『ゼイリブ』 ジョン・カーペンター 1988

いい意味で中学生的。
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B級テイスト溢れるSFスリラーで、ウルトラQ的な昔の特撮ものにも似た、なかなか愉快な作品であります。変な褒め方ですが、「いい感じで金がかかっていない」作品です。下手に豪華な特撮効果を入れるでなし、近未来を描いたりして失敗するでもなし、発せられるメッセージはアホみたいにわかりやすく、ぼく的基準で言えばかなりキュートな作品と言えます。

 失業中の主人公がドヤ街に暮らし始めるといきなりその集落が警察によって破壊され、不審に思った彼が真相を究明しようと乗り出すとそこには驚きの事実が、という筋立てで、いたってシンプルな作りです。

 主人公はとある場所でサングラスを見つけるのですが、それを装着するとなんと、世界の像がまったく違って見えるのです。飾り立てた広告の看板はどれも「従え」「買え」「考えるな」というメッセージを放つだけのものに変わっており、街を行き交う人間の一部がドクロのような顔に見えるのです。看板については、これ以上なくわっかりやすい商業主義への風刺です。
「ふたたびテレビを見てすぐに気づいたことは、テレビ画面に映し出される映像は全て、我々に何かを売りつける意図のもとにデザインされているということです。映像は全て、我々に何かを買いたいという欲望を起こさせることを意図して作られているのです。彼ら(映像の作り手)がやりたいことと言えば、我々のお金を奪うことだけです」
これは今日付ウィキに貼られている監督のコメントですが、この考えを表すにあれ以上わっかりやすいやり方はないでしょう。

 まるで反商業主義の雷鳴に撃たれた中学生のような、とても短絡的な発想ですが、この監督の映画もどうも中学生っぽい、いや高校生くらいか、とにかくちょっと馬鹿っぽいんです。悪く言っているのではありません。その甘さがキュートなんです。これをね、深刻な面をして商業主義を語り出したりしたら最悪ですよ。でも、「こういうよの中はへんだとおもうんだ!」って叫んでいる感じで、かわいらしさがあるのです。

 幸か不幸かこういう若々しい発想を持つ時期はぼく自身は過ぎておりまして、今では半ば世捨て人みたいになっているため、「好きにやればよろしい」と思っております。それではあまりにもじいさんくさいのでちょっとひねくれたことを言うならば、やはりアホはアホで利用価値がある、ということです。やはり人がものを買わないと経済が回らないし、商品開発の競争によって科学は発展を見ていくわけであるし、そうなるとアホはアホなりに広告やCMの言うことを聞いて、商品を買っていればよろしいのです。アホが経済を回していると言っても過言ではないのです。アホがパワースポットに行く過程でお金を落とし、アホがキャバクラの女にボトルを開け、アホがすかすかな音楽とクソ映画に涙を流し、アホが流行に乗せられて次々と家電や衣服を買い換える。不景気打開の鍵はこのアホからいかに金をむしり取るかということであって、もうぼくは知らない、好きにやればよろしい。

 映画に戻ると、街の通行人の一部がドクロに見えたのは理由があって、なぜならそいつらはエイリアンだったから、という、なんともこれまた中学生的な発想なのです。エイリアンがこの社会を乗っ取ろうとしていて、ああいう商業主義的なメッセージを発しているということなのです。人々をメッセージに従順なる存在に仕上げ、乗っ取ってやろうという腹づもりのようなのです。地下には宇宙へワープする装置があって、驚くことに地下にそのまま宇宙空間が広がっており、ここを通してエイリアンは乗り込んできているのです。

 さて、今ぼくはエイリアンを「中学生的」と書きましたが、実はそれだけの見方ではSFそのものへの踏み込みが足りないとも思います。「エイリアン」は宇宙人、地球外生命体などの概念として日本では訳されますが、言葉の意味としては"alien"=「外国の、異質な、対立した」という意味を持つ形容詞句でもあります。エイリアンとはつまり、「他者」のことなのです。エイリアンを記号的な悪、こちらを脅かす敵対者としてのみ描く、あるいは見なしてしまうというのは危険であり、この映画ではその点への気遣いが見られます。

 ここに出てくるエイリアンは、別に悪いことは何もしてない。いや何もしていないわけではなくて確かにドヤ街を壊したけれどそれは自分たちの存在に気づく気配を感じたからであって、表向きは普通の人間と何も変わらない形で過ごしているのです。映画に出てくる一般市民からすれば、クレイジーなのは明らかに主人公のほうであって、エイリアンは別に何の危害も加えていないのです。監督はエイリアン=他者=「彼にとっての商業主義」を破壊的な悪と見なすのではなく、いかにも優しい顔をして近づいてきてこちらを取り込もうとする存在、として捉えています。破壊的エイリアンやゾンビといった、いかにもキリスト教的な「絶対悪」を配置しがちなアメリカ映画の中で見れば、この映画の美点があるように思います。

 エイリアン側に寝返る登場人物も当然いるのでして、彼は「商取引のようなものさ」と主人公たちを説得します。別に危険な連中じゃないんだから彼らとうまく持ちつ持たれつでやっていけばそれでいいじゃん、的な人もいて、これはこれで(現実においても)確立した処世術となっており、監督にしてみれば忌むべきものなのでしょう。ぼくはこの登場人物を見て、宗教に関する連想が働きました。現実社会でもやっぱりあるわけですよ。特定の宗教団体に入信すると言っておけばその分仕事が回ってきたり、得票できたりするわけですよ。監督は商業主義に重きを置いたようですが、宗教方面でふくらませていればぼく的ポイントはもっと上がりました。

 芸能人や政治家やなんかでも、信濃町を中心とする熱放射の恩恵を受けている人は多いようです(検索を恐れる迂遠な描写)。それを生まれたときから本気で信じている人はまだわかるんですが、中にはそれこそ「商取引」と割り切って入信してしまう人もいるんでしょうね。商業主義云々より、そういうマインドのほうがぼくは恐いです。ある意味では透徹した無神論者、処世第一の合理主義者と言えなくもないけれど、宗教的な精神の部分を明け渡す、文字通り「魂を売る」人間のほうが恐いと思うんです。

 かといって、そういうものをぶちこわせばそれでいいのか。この監督は最後の最後で、中学生的でありながら中学生的ではない、実に大人なラストを用意しました。エイリアン電波装置を主人公が壊したせいで、エイリアンのドクロ顔ははっきり誰にでも見えるものになり、大混乱になるのを予見させて映画は終わります。エイリアンを倒してハッピー、という単純な話ではなく、むしろ隠していた嘘を暴いたら大変な混乱が起きるというエンディングを用意しているのです。嘘を暴きたいと息巻くのはいいけれど、真実が見えた後の後始末はつけられそうにもないだろう? 監督が自分の中の中学生と語り合ったかのようなこのラストは絶品。さらに偉いのは、きちんと笑いになっているところです。まじめぶるのではなく、笑いにしてしまう。信頼できる監督です。
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by karasmoker | 2010-03-24 05:20 | 洋画 | Comments(0)
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