『暴力脱獄』 スチュアート・ローゼンバーグ 1967

菅家さんと検事のこと、従属することの罪、長い話。
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原題『COOL HAND LUKE』
 町山智浩さんが「一生に一本観るならこの映画だ」「これに比べたら他のポール・ニューマンの主演作などゴミだ」とまで言っていました。

『暴力脱獄』というのはなんかどえらく熱い邦題ですが、原題はむしろ逆で、そして当然原題の方が内容にそぐいます。客引きのためでしょうが、むしろ汗臭すぎて客が来ないタイトルじゃないでしょうか。日本では当たらなかったようです。

 ポール・ニューマンが囚人となり、刑務所に入ります。彼はその性格の良さ、明るさから、周りの囚人たちに一目置かれ、また愛される存在となります。しかし、とあることがきっかけで、脱獄を繰り返すようになるのです。

 ぼくは60年代から70年代のアメリカ映画が好きですが、一方ではその地味さ、ある種の穏やかさ、もっと言えば雑さについて、好みではない部分もあります。たとえばサム・ペキンパーに関しては、ベタに『ワイルドバンチ』とか『わらの犬』とか『ゲッタウェイ』とかが好きなんです。『ケーブルホーグ』とか『ビリー・ザ・キッド』、『昼下がりの決斗』、『ガルシアの首』などは正直面白く感じなかった。これをしてぼくは自分が、本当にペキンパー映画が好きな人種ではないことを自覚しております。あれらの作品はどうも地味に感じられてならない。地味というのは題材ではなくて、話運びや演出の部分で。アメリカン・ニューシネマは好きです。好きですが、『スケアクロウ』とか『真夜中のカーボーイ』は楽しめなかった。あれらの作品は地味で、結構弛緩していて白熱に乏しくて、そこに映画的深みを感じる人もいるのでしょうが、ぼくはまだまだひよっこでよくわからない。イーストウッドに惹かれないのも、この辺のことが関係しているのです。

 今回の『暴力脱獄』も同じように感じた。もっともっとががっと来ておくれよと思ったけれど、意外とさらっとしていたんです。しかも町山さんの映画の語り方にも間違いがありまして、これはひどく残念なところでした。町山さんは「一生に一本の映画だ」とまで言っているのに、ポッドキャストでは内容を間違って語っていたんです。劇中、ポール・ニューマン扮する主人公の母親が死にます。でも、刑務所にいる彼は葬式に行けません。悲しみで妙な気を起こすといけないから、という理由でその日の労役を免除され、独居房みたいなところに入れられます。これを町山は「母親の葬式に出ようとして脱走したけど捕まって、独居房に入れられる」などと言っていました。また、独居房に入れられる際、看守の言った言葉に対してポール・ニューマンが「ものすごく怒る」などと語っているのですが、実際観てみると怒っているというより、一言文句を言う程度でしかなく、そのシーンを期待して観ていたぼくは肩すかしで脱臼寸前でした。
(追記:独居房ではなく、「反省房」です。ご指摘いただきありがとうございます)


 町山さんの言うとおりであれば、この映画の点数はすっごく上がったんです。この映画について彼は『ドラッグ・ミー・トゥー・ヘル』(=『スペル』)の回のポッドキャストで語っていまして、この回の内容はすっごくいい話だったんです。だから町山さんの語りの方が感動的だった、というなんともしがたい映画体験でした。

 映画の持つテーマ性はぼくが常々考えていることにばっちり来るものでした。すなわち、反抗すること、です。反抗すること、逆に何かに唯々諾々と従うこと、それを通して人間を描いていて、「アメリカでも唯一の実存主義の映画」らしいです(本当に唯一なのか?)。

 話は変わりますが、ぼくはあの菅家さんの冤罪事件と、検事との法廷での対立に、「従うこと」の罪性というか、人間社会の業の深さを感じました。菅家さんは当時自分を有罪に追い込んだ検事に対して、謝罪を求めました。ところが、当時の担当であった森川検事は謝ろうとしませんでした。この出来事だけで、ぼくはいろいろなことを考えました。

 このニウス、仮にこの検事が謝罪を済ませていれば、ぼくはそれほど思い巡らせはしなかったと思うんです。検事はなぜ謝らなかったのでしょうか。謝罪というものを簡単に捉えている人であれば、謝罪していると思うんです。でも、そうはしなかった。この点についてだけ言えば、、謝罪というものをきちんと考えている人だと思い、検事に対して肯定的になれます。事なかれ主義的に謝る人じゃないわけです。ではなぜ謝らないのかと言えば、まさに「従うこと」の業であって、彼はおそらく、当時自分が与えられていた役目に忠実に従っていたのです。自分は自分の仕事をやったまでだ、恥じることは何もない、というわけです。ここには従属することそれ自体が罪たり得る、という実存的な問題があります。自分は与えられた仕事をやったまで、もしその仕事が悪いのだとしても自分のせいではない。この考え方はその個人の身になれば道理も通ります。極端な例が戦争です。戦場で人を殺してもそれは上官の命令だ、というわけです。『私は貝になりたい』の豊松は否応なく敵兵を殺します。そうじゃなければ、自分が殺されるかも知れないからです。

 戦争は極限状態ですから自分の命まで問われるけれど、平素の生活における従属はそこまでのものではない。ただ、何かに従属した行為は、それ自体が常に既に「保身」と表裏一体であり、保身を願望することから生まれる行為は、得てして他者に対する罪の実行となります(ああ、映画に関係ない堅い話が止まらねえ)。従属の究極形態は信仰です。何かを絶対的に信仰することは、何かに絶対的に従属するということです。神という存在はその意味で、大変危険なのです。「私に従え。さもなくば不幸になる」と言われたら、従ってしまうのが人情。そしてその従属こそが他の不幸を呼び込む。ぼくが神を尊ぶよりも悪魔を重んずる理由は、ここにもありました。

 かの検事は従属することの罪性に気づいていない。いや、反対に、自分はまっとうに従属したのだと誇りさえ感じているかも知れません。だからこそ、無実の可能性があった菅家さんを従属させることについて、罪の意識を持たなかったのであり、持っていない。ぼくの考えはあくまで菅家さんが無実であるという前提に基づくものですが、本当に彼が無実であるならば、かの検事は二重、三重の罪を負っているわけです。役割に従属した罪、己の従属の罪に気づかないこと、その精神によって他を不当に従属させたことです。

 加えて言うなら、検事が謝罪しない理由はもうひとつ考えられます。もし謝罪すれば、今度は一挙に彼自身が業を自覚することになるからです。平たく言うと、自分のやったことは正しかった、と信じなければ、申し訳なさ過ぎて耐えられない、というわけです。従属の罪を自覚する痛みもそこに加わるのであり、社会的エリートとして生きてきた彼の自尊心は、きっとこれを受け付けないのでしょう。

 ここまで読んだ人がいるか知れませんが、短絡的に「従属を罪だと言っている」などと捉えてほしくはありません。そんなことを言えば、検事に従属した菅家さんが悪いということになります。それは、たとえは悪いですが、奴隷状態にあった人に「従うな」と言っているようなもの。ぼくの述べたいこととは大きく異なります。ぼくが焦点としている従属はあくまでも、「己の役目に対する従属」です。検事の従属はそれですが、菅家さんのものとはぜんぜん異質です。 

 映画と関係ない話で今日も長くなりましたが、『暴力脱獄』はその映画について語るよりも、「その映画から語られること、について語ること」のほうが多いように思いました。それは映画としてパワーがあり、深みがあるという証なのでしょう。ただ、フェアに映画的な快楽を判断したときに、それほど映画自体の魅力を感じないのも事実です。脱獄のシーンの緊迫感はぜんぜんないし、ポール・ニューマンが受け入れられていく過程もなんとなくの感じがあります。だから道路舗装の達成感があまり伝わってこないし、看守と囚人という最も形になる部分もあまり活かされない。看守と囚人なんて、アメリカン・ニューシネマとしては最高のお膳立てだと思うんですが、看守サイドの圧力は脱獄の部分くらいでしか描かれない。

 話は尽きませんが、そろそろ打ち止めないとまた違う話で盛り上がりそうなので、中途半端な感じもしますが、まあ、とりあえずはここまでで。
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by karasmoker | 2010-01-24 00:44 | 洋画 | Comments(3)
Commented at 2010-01-24 04:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2010-01-24 05:19 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by karasmoker at 2010-01-25 05:35
長くなりましたので記事にしました。この次の記事です。
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