『ハートロッカー』 キャサリン・ビグロー 2009

長い記事になってしまった。宇多丸VS町山討論が作品そのものより興味深い。

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この作品を観ようと思ったのはアカデミー賞受賞という惹句ではなく、宇多丸と町山智浩さんの徹底討論を聴いたからです。ラジオ番組のポッドキャストとして配信され現在も聴取可能な本放送では、本作について両者が真っ向から議論を交わしています。有名人同士の「大議論」「徹底討論」にありがちな、「結局は二人とも同じ意見」のなれ合いではなく、約80分間、互いの主張を頑として譲らないものであって、とても聴き応えがありました。それで観に行ってみようと思ったわけです。

 二人の議論はこの映画の内容に留まるものではなく、評論行為そのもののあり方にまで踏み込むものでありました。そして二人の根本的な考え方の違いゆえに、議論はついぞ解決を見なかったのです。

 宇多丸の『ハートロッカー』評に町山さんが異議を唱えたのが事の起こりでした。どういった議論だったのか。映画を観ていない人にもわかるように、議論の構図を説明しましょう。
宇多丸が「この映画はAのような受け取り方も、Bのような受け取り方も許容してしまうようなつくりだ」と述べました。これに対して町山さんは、「この映画の情報を詳しく読み解けばAのような受け取り方は間違っていて、Bのような解釈が正しいとわかる」と応じたのでした。この町山さんの指摘に対しても、宇多丸は一歩も引くことなくぶつかり、長い議論は続いたのです。

 町山さんの評論に対する考え方はその著書からわかるように、「一般の観客が映画を観ただけではわからないその映画の持つ意味や情報を読み解き、人々に伝えることだ」というものです。ゆえに彼は、「Aのような受け取り方をしそうになるけれども、細かい情報を知っていけば、Bのような解釈に断定できる」という意見を貫いたのであり、彼の評論姿勢がとても顕著に表れていました。一方の宇多丸は、「細かい情報を知っていれば確かにBであるけれども、この映画に描かれていることだけを切り取れば、AにもBにも見える。実際、町山さんの言うBの解釈とは相反するような演出があるではないか」と反論し続けたのです。冗談でお茶を濁すような「すかしかわし」のない白熱した議論でした。

 町山さんの映画評論に対する考え方はとても学者的であるなあと思いました。別のポッドキャストにおいて彼は、「日本の映画評論の問題は調べないで書くやつが多すぎること」「他人の映画の感想なんか読まされても何もならない」「いい評論というのは、映画を観ただけではわからないことを伝えるもの。たくさん映画を観ているからこそわかる情報を伝えてくれるもの」というようなことを述べています。資料やインタビューを通じてその映画を研究し尽くし、評論するという姿勢は、きわめて学問的で厳密なものだと思う。だからこそ、「AのようにもBのようにも見えるね」という宇多丸の態度に引っかかったのでしょう(とはいえ、町山さんもゴシップ的な未確定情報を流してしまうこともありましたが)。

 こうした態度は大変重要であると思うわけです。評論家というのは時として、自分からは何も生み出していない存在であり、「クリエイター」のほうが偉いのだみたいになりがちですけれども、じゃあまともな評論家の声がほとんど届かない今の日本映画はどうなっているのかを考えれば、「クリエイターが偉い」なんてとても言えません。批評的な視点がなくなれば、ついには「売れるものが偉い」というただそれだけの価値判断になっていく。有り体に言えば、馬鹿を踊らせたやつが偉い。現に日本映画はそうなっている(いや映画に限らぬ)。だからこそ駄作しかつくれない監督でも大作を任される。そいつらが「クリエイター」としてのさばる。クソを食らえ。この状況に対抗しようと思ったら、こちらはこちらで馬鹿を踊らせるものをつくるほかないのでしょう。評論家の声が届かないほど、彼らは踊りに夢中なのですから。

 話がそれる。
 宇多丸と町山さんの議論は互いの根本的な立場の違いがあり、そこを譲らない限りは平行線をたどるほかありませんでした。でもそれでいいのです。往々にして議論の実りとはその結論ではなく、その過程にこそあるのです。長い議論であるため詳細は実際に聴いてもらうほかありませんが、映画を観て聴いてみれば、何か感ずるところはあるはずです。

さて、やっとこさ『ハートロッカー』の話ですが、二人の論点を大きく回避しつつ、気軽に感想を述べたいと思います。観に行ったのはシネマロサ。西口なので距離感。スクリーンがさほど大きくないので三列目で鑑賞。二列目でもよかったくらい。

 イラクにおける爆発物処理班の男が主人公なのですが、爆弾というのは映画を、あるいは物語一般を盛り上げるための有用な装置です。物語に緊張感を与え、また盛り上がりを生むためにはいくつかのわかりやすい技法があって、たとえば「タイムリミット」がそうだし、もしくは追いつ追われつの「チェイス要素」もそれに類します。「爆弾」はその中のひとつで、「いつ爆発するかわからない」というのはそれだけで緊張感を生めるんです。

「爆弾」は何も本当の爆弾に限りません。幽霊、殺人鬼が襲いかかってくる映画も「爆弾」映画です。「いつ、どこからやってくるかわからない恐怖」こそが「爆弾」の意味です。難病ものもそうです。あれも「爆弾」映画。いつどこで発作が起こるかわからないため、緊張感を観客に与え続けることができるのです。

 だから思うのですけれど、この映画を褒めるときに、「爆発物を処理するときの緊張感が・・・」みたいなことを言うのはどうも阿呆らしい。戦争映画で爆発物処理で緊張感が生まれないほうが間違っているのであり、そこを褒めても仕方ないでしょう。特に常に銃で狙われる危険性を帯びている現場なのだから、アカデミー賞を受賞した本作への褒め言葉としては、逆に失礼というものです。ぼく個人としてはむしろ、その部分の緊張感にはさして味わいを覚えなかった。ああ、爆発するのか、いや、しないのか、ひやひや、という緊張感はそこまでのものではないと思いました。

 肉体感が迫ってこないのが大きかったかもしれません。ここで爆発したらこの登場人物は死んでしまう、その当たり前の事実に対してさしたる緊張感を覚えなかった。映画序盤で最初の爆発があるんですけれども、ここも妙に綺麗に撮りすぎていた。予告編にもあるのですぐに確かめられますが、あれでは構図としての収まりがよすぎた。ということはつまり、爆発に美しさがあったということです。それは爆発の恐怖と相反するものではないでしょうかね。爆発の恐怖を生むには爆発した美しさではなく、いかにそれによって人間の体が無残にぶち破れてしまうかを描くほうが重要なのに、あろうことかこの映画では妙に画になる爆発を最初に持ってきた。画にしちゃってどうするんです。

 爆発の恐怖を観客に共感させるうえで最も有効かつ手っ取り早い方法はおそらく、観客にその場面の不快を感じさせることです。いわゆるショック演出を使うこと。幽霊映画でも、いきなりドーンと幽霊が出てきたら観客はほとんど反射的にびくっとなるじゃないですか。それで不快感なり、生理的な恐怖を植え付けられるんです。同じイラク戦争ものでいえばデ・パルマの『リダクテッド』がありますけど、あの映画にはありましたね。思わずびくっとしてしまう演出。ああいうのがないんですよ。だから爆発への恐怖を共感できない。戦争は麻薬だ、などと言うのなら、その麻薬的なまでの強い刺激が映画のどこかにあってしかるべきなのに。

 いや、誤解のないように言っておくと、あるにはあるんですよ。その、突然の爆発っていうのはね。でもそこがぜんぜんショック演出になっていないんです。何の肉体的不快感もない記号的とさえ言える爆発でした。好意的に解釈すれば、これはアイロニカルではあるんですよ。戦争の現場で兵士が死ぬ事実をぼくたちは肌身には感じてはいないわけで、このように記号的な爆発はつまり、我々の戦争に対する捉え方そのものへの皮肉だ、と、言えなくもない。それを「戦争は麻薬だ」という字幕とつなげて、「戦争映画の麻薬性」を謳いあげれば、このだらだらした文章もそれなりに批評的に書けるかもしれないですが、
そんなファニーゲームをする気はありません。好意的に解釈したくなるほどの映画的魅力は感じませんでしたもので。

 この映画の記号的な死は他にもあって、たとえば砂漠での撃ち合いがそうなんです。敵の死はぼんやりとしか映されない。そこで確かに人が死んでいるのだ、という感覚を観客に与えない。それでいいんですかね? 兵士には確かにそうした殺人感覚の摩耗が起こるかもしれないし、それを観客に追体験させたかったのかもしれないけれど、だったら逆に、あの薬莢の落ちるスローモーションとか要らないんじゃないかなあ。あの見せ方じゃまるで、殺人のショックなシーンをごまかしにかかった安い演出に見えます。そうかと思えば子供の死体の場面はそれなりにグロテスクであり、ハリウッド映画で子供のぎたぎた死体を映すのはそれなりに冒険でもあり、死の軽重づけがいかにもアメリカ目線です。アメリカ兵が敵を殺す場面は大して残酷に見せず、人間爆弾にされた子供を見せて敵側の残虐性を強めて印象づける。そうかと思えばラスト近くにも出てくるもう一人の人間爆弾だって、肝心の爆発シーンは画になりすぎている。かなりちぐはぐな印象を受けました。

 そろそろ書き終えたい。
 ラストシーンは宇多丸・町山論争で最も問題になった部分です。大事なネタバレをします。


 主人公は任務期間を終え、平和な日常に帰って行くんですが、その後再び、自らイラクの渾沌の中に戻っていきます。宇多丸は「戦争は麻薬だという字幕もあるし、描かれている心情描写が乏しいし、平和な日常が退屈だから戻ったくらいにしか見えない」と述べます。すると町山さんに「ものすごく浅い」と言われます。町山さんは「自分ができる仕事をしにいくのだ。無敵だと思っていた自分が無力であることを知りつつも、自分に何ができるかを考えて戦地に赴くのだ」と指摘し、真っ向から対立するのです。

 この議論に深入りするとまだまだ終われなくなるのですが、宇多丸の視点になくて町山さんの視点にあるのは、「主人公の使命感」です。主人公は使命感ゆえに戻ったのかどうか、ここで意見が大いに分かれました。どちらともつけがたいというのが正直な思いです。個人的には、「どっちでもあるだろうよ」と思います。生の充足にどういう理由付けをするのかは本人の捉え方ひとつだし、どうとでも理屈は付けられます。別にどちらかに決める必要はないのであって、そこにこそ映画の登場人物の心情を読み取る味わいがあるのであって、我々がどんな生き方を選ぶときも理由はひとつではないはずです。両者はこの意見の相違を巡って映画を深く読み取っていきます。非常に興味深い対談でした。映画そのものより議論のほうがおもしろかったのでした。おわり。
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by karasmoker | 2010-04-01 01:42 | 洋画 | Comments(2)
Commented by 白川 at 2010-07-02 01:45 x
町山、歌丸対談の本質は開かれた創作というものは受け手によってまるで違うものになるということです
Commented by karasmoker at 2010-07-02 02:38
町山さんは映画特電で、「いい映画は結論を明確にせず、どうとでも受け取れるように描かれている」と述べていました。なのでぼくは、ひとつの解釈に固執した町山さんには少し違和感を持ったのでした。
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