせられる。今の駄目な日本映画みたいになります。川津の綿貫にしても後半ではぜんぜん出てこなくなるし、あの岸田今日子の話を聞いている老人は何なのだとかわからないし、まさにケータイ小説よろしく、つっこみどころの洪水になります。原作の細かいところはぜんぜん覚えていませんが、少なくとも映画の上では説明が省かれすぎている。増村作品は数多くて、まだ五分の一くらいしか観ていないんですが、今のところダントツのワーストです。

『痴人の愛』でもそうでしたが、やっぱり谷崎潤一郎を原作に撮るとなると、もっと詰めるところをきちっと詰めていく必要があったのだと思います。早取りでわちゃーとやっていいような題材ではなかったのでしょう。年間に何本も発表する増村だからこそ生み出せる熱量はありますが、一方でその体制では十分に落とし込みきれぬ題材もあったわけです。関西弁とかそういうのはぜんぜん気にならない、という人ならば違う感想もあるでしょうし、ぼろくそに言うほどのめちゃめちゃなものでもないです。役者の揃えはいいのですし、誰もが関西弁らしい言葉を発しようとしてはいる。でも、いかんせんなじんでいない。言葉の端々に、関西圏特有のもったりとした感じがなく、東京弁的な鋭さが出てくる。

 方言の扱いは実に大事であると学ばされる一品になりました。
[PR]
by karasmoker | 2010-01-14 01:31 | 邦画 | Comments(0)
←menu