『空気人形』 是枝裕和 2009

出てくる人たちがみんな空気人形ですけど、監督、この映画はそれでいいんですか?
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新文芸座にて。
 ダッチワイフのペ・ドゥナが心を持ち、その辺をふらふらし始める話です。結構評価が分かれる作品らしく、『映画芸術』ではワーストワンになっていました。
 このご時世、空気式ダッチワイフというのはそっちの業界でどれくらいのシェア割合なのでしょう。九年前くらいから監督が暖めていたアイディアらしいのですが、今ではラブドールのほうが人気じゃないでしょうか。空気式の方が断然安いでしょうけれど、金があればたいがいの人はラブドールを求めるでしょう。少なくともぼくならばそうです。ラブドールの方が明らかに立派でリアリティがあるので、人形としての生々しさについては惜しい感じです。

 ペ・ドゥナの持ち主は板尾創路なのですが、彼はこのダッチワイフを生きている恋人そのものとして扱っています。話をするし、風呂にも入れるし、近所の公園に遊びに行ったりもします。これは不気味と言えば不気味だし、悲しいと言えば悲しい行いですよね。ダッチワイフを扱っているならもう少しその点を描いて欲しかったと思います。ぜんぜん不気味でも悲しくもないんです。持ち主が本気になればなるほど悲しさが浮き出てくるはずなのに、その辺が綺麗すぎる気がしました。あとあとこの板尾は、別れた恋人代わりにこのダッチワイフを用いているのだとわかりますが、ちっとも悲しさがないのです。不気味じゃなくてもいい。どこかで悲しくないと、あるいは普通の恋愛とは異質な偏愛を色濃く感じさせないと、せっかくダッチワイフを用いた意味がない。ぼくの大好きなドラマで、三谷幸喜脚本の『今夜、宇宙の片隅で』というのがあるのですが、あの中で西村雅彦が片思いの相手、飯島直子の代わりに、彼女とそっくりのコールガールを呼ぶ回があります。あれなどはもう全面的に悲しい。この板尾の場合、失ったものを別の何かで必死に埋めようとする者の悲哀がないのです。この点は映画全体を貫く問題点に関連します。

 空気人形ペ・ドゥナが心を持つそのきっかけが別にない、というのはまあいいとしても、あいつがふらふらし始めてからの物語の脇がどうしても甘い。なんでビデオ屋の店員になれたのだ、なったのだという合理的説明の部分は許すとしても、板尾がペ・ドゥナの外出にまったく気づかないというのはちょっとよくわからない。結構かわいがっているんですよ、板尾は。あとあと「代わりはいくらでもいる存在」だとわかり、だから外出にも気づかぬ程度にしか愛されていなかったのだと汲み取ることはできますが、序盤ではそれなりに愛しているんです。だからペ・ドゥナが、「私は性欲処理の道具だ」みたいに言っても、ちょっとぴんと来ない。心を持つきっかけが別にないんですよ、この映画。とすると観客としては、ああ、かのピグマリオンのごとく(当然この映画の大元のネタですが)、板尾の愛情が通じたのだなと解釈するほかない。でも結局そうじゃなくて、板尾は中盤以降完璧に愛想を尽かされます。板尾の気持ちがさっぱりわからないんですよ。別れた恋人の代わりに人形を買って、さも本物の恋人のように振る舞うというのは、やっぱり精神的に壊れていると思うんです。その壊れっぷりが描かれないものだから、人形たるペ・ドゥナと人間の板尾、ひいては他の人間たちとの対比もきわめて弱い。

 他の人間たちの存在感がとにかく弱いです。だからもうこの映画は、ペ・ドゥナのアイドル映画として愛でればそれでよいのでしょう。オールヌードも惜しげもなく披露してくれます。が、その存在感、およよという驚きは、『復讐者に憐れみを』のときのほうが大きい。『復讐者に憐れみを』では彼女は騎乗位ファックを演じていましたが、肉体的魅力が伝わるのはむしろあちらです。まあ、人形だから伝わらない方がよくて、その点で言えば演出は成功していますが。人間世界と彼女の衝突が何もないのです。ちょっとしたのはありますよ。でもさあ、美容室行ったり服買ったりするお金はどこで払ったの? 板尾はそれほど裕福じゃないですよ、むしろ貧しい感じですよ(ああ、この貧しさもまた悲しさに転じられたのに!)。その辺で世界観がゆるゆるになる。空気人形の彼女がふわふわしていてもいいけど、人間世界までふわふわしていてどうするのだ! いや、わかりますよ、「ぼくもある意味空気人形だ」みたいなことを彼氏的な男に言わせているし、人間たちの存在感はおそらく意図的に薄められている。あの『歩いても歩いても』でちゃんと存在感を描いた監督ですから、まさかこの薄さが演出的失敗によるものだとは思えない。

 でもさ、その薄さが故にさ、あのクライマックスが活きてこないと思わない?
 記号としての血が出てきて、そこに彼女と人間を隔てるものが描かれてはいる。けれどあの場面はもっともっとぞくぞくできたシーンだと思うんです。あそこに至るまでに人間の存在感とペ・ドゥナの対比をもっと色濃く描いておけば、その対比の爆発点としてあの場面を設定できたのに。なんか綺麗な感じなんですよ、でも前にも書いたけれど、綺麗なものは残りませんよ。そうなると肝心のペ・ドゥナの最期も印象に残らない。あれはもういちばんに大事な部分ですが、ああ、結局どうにもならないのだなという悲しみがない。フランケンにしろ『ブレードランナー』にしろ、勝手に創られて勝手に死の運命を与えられる存在なのであり、そこに悲しさがある。ひいてはああした人造人間なりレプリカントなりという存在は、人間自身の比喩でもあった。我々は自分の意志と関係なく生まれてきたわけで、彼らと同じ存在ですからね。このペ・ドゥナには生きることの悲しさがないのですよ。板尾はそりゃ浮気していましたけれど、立ち去る彼女を必死で捜し回っていたじゃないですか。彼のもとに戻ることもできたんです。彼は愛してくれていたのです。なんかすっごい中途半端な終わり方で、『ウォーリー』的な、ロボットが人間らしさを教えてくれるような展開にもならない。人間もみんな空気人形なのさ、すかすかさ、という印象しかこの映画は与えてくれないんです。ラストのタンポポも滑っている。

 板尾とあの恋人、ARATAに焦点を絞ってもよかったんじゃないかと思ってしまう。板尾をもっと全面に押し出せば、少なくとも絶対に濃度は上がった。板尾の男の偏愛が本作の主軸でないのはわかっていますけれど、それなら他の人間たちの人間性はもっと必要だった。

 ペ・ドゥナがすごくよい、と言われていますがぼくは疑問でした。人形的、あるいはロボット的な言語の拙さが、韓国語なまりの拙さによって高められていたのだと評価する声もありますが、非人間的拙さとは明らかに違って、外国人の拙さなんですよね。特に韓国語っぽい、低音部が耳に残る訛りというか、べたりとした耳障りがある。あれなら『ウォーリー』のイヴちゃんのほうが遙かに上で、イヴちゃんは終始「ウォーリー」というだけなのにすごく愛着がわいた。文節を多用しない方がよかったんじゃないですかね。単語単語のコミュニケーションの方が味わいが生まれた気がしますそうでなくてもせめて、ずっと関西弁で訛っていれば違っていたのにね。ずっと板尾の傍にいたのだから、関西弁訛りがあれば違う風合いが生まれたのにね、あれをごく一部でしか使わなかった。ちょっとねえ、結構多くの人はねえ、ドラマ『聖者の行進』のいしだ壱成を思い出したと思います。あれにそっくりのしゃべり方ですからね。同じ知的障害者でも、『チョコレートファイター』のジージャ・ヤーニンのしゃべり方は上手かった。上手かったと言ってタガログ語だからまったくわからないけれど、雰囲気としてしっかり伝わってきた。今回はそういうの、なかったなあ。

 人形への偏愛、というのはそのまま「萌え」なのですが、どうも是枝監督は萌えの人じゃない気がします。もっともっと萌え要素は組み込めたんです。別に萌え要素をくわえたいとは思っていなかったかもしれませんが、だとすると監督、あんたはペ・ドゥナに萌えなかったのかい? メイド服も記号的だったし、監督はおそらくペ・ドゥナを偏愛していない。それだと、こちらには彼女の良さが伝わってこないのだ。 
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by karasmoker | 2010-02-04 03:09 | 邦画 | Comments(0)
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