『ブルーノ』 ラリー・チャールズ 2009

面白いってことは、確かに残るだろ?
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 元来出不精なぼくは映画好きを自称しつつ、実は今まで行ったことがなかったんです、新宿バルト9。観たい映画は大体池袋で観ることができたし、バルト9のある新宿三丁目はちょっと距離感があるのでした。事実、副都心線の構内をものすんごく歩きました。都会の大人は運動不足でうんぬん、などというイメージがありますが、思うにあれだけ地下鉄構内を毎日歩き回っているのだからそれほど運動不足でもない気がします。しかも大変な人混みの中ぶつからないよう注意を払って動くわけで、それなりの複雑な運動をしなくてはなりません。というか、ぜんぜんもう映画とは何の関係もない話ですけれども、都会の人混みを生きる人間は、かなり反射神経がいいのではないかと思います。何百何千の中を衝突無く切り抜けているわけです。長い長い階段やエスカレーターがありますが、あれで事故が起こらないのが奇跡的だと思う。上の人が転んで連鎖、という事故が起こらないのがむしろ不思議で、これはいかに都会の人間がその移動の作法をしっかりと飲み込んでいるかの証左でしょう。

初・新宿バルト9が『ブルーノ』というのは我ながらなかなかいい感じじゃないかと思います。面白かったです。映画館で素直に笑った記憶は実はあまりないように思います。

『ボラット』と同じような手法、趣向のコメディですが、前作以上に最低な感じです。サシャ・バロン・コーエンがゲイのファッション評論家ブルーノとして人々に迷惑をかけ続けます。もうただひたすら迷惑なやつであり、気が違っております。全編にわたって下ネタが炸裂しており、アホとしか言いようがありません。

 前作のボラットはまだ、風刺的な色合いも随所にあったんですけれど、今回はアホさがぶっちぎっており、アホのいなくなった日本のテレビとはまったく違う刺激を与えてくれます。観た後に何が残るかといえば、何も残らないとも言える。でもね、ぼかあ違うと思うんだよ。こういうアホがやりたい放題に走り回る姿はそれなりに感動的であり、このくだらない世界がよりくだらなく思えて、大げさに言えば生きる希望さえをももらったのさ。

 ぼくは小学校五年のときに松本人志の『遺書』を読んで衝撃を受けたのですが、それはひとえに、「こんなことを考えている人が世の中にいるのか!」という驚きだったのです。俺は天才だ! 俺の笑いがわからないやつは馬鹿だ! そんなことを正面切って言い切る文章が衝撃的だったのです。あのときほどの驚きはなくとも、この『ブルーノ』は、「こんなアホがこの世界にいる」という事実を知らしめ、喜びを与えてくれるのです。

 ボラットにせよブルーノにせよ感動的なのは、このアホどもが単身暴れ回ることです。徒党を組んで狼藉を働く連中とはぜんぜん違うのです。はっきり言ってぼくは群れというものが嫌いです。学生時代を通じ今に至るまで、群れに属すことができなかった。そういう個人史もあって、群れをなしてちょける連中に憎悪すら抱きます。これがね、何人も一緒になってやっていたら最悪なんです。馬鹿学生の集団です。この映画はもちろん撮影ですからチームがいるのでしょうけれど、画面上ブルーノはひとりぼっち。一応慕ってくる男が一人いるけれど、別にそいつとともに何かやらかすわけでもない。ひとりぼっちのきちがいは、それだけで悲しくて感動的で、共感してしまうのです。

宇多丸はラジオで、「とても共感しにくいキャラクター」と評していましたが、ぼくは彼をずっと応援し続けていましたよ。ブルーノ=サシャ・バロン・コーエンが見せる鋭い目線には「アホに徹してやる」と決めた男の熱さと強さがあって、それがなんて格好いいのか! 江頭2:50に通ずるものはやはりあって、どちらも易々とは受け入れがたい狂気のパフォーマンスを行うけれど、こうやってアホに徹することは絶対格好いいんだって!

 非常に重要な点として、ボラットもブルーノも江頭も、人を傷つけようとはしていないことです。そりゃあ不快な思いをさせるし、見たくもないものを見たと思わせるかもしれない。でも、人を傷つける真似は絶対にしないんです。そして彼らは、人々から向けられる好奇、侮蔑、軽蔑、憎悪を一身に受け止め続けます。出典は不明ですが、江頭の発言としてネット上、こういうものがあります。
「目の前で悲しんでいる人がいたら、なんとかして笑わせたい。そのためには寿命が縮まってもいいし、警察に捕まってもいい」
 彼らは確かに嫌われやすいし、気持ち悪いと思われやすい。その場で向けられる冷たい視線は絶えず、それどころか殴られるかもしれない、場合によっては殺されるかもしれない。でも、他人からどう思われようと厭わず、それを画面の向こうで見る、自分からは見えない誰かを、笑わせようと必死になっている。これが感動的でなくして、何が感動的だと言うのか。

 人によってはこの映画を観て、「面白いけれど何も残らない」とか言いそうなんですよ。本当にずっと、終始アホだから。けれど、そういう言い方は間違っています。面白いってことが、残ったじゃないかと。たとえば花火を観に行ったとして、見終わった後何も残らないなんて、言わないじゃない。すごかった、綺麗だった、すごい迫力だった、そういう感動が残っているじゃない。笑いだってそうだよ。思い切り笑ったなら、十分残っているよ。何も残っていないのは単に自分の鈍感さゆえなのさ。知識とか思想とか主張が残ればいい映画なのか。違うよ。面白い映画こそがいい映画なんだよ。知識は忘れるかもしれない。思想は廃れるかもしれない。でも、面白かったってことだけは、ずっとずっと残るよ。「『ブルーノ』は面白かった」っていうそれだけでいいよ。「何も残らない」なんて、そんなことないよ。

 面白くなかった、という人もいるでしょう。それはそれで感じ方ですからね、仕方ないです。とにかく下品ですから、許容度が低いと引いてしまうかもしれません。冒頭からブルーノは上品なものに宣戦布告します。ファッションショーのくだりがそうで、上品きわまるショーをぶちこわしにしてしまう。どちらかといえば、いやどちらか選ぶまでもなく下品派であるぼくには痛快でした。ファッションショーなんかは特に大嫌いな部類ですからね。

 もちろん、あの陰で傷ついた人もいるかもしれない。たとえばあのファッションショーに命をかけていた人だっているかもしれない。でもそれを言い出したら、どんな話だって肯定できなくなりますしね。悪の組織を打ちのめす話だって、その組織にいる人すべてが悪人ではないかもわからないし。誰かの行動はいつだって誰かに影響を及ぼすのです。社会で生きていくとはそういうことでしょう。だから言い出せばきりがなくて、少なくともぼくの場合は、「ファッションショーなんかでお高く気取ってやがる上品野郎どもめ!」という行動には痛快さを覚えたのです。

 その点で行くと、下ネタって忌避されがちだけど、実はいちばん誰も傷つけない笑いなんですよ。チンコを出したら面白い、っていうシンプルな構図には、何ものもつけいることはできません。

 あと面白いのは、あの音楽の使い方ですね。めちゃめちゃ感動的な場面みたいな音楽を流すんですけど、それがどう考えてもアホらしいんです。感動的な音楽にそぐわない極度のアホらしさが感動的、という二重構造です。最後の闘技場の場面はすばらしいです。あれは実は批評的ではありますよね。人々は殴り合いを観たいと渇望しているけれど、その意に反して愛を交わす。するとホモ行為を嫌悪する観客は暴れ出してしまう。ゲイネタ満載の本作において、クライマックスにしていちばん批評的な場面です。

異性愛を賛美する人間たちが、同性愛を罵倒する。異質なものをこそ尊ぶ連中が、同質的なものを嫌悪する。しかしこの構造はそれ自体がアイロニカル。あの異性愛者たちは、同性愛者が自分と異質であるがゆえに嫌悪しているのであり、自分たちと同質であることを同性愛者に強要しているのです。異性愛者たちは暴力行為をこそ期待しており、それが裏切られて怒り出す。何が暴力の期待を裏切ったのかと言えば、目の前で繰り広げられる愛の光景。皮肉だね。良識的多数派であるはずの人間が、愛を否定し、暴力を期待しているなんて。っていうこの構図。ちなみにこの直前のくだりでも異性愛者による暴力が炸裂していて、アホアホ続きのブルーノは終盤において、にわかに批評性を爆発させるのです。

 なんてことを言っておけば、「何も残らない」なんて思う人たちの何かを、少しは満足させられるでしょうかね。
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by karasmoker | 2010-04-06 05:14 | 洋画 | Comments(0)
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