『涼宮ハルヒの消失』を観る前に、読む前に

『涼宮ハルヒ』をよく知らない人向けの説明
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 ちょうど三年ほど前にネットで『涼宮ハルヒの憂鬱』を観たときにはそれほど強い感動は覚えず、なるほど確かによくできているなあ、くらいの感想だったのですが、映画が公開されるとあって原作を読んでみたぼくは、その周到な設定に目を丸くし、ああ、やられた、やられちまつた、と思ったです。ああ、やられた、やられちまつた、と思ったです。二回書くくらいに。

 大変よくできています。びっくりしました。
「国民的アニメ」とは別種のものとしての「カルト的アニメ」。70年代における『ヤマト』であり、その後の『ガンダム』であり、80年代は『ドラゴンボール』があり、90年代はむろん『エヴァンゲリオン』。予想を立てますが、先々その系譜においてゼロ年代を代表するのは『涼宮ハルヒ』だろうと思われます。これ以後は、特別に専門的な知識も持たないあっさいレベルのぼくが独断で語りますことなので(これまでがそうじゃなかったような言い方だな)、眉に唾を塗りたくり、その唾が目に入って沁みる沁みる、ああ、今まで気づいていなかったけれど自分の唾液は異常に酸性が強いぞ! などと言いながら読んでもらえば幸いです(よくわからん)。

既にして『エヴァ』が過去作品からの引用を巡らせた作品でしたけれども、『ハルヒ』はそれ以上に露骨な形でアニメ的な要素を他から持ち込んでいきます。言うまでもないこととして長門有希は綾波レイ(どちらも戦艦の名前から用いており、作者の意図的なパクリがわかるようになっています)であり、朝比奈みくるは既に記号化されていた「萌え」の体現であり、ハルヒは物語を推進させる動力かつ、「セカイ系」そのものとしか言いようのない存在です(このハルヒの使い方は実は他のどんなアニメもなしえなかったことを実現します)。この三者の配置はもう最近のアニメのおいしいところをすべて用いている(一目でわかる「萌え」とは別に、ハルヒの「ツンデレ」を入れたところもきわめて周到)。 
 この造形を完成させた時点でもうものすごいのですが、視点人物、語り手の男子高校生キョンの使い方が的確。的確すぎて怖い。キョンはハルヒに振り回される普通の高校生なのですが、原作を読んで最も驚嘆したのは、彼の語りがそのまま我々享受者自身の投影であることがわかるからです。

 このブログ自体がそうであるように、あるいはネットによって明示化された人々の反応がそうであるように、ぼくたちは絶えず世の中の出来事について普通一般の視点からツッコミを入れています。スポーツの試合から有名人の醜聞まで、いつでもぼくたちは何か感想を抱き、それを言葉にしたりしなかったりしながら日々を過ごしている。このキョンは常に冷ややかにハルヒの言動を追っていき、自分からは特別な行動を起こしません。むろんぼくたちは日々の活動で当事者的に主体的に動き回るわけですが、メディアに対しては当然傍観者であるほかない。どんなに自分で動いていても、世の中の大きなニュースに対しては傍観するほかない。この傍観的態度、そして心の中でなんらかのツッコミを入れる態度(あるいはネットに書き込んだり文章を書いたりする態度)は、そのままキョンと一致するのです。ハルヒが無茶なことを言い出し、それをツッコミながらも離れることができない。自分とは無関係だと言いつつも、メディアから断絶できずに眺め続けるぼくたち。キョンの立ち位置は、主人公でありながら主人公ではない。主人公では無いながら、はっきりと主人公である。今までの有名アニメがなしえなかったスタンスであり、最もぼくたちに近いものです。文学では別段発明に当たるものではありませんが、少なくとも有名なアニメ(細かいのは知らないけれど)にはなかった。ここは大変画期的かつ、コロンブスの卵でもあったのです。

 キョンという平凡な視点人物。彼を置いたからこそ本作は傑作たり得たのでしょう。ハルヒを視点人物にしては成立しないのです。キョンの存在は最もぼくたち一般人の情況に見合うものです。最も感情移入しやすいと言える。アムロやシンジのように巨大ロボットに乗り込むこともないし、悟空のように強いわけでもない。あくまで平凡な存在でしかないぼくたちが、最ものめりこみやすい方法は、視点人物が普通であること、そしてすぐ傍に自分を引っ張り続ける何者かがいること。この人物になることを通して、観る者はその世界へと誘われていきます。

 さて、『涼宮ハルヒ』がいかなる物語であるかをまだ述べていませんでした。
 ひどくざっくりとした設定を言えば、高校生のキョンがハルヒと出会い、彼女がつくるSOS団という集団に入れられ、その時々でてんやわんやに巻き込まれるとそんな話です。

 この物語における最大の発明は、ハルヒをもうこの上ない「セカイ系的存在」として設定したこと。彼女の存在は文字通り、「セカイ系」の体現であり、彼女が世界の中心に位置しているという最高に大胆不敵な設定を生み出したことです。彼女が救済されることによって世界も救済される、その中心部に彼女を置きました。もっと簡単に言うと、ハルヒはこの世界にとって神のごとき存在として置かれています。彼女自身にその自覚はなく、周辺の人間だけがそれを知っているという形式を取っています。

この設定をつくりあげたことで、『ハルヒ』シリーズは無敵になりました。どんなジャンルの物語も描けるようになったのです。SFだろうがファンタジーだろうがミステリーだろうが、とにかくどんなものであっても、その物語内に取り込めるのです。なぜなら、ハルヒは神であり、「こうなったらいいな」と思えばセカイはそうなるのですから。もうどんなジャンルでも可能です。異世界に紛れ込む道理が通れば、どのようなジャンルも物語内部に落とし込める。いやあ、やられちまつたというものでしょう。

 なおかつ『ハルヒ』は先に指摘したとおり、既存の作品から次々とアイディアを取り込んで厭わない。他のものなら「パクリ」とされる引用さえ、その作品世界を構築する要素として機能させてしまう。朝比奈みくる登場の際、ハルヒの台詞として「萌えキャラが必要」と言わしめます。これを何の説明もなく放り込んでいたらただのパクリですが、こういうメタ的な台詞を入れることによって、読者をも共犯者にしてしまいます。だってあなたも萌えキャラがいた方が面白いと思うでしょう? という問いかけが、自然と読者の方に発される形となります。さんざんに使い尽くされてきた要素の数々を、堂々とした形で自作品に取り込んだ。すべて暴露した上で、それでも楽しめるものをつくる。この態度はきわめてゼロ年代的ではないでしょうか。

 SF的な設定をしっかり説明しており、同時にうんちくの退屈さに陥らない。なんとすごいのでしょうか。こういうのがいちばんすごいのです。

『ハルヒ』をして単にオタク的なものであると唾棄する態度は、己のエンターテインメント観の狭さを露呈するものであります。非常に秀逸な形で構築されています。『ハルヒ』が徹底して偉いのは、そのような構築の巧みさに気づけなくても楽しめるものだということ、これをエンターテインメントの極致と言わずなんと言いましょう。細かい話がわからなくても、たとえばキャラクターが可愛いというだけで人々を魅了できる。歌がいいというだけで人々を魅了できる(エンディングの『ハレ晴レユカイ』にダンスをつけたのもとことん慧眼)。そうやって、楽しみ方にいくつものレイヤーを用意しているのです。

 さて、前段の文章が大変に長くなりました。これでやっと『涼宮ハルヒの消失』について語ることができます。
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by karasmoker | 2010-02-09 23:19 | アニメ | Comments(0)
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