『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』 ラリー・チャールズ 2006

アホ。
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現在新作の『ブルーノ』が公開中ですが、ボラットと同一人物だとは思いませんでした。ぼくはサシャ・バロン・コーエンという人を監督だと思いこんでおり、いや、ボラットの監督兼主演だと思っていて、『ブルーノ』では監督に専念したのかと勘違いしていました。という、「別におまえの勘違いとか訊いてねえし」情報からのスタートですが、『ボラット』はドキュメンタリータッチのコメディです。カザフスタン人ボラットに扮したコーエンが、アメリカ社会に踏み込んでいたずらをしまくる、ふざけまくる映画です。

 前半は結構面白く観ました。テレビがまじめっこちゃんになって以降、ぼくはこういうものに餓えていたのです。いちばん連想しやすいのは『電波少年』で、小学校高学年の時以来『電波少年』に支えられ続けたぼくは、こういう体当たり感が好きなのです。やっぱりドキドキさせる番組、映画というのは尊いのです。テレビ番組がつまらなくなったいちばんの要素はこのドキドキ感の消失。事故性の消失。事故が起こっちゃいけない、とわかりつつも、おそらく昔のテレビにはその事故をも包括して楽しんでしまうようなところがあったと思うんです。『電波少年』はその金字塔です。松村をチーマーの輪の中に放り込むようなことは、今のテレビには絶対できない。今のテレビはガチで、事故が起こらないようにしているんです。社会全体がそうなのでしょうかね。たとえば公園の危険遊具の撤去とかにしたって同じ話です。煙草のタスポ導入だってそうです。国母選手の騒動とか、沢尻エリカの騒動も似たような感じを受けます。あとはあの覚醒剤騒動の過熱ぶりよ。とにかく枠の外に少しでも出るようなものに対してヒステリックになる。この風潮はちょっと恐いですよ。かなり恐いですよ。こういう風になったこととネット文化の広まりがどうも時代的にかみ合っているのですが、何か関係があるのでしょうか。賢い人に教えてほしいものです。

閑話休題。『ボラット』。
 字幕だからニュアンスは十二分にわかっていないのだろうけれど、それでも字幕の付け方は上手くて、笑わせてもらいました。編集のテンポもいいし、さらりときわどいことを言うのがうまいんですね。おかしなことを言うぞーじゃなくて、普通のトーンでぽろっとおかしなことを言うのが面白い。ひやひやわくわくさせてくれるから、笑える空気がきちんとつくれているんですね。

 と、言いつつも、案外風刺的な部分って、弱いような気もするんです。この映画を褒めるときはアメリカ社会の風刺みたいなところを言われるようですが、実はその部分はそれほど濃くはなかったりする。あのロデオ大会のくだりはいいと思うんです。ロデオ大会に出て行ってスピーチするんですが、このくだりは素晴らしい。イラク戦争に関して、ボラットは「私は戦争を支持します!」と叫び、観客から喝采を受けます。ところがボラットは続けて、「イラク人民を皆殺しにしましょう!」「向こう千年は草木も生えない土地にしてやりましょう!」と叫び、今度は周囲の反応が悪くなるんです。これはすごくいい風刺だと思うんです。戦争を支持するってことは、そういうことなんだろ? おまえらはイラクの国民が死ぬことを望んでるんだろ? 拍手をしたやつらよ! というメッセージになっていて、人々の気持ちを実に痛快に逆撫でる。こういうのがもっともっとあってほしかったなあと思うんです。

 確かに人々との会話で、ユダヤ人差別の本音を暴く、みたいな体は随所にあるんですけれども、それもどうも弱くて、というか、なんともこの映画に充ち満ちている「仕込み感」が拭えない。ロデオ大会はそうじゃなかったんですが、他のところは仕込み感が強かったんですね。違う言い方をすると、せっかくドキュメンタリーっぽいのに、ドキュメント的なドキドキが無くなり始める。いちばん明確なのは、出てくる人たちがぜんぜんカメラを観ないことです。ボラットが変なことをしていて、いわば狂人じゃないですか。そのとき相手は正気を求めて、カメラを観ると思うんです。ねえ、どういうことなのこの人? という救いを求めるようにね。あの会食の席はそれがないから、どうも生々しさが乏しい。パメラ襲撃のくだりにしたって何だって、「何を撮ってるんだ!」みたいなのはあったほうがいいと思うんです。そうするとよりあのボラットの狂人性が浮き立つと思うんですよ。カメラを観ないということは、カメラの存在をないものとして扱っているということです。それはつまり普通の劇映画的であり、違う言い方をすると虚構的なんです。虚構なら虚構で結構。ならば下手にあのロデオ大会みたいな本物を入れないほうがよかった。ああいう現実のすごみに、虚構は負けてしまうんです。でも、あのシーンもどれだけ現実か怪しいなあと少し思うのは、後ろでタイミング良く牛がこけるところ。面白いけど、迫力が薄れます。

 ただ、この映画でひとつ、ある意味とても風刺的なところがあって、それはあの福音派のくだりです。福音派の集会があるんですが、ここでは今まで散々ボケ倒していたボラットがぜんぜんボケないんです。素直に福音派に従う。これね、福音派を皮肉ることができなかった、という見方もあると思うんですが、ぼくは「福音派ってのはボラットがボケられないほどの狂烈集団だぜ」という風刺として機能していると思うんです。下手に皮肉る必要がないような集団だってことは、観りゃわかるだろ? ということです。

 この映画はいろいろ言いたいことがありますが、忘れてはならないのはあのチンポむきだし写真です(あの場合、チンコではなくチンポというほうが適切。適切って何だよ)。もうモロだしなんです。あの辺の映像の基準がよくわからない。市販AVでもチンポは自主規制をかけているものが大半ですが(ネットは除く)、この映画では普通にチンポが写っています。さすがにボラットのチンコは隠れていましたが、ああいうのはいいのでしょうか。いや、いいのです。ああいうのを規制するものと戦わねばなりません。その点のDVD制作者の心意気はあっぱれです。

この映画をやれる日本人はなんと言っても江頭2:50ですが(実際にトルコでやったし)、江頭は笑えなかったようです。いわく、「ああいうのは嫌々やるから面白い」とのことでした。ディレクターの指示を受けた芸人が罰ゲームとしてこわごわやるから面白いのだと言っていて、この点は松本人志の『ジャッカス』評と同じことを言っています。江頭という人がこの辺のバランス感覚を大事にしているのは意外でした。確かに嫌々やることによってドキュメンタリー性は高まるんです。そのほうが余計ドキドキするというか、じらし効果を生むんですね。この映画に足りないのはじらし効果で、ゆえに後半になると仕込み感が浮き立ってくる。

 あれこれと思うところある映画ですが、『ブルーノ』を観に行こうと思わせるよい映画でした。最後にブタゴリラとくっついたところも、大変心温まる部分です。
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by karasmoker | 2010-03-22 06:12 | 洋画 | Comments(0)
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