『ソイレント・グリーン』 リチャード・フライシャー 1973

対応年数は遠く過ぎた作品かなあ、と。
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 未来社会を舞台にしたフィクションというのは、一体どれくらい前からつくられたのでしょうね。有名な古典作品はたくさんあるけれど、古代や中世の頃に未来を描いたものというのは、果たしてあったのでしょうか。いや、別に何の答えも用意していない単なる疑問なので、期待されても困りますが、だいたい19世紀、近代以降に限定されて語られていると思うんです。古代の神話なんかはかなりダイナミックな世界観を提示しているのに、なぜだか未来については語らない。中にはノストラダムス的なものもありますけど、未来の世界について考えているというわけでもないし。もしかすると「未来を語る」「未来を考える」という営み自体が、近代の発明なのではないでしょうか! 江戸時代の人たちが考えた今の時代とか、わかる書物があれば面白そうなんですが、寡聞にして知りません。 うん、でも、今日はちょっと鋭いことを言ったんじゃないか。
「未来」自体が近代の発明だった。
 なんて、ちょっと格好いい文句です。ここから先の思案はとりあえず皆さんに任せます。何か反証になる作品などあれば教えを請いたいものです。

 さて、1973年のこの映画は2022年、次の寅年を舞台にしています(アメリカ映画だから寅年とかないけど)。とはいえキューブリックみたいなモダンさはつゆほどもなく、ちっとも未来っぽくはありません。予算的にも未来らしい未来を描けるほどの映画ではないようでした。この映画ではとにかく未来は荒廃していることになっていて、貧富の格差が激しいことになっており、貧しくて家もない人で溢れかえっています。しかも食べ物がぜんぜんなくて、果物一つもあれば大喜び。人工食糧のようなものを配給されている状態です。

 自然の食べ物がない中で、果物や野菜をかじるシーンは秀逸でした。チャールトン・ヘストン、エドワード・G・ロビンソンが実にうまそうに食べるのです。最近はなぜだか食べ物を食べるシーンに注目していたりします。それでいうと、『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ 1948)で貧しい親子がレストランで食事するシーンとかよかったなあと思います。映画自体は正直退屈してしまいましたが、ああいうところでなぜか、ほろりと来るものがあるのです。『ソイレント・グリーン』は食べ物が大きな鍵になるので、こうした食事シーンはもっと多くてもよかったと思います。人工食糧を食べるシーンなどをもっと入れた方が絶対によかった。これは断言します。別に食事じゃなくても、ちょっとつまんでいる程度でもいいから、もっと必要だったんです。

 物語はある大金持ちの暗殺に始まります。主人公はその死の真相を探るべく奔走するのです。もう三十七年も前の映画ですからネタバレも文句ないでしょう。要は、その大金持ちはある支配的な企業の秘密に触れたから殺されたのであり、その秘密とはずばり、人工食糧が人肉を用いてつくられていた、というものです。これがこの映画の大きな特徴になっています。

 人肉食は数あるタブーの中でも最も危険なものとして異論ないでしょう。この題材はわりとポピュラーですね。人肉をミートパイにしていたとかいう都市伝説もあるし、『食人族』なんて映画もあるし、『羊たちの沈黙』のレクター博士をただならぬ人物に見せてもいるし、歴史上の大量殺人鬼にはそのタブーを犯す人がたくさんいたようです。『ソイレント・グリーン』は、資源が枯渇し荒れ果てた未来を描き、ひどい未来をもたらせば人肉さえも食べることになるぞ! と警告しているわけです。

 このメッセージがゆえに、映画として歴史に残ったという感があります。映画のできばえ自体はさして優れたものとも思えなかった。人肉をショッキングにするならもっと食事のシーンを増やすべきだし、あるいは「牛肉が出回ったぞ!」と囃しつつも実は・・・なんて描き方もあったろうし、そもそもあんなぱりぱりのスナックみたいなものだと人肉の不気味さも出てこない。これならいっそのこと、「家畜を用いない、科学的な肉の人工生産に成功した」みたいな設定にして、でも実は・・・というものでもよかった。不気味さを高める、ひいては人肉のタブー性を引き立てる手立てはいくらでもあったんです。事態が解決する必要は全くないし、しなくて正解なんですけど、それにしても最後の追走劇シーンが面白くない。中途半端な下っ端に追われて終わりですから。

 あと、中途半端な恋愛のくだりは要らない。要らないシーンだなと思って観ていたら結局要らなかった。描くべきことにもっと労力をさいてほしかった。この映画において食べ物とは別の大きな特徴としては、安楽死的な場面です。人肉の秘密を知って絶望したじいさんがおり、彼は安楽死を望みます。その方法は、ベッドに寝そべり、かつてあった美しい風景を映像で見ながら死んでいくというものです。ぼくは人肉の話よりも、こちらのほうにこそこの映画のテーマ的美点があると思う。死にゆく者が最後に見る風景、それは走馬燈のごとき人生などと言われるように、その人個人の記憶であるのがいいはずなのに、この映画ではなんか、「安楽死用の綺麗な風景」みたいな、つまりは誰もが思い浮かべるような綺麗な場面を映すんです。これを見てじいさんは安らかな臨終を迎えることになるんですが、これは明らかに記憶の尊厳を無視している。荒廃した未来ではその精神性、人間性さえも希薄なものになっている、ということを示している場面です。

 ただ、実はそれほどいいシーンでもない。というのは、多分作り手はそこまで意識していない。むしろ「荒廃した社会を活きる人は皆、綺麗な風景を望んでいるのだ」という決めつけをしているように見え、すなわち作り手自身もまた、悪しき未来像のうちに囚われている。作り手が「こんな死に方があってなるもんか!」と言っているのではなく、「綺麗な自然は尊いのだよ」と言っており、「ね? みんなもそうだよね、このじいさんのようにさ」と観客に訴えてしまっています。これは駄目です。この脚本は駄目です。それではこのシーンの良さを何も活かせていません。

 なぜぼくが演出的不備、テーマをよく描く上での不備を見いだすかと言えば、主人公のチャールトン・ヘストンがじいさんと一緒に風景の映像を見て、「綺麗だな」と感動してしまうからです。あれではもう、「死ぬなよじいさん!」の気持ちが何も出てこないんです。「こんな風景に感動するな! こんなのはつくりものだ! あんたの記憶じゃない!」と怒ってもらわないと、テーマが非常に小さくなってしまいます。いや、わかりますよ。監督や脚本家がいちばんに描きたかったのはそのことじゃなくて、環境や未来社会のうんぬんだったんでしょうから、綺麗な風景を持ち上げたい気持ちもわかる。でも、あんな風に安楽死を遂げる様もまた、環境とは別の未来社会への警鐘なのですから、あそこは絶対違う描き方があったはずです。あれではあの安楽死を肯定してしまうことになる。安楽死したくなるくらいにひどい世界として描きたかったのか? だったらもう一回言うけど、変な恋愛のくだりとか入れないで、人肉の嫌さをもっと描くべきです。うまそうな食事シーンを撮れたのだから、食べるという行為をもっと効果的に使えたんです。

総じて言うと、自然破壊や大量消費への警告さえできればそれでいいというような映画になっています。『ミクロの決死圏』で今にも通じるはらはらどきどきを描いた監督ですが、今回のこれは今にはもう通じない作品になってしまいました。

 いろいろと偉そうなことを言う。これが「なにさま映画評」の醍醐味なのでございます。
近頃はコメントがめっきり。誰かかまってくれる人がほしい頃合いでございます。あ、こういうこと書くのやめよ。だってこれで来なかったから余計寂しいもんな。とか言いながら、バックスペースキーは押さない男。
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by karasmoker | 2010-01-15 00:55 | 洋画 | Comments(2)
Commented by KazKam at 2012-02-04 02:21 x
GJ!
Commented by karasmoker at 2012-02-04 08:52
THX!
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