『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2』 ロブ・ゾンビ 2005

ぼくの好きな悪魔じゃない!

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下が日本市販のDVDパッケージ、内容を示せていませんねえ。上の元のやつだと売れないとか考えたのでしょうか。これだけ観るといかにも悪趣味ですが、この印象だけで内容を推察するとまず間違いなく裏切られます。これは思いっきり映画秘宝的な作品ですね。他の映画誌なら受け付けない、女ウケのしない、血みどろのテキサス。1も観ましたが、2のほうがずっと印象深いです。そして、なんとも困惑させられる映画でした。

1のモチーフはわかりやすく『悪魔のいけにえ』で、あの映画の元となったエド・ゲインが人形で登場します。ただあの映画と違って、悪者としてかわいこちゃんとかこのパッケージのおっさんが出てくるんですね。その辺で色味は変わってくるんですけど、本質的にはあの元の映画と同じですから、それほど印象には残らなかった。

2は設定自体を受け継いでおり、あの最悪殺人家族が警察に追われるところから始まります。主人公は最悪殺人家族です。逃避行の最中に次から次へと人々を殺しまくります。

 終わり方に顕著ですが、アメリカン・ニューシネマ風味が相当に濃くなっています。悪者の逃避行はむろん『俺たちに明日はない』ですが、やることがえげつないです。このえげつなさを容認できるかどうかで、この映画への愛着はまったく違ってくるでしょう。あの最悪家族をどう受け止めるかで、ぜんぜん評価が違ってくるはずです。ここがぼくにとって最も困惑する部分であり、この映画の肝とも言えるところでしょう。

『俺たちに明日はない』のボニーアンドクライドは、言ってみれば連続殺人鬼で、一言で言えばどうしようもないやつらです。でも、当時のアメリカ(1930年代前半)の社会的に不安な背景もあり、ただの殺人犯としてではない見方が生まれていた。人々の鬱憤を代弁するような存在としても受け止められていたわけです。また、『俺たちに明日はない』はアメリカン・ニューシネマの第一号でもあり、これもまた1967年という時代の状況にそぐうものだったのです。くわえてこの映画は古きハリウッドへの反発、その代表作として登場しました。お行儀のよいハリウッド映画に満足できない若者たちの心を強く捉えたのがかの名作だったわけです。

 さて、『デビルズ・リジェクト』ですが、この主人公の連中については、ボニーアンドクライドとはやっぱり違うと思うんです。そもそもがエド・ゲインという救われない殺人鬼を発端として造形されているわけで、エド・ゲインは残念ながらボニーアンドクライドとはほど遠い。1を踏まえてその続編として観たときに、やっぱりこの主人公家族がやってきたことは最悪すぎるんです。こんなやつらの逃避行を楽しめるほどには、良識を失うことができないのです。

 あのー、この家族を追う保安官は、鏡に向かって独白するシーンが象徴的なように、神という記号を担っていて、家族はタイトルにもあるとおりにまさに悪魔として位置づけられるわけです。神と悪魔の話を『アニマルハウス』のときに書いたのですが、ぼくはかみに対置される悪魔というものを非常に重要な存在だと思っています。

 ただね、ぼくにとって重要な「悪魔」は何も、「悪いことをする存在」ではないんです。思うに、悪魔の本質は別に「悪」でも「魔」でもない。ここは一般的な認識と大きく異なる部分でしょうが、ぼくはこの解釈に自信があるというか、今のところ間違いを覚えません。

 悪魔を「悪魔」と名付けたのは神のほうなのです。福音派を支持基盤とする前アメリカ大統領はいみじくも、対立する国々を「悪の枢軸」と名付けました。ではアメリカこそが善であり、かの国々が悪なのか。そう断定していいのか。アメリカによるこの十年の行いを見れば、その断定があまりにも危険だとわかるわけです。そして、悪魔と呼ばれた存在の本質が、「悪」や「魔」でないこともわかる。あくまでも(ややこしいな)、神に従わぬ存在として、悪魔はあるわけです。十数年前に自分の子供を「悪魔」と名付けて問題となった話がありましたが、その言い分にも一理あるわけです。神に従わぬ存在、言い換えれば、「己から強い意志を持つ存在」であるわけで、そういう風に育ってほしいのなら、これ以上の名称はないというわけです。

 ボニーアンドクライド、アメリカン・ニューシネマが人々を魅了したのは、神と対峙する存在としての悪魔だったからです。悪いことをしたからいいんじゃないんです。押しつけの秩序、信じられぬ秩序に牙をむいたから人気を得たのです。

 迂回が長くなりましたが、そうした文脈から判断すると、この最悪家族には価値ある意味での悪魔性は感じません。神(=秩序)と対置する存在としての悪魔ではなく、ただ悪いことをしている悪魔にしか見えない。あるいは『イージーライダー』のような、秩序からの自由者とも見えない。単なるたちの悪い破壊者にしか思えない。

 いろいろ考えたけれど、やっぱりこの最悪家族を好きにはなれなかった。なので白状すると、あの正義に狂った保安官が暴走しているとき、ぼくは痛快でならなかったんです。あの保安官の勝利で終わってもいいと思ったくらいでした。あの保安官には復讐を遂げさせてやりたかったのです。特にあのチャンネエが可愛らしいじゃないですか、きったないホワイトトラッシュばかりが出てくる映画の中で、あのチャンネエはグンバツに可愛いのです。で、あのチャンネエにむかついていたぼくは、「お、お、お、おまえなんかで勃たないぞ!」と思っていたぼくは、あの保安官がチャンネエを追い詰めたとき、なんとも痛快だったのです。これは女王様として威張っていたやつをぶち殺す、という、ぼくが妄想の中で理想とするシチュエーションに近かったのです(危ない!)。あいつが死んだ後で保安官が死姦していれば、痛快マックスで射精していたかも知れません(ああ、もうアウトだ)。

 いや、意外と真面目な話なんです。「愛する者よ、復讐するな」「復讐するは我にあり」とはこれまさに新約聖書の言葉でありまして、いわばあの保安官は主の代行者を気取りながらもその実、主に従わなかった存在なんです。彼は己の意志を持って動いた人間であり、ぼくの思う悪魔像に近いのです。その彼が、いわば「間違った悪魔」である(すなわちデビルズリジェクト=悪魔の廃棄物にすぎない)彼女を屠るとき、正しき悪魔は自らの存在をさらに際だたせることができます。あの場面においては、正しき悪魔が堕せる悪魔を打ち砕くシーンだったのであり、だからこそ保安官の勝利を求めるのです。

 こういう考え方でこの映画を観る人は多くないかも知れませんね。
 あの保安官は結局殺され、まるで最悪家族が被害者みたいな構図です。それで結局、あのアメリカン・ニューシネマだったなら最高に上がる終わり方を迎えるんですが、いやあ、この家族が好きなら、この映画を褒めまくっていたでしょうね。あの終わり方は確かに格好いいのです。あの終わり方をされたら、この映画に惚れていた人はもうメロメロでしょう。でもなあ、「家族愛」とか出してくるあたりはどうなのかなあ。いやいや、そこで家族愛をおまえらが語るのかよ! と思いますねえ。むしろ家族愛とかとは対極に突き抜けて欲しいんです。さんざん人を殺しておいて家族愛とかに着地されると、ああ、悪魔としての筋が通ってねえなあと思う。ダニエル・プレインビューを見習ってくれ!

 ぼくがもっと映画に詳しければ楽しめたであろう小ネタもあり、その点も残念です。映画に詳しくないと単に要らないシーンに思えてしまう場面がたくさんある。どう考えても話に関係ないシーンはいくつもありますね(あの映画評論家とかチキンファッカーのくだりとか)。映画好きには楽しめるのだろうなあと思いつつも、こちとらそれほどにシネフィルじゃないので、テンポが悪くなったという感じ方もあります。

 いろいろ書きましたけれども、それでも一本の娯楽作品としてはすごく濃度があると思いますよ。単に不快と受け取る人もいるだろうし、最高と思う人がいるのもわかるし、ぼくみたいに悪魔について悩む人もいる。娯楽的でありながら、そういう思考のしどころをたくさん生んでくれる映画です。どう感じるか、で自分の人間性を確かめてみるのも一興だと思います。おわり。
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by karasmoker | 2010-01-22 06:38 | 洋画 | Comments(2)
Commented by クズリ at 2012-04-25 14:47 x
どうも初めてコメントする者です。悪魔感に対して非常に共感しました(笑)。自分のイメージでは神はいっつも仲間とつるんでて悪魔は一匹狼。って感じがしてて、それを「自我の強さ」とすると納得。要は和を重んじる神が扱い辛いから切り離したというべきか。聖書とか読みませんが、なんとなく感じたことをコメントしたくなりました。自分も映画ブログやってて好みが近い気もしたので(違ったらすいません)良かったら訪れてみてください。では失礼しました。
Commented by karasmoker at 2012-04-26 00:20
 コメントありがとうございます。
 ぼくはリンチや黒沢清、難解な映画がどちらかというと苦手なので、今後参考にさせてもらいたいと思います。
 神と悪魔についてですが、ユダヤ、キリスト教における神は「和を重んじる」とはむしろ対極で、「自分を信ぜぬ者は殺す」という考えをします。仲間とつるむなどあり得ず、すべては神の意志のもとにあるのです。聖書ではおなじみです。でも、実際問題として、信ぜぬ者を神が殺してくれたりはしないので、敵対する者を悪魔視することで切り離したわけです。自分を信じない奴らは悪魔、あるいは間違った教えを信じる奴ら、というわけです。聖書は現代風にいうなら、「プロパガンダに最適の書物」なのですね。
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