『チャイルドプレイ』 トム・ホランド 1989

教科書をちゃんと読んでいる映画。場面場面できっちり決めている。
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 先日、頑張って渋谷まで行き、『息もできない』を観てきたのですが、どう受け止めていいのかわからない妙な感覚に陥り、明日辺り新宿武蔵野館に行ってもう一回観る予定の男です。
 この春の映画を語るなら、おそらくはアリスではなく、むろんカンタービレでありはせず、『第9地区』と『息もできない』の二本が必須となります。映画好きの過半がそう捉えていると思います。『息もできない』について書こうと思ったけれど、途中まで書いて、「あっ、ぼくはこの映画について十全に理解していない!」と気づいたので、先延ばして、とりあえずはチャッキーについてのお話でお目汚し。

 十年くらい前の深夜に観て以来のチャッキー。2も観ましたが、ぼくは1派です。3以降は観ていないのでその辺の話は期待するな。誰も何も期待なんかしていないさ。

『チャイルドプレイ』は幽霊映画と殺人鬼映画の常道をきちんと踏まえたとても真面目な作品です。大変に筋がわかりやすく、まるでその種の映画のお手本のようです。

 冒頭のシーンで、どうして人形が殺人鬼になるのかという説明を手早く済ませ、主人公の少年アンディを登場させる。この少年の運命がどんなバカにもわかる話運びです。そして予想通りに、当然の進行として、アンディ以外にはチャッキーの正体がわからないまま話が進んでいくわけです。

 殺人鬼映画の常道として、登場人物のある一人がそれに気づいても周りは気づかない、というものがあります。そして気づいた頃には手遅れ、というのが定石です。『スクリーム』が自己言及していた通り、「幽霊なんかいるわけないだろ、アハハ」という態度の人間は必ず殺されるわけであって、本作もその筋立てを裏切りません。しかし他の幽霊もの、殺人鬼もの、あるいはゾンビものなどと違うのは、「子供の空想的な人形遊び」を「大人が気づかない理由」に結びつけた点です。周りの大人が気づかないのは仕方ない、だって普通は子供の思い込みだと思うもの。この設定で観客の共感をぐっと掴み、映画に引き込んでいくわけです。これは本作を語る上で不可欠な設定と言えましょう。

 で、アンディの母が真相に気づく場面。子供の空想じゃないと明確に悟る場面。ここは小気味よいですねえ。とっても小気味よい。まったく無理がない。どんなバカでも一発でわかるようにしているのが偉いです。「わかりやすさ」というのはつまり「キレの良さ」であって、転換点としてのキレが抜群です。「真相に気づくくだり」というのは広く映画一般に見受けられますが、直前までの流れと直後の展開含め、これほど綺麗にはまっている例はあまりないのではないでしょうか。

 チャッキーと対峙し続ける子供、という構図もこの映画の良さです。普通は殺人鬼と対峙するのは大人であって、子供はひ弱で足手まといな存在にされがちですが、この子供アンディは頑張って戦い続ける。「ファンタジー映画はロリータこそおかし」と先日述べましたが、ファンタジー映画より直接的で等身大的な戦いが、手に汗を握らせるわけです。

 ラストもとっても真面目でしたねえ。まさに教科書通り。きっとこうなるな、という展開を見事なまでに裏切らない。ちゃんと教科書を読んでいるのが偉いです。変に自分流のアレンジとかせずに、やることをきっちり真面目にやっているのが偉いのです。おきまりの展開じゃないか、ワンパターンだ、などと言うのは無粋です。たくさんの試行錯誤がある中で、こんなにも真面目なラストを描く映画は絶対に必要なのです。

 さて、2はというと結構褒める人もいるようなのですが、ぼくはいまひとつ乗れませんでした。1からの引き継ぎ設定をものすんごくあっさり捨てちゃっているのがまず困りました。1で頑張ってくれた刑事も母親も出てこず、すごくなおざりな台詞ひとつで片付けられます。しかもあれだけの体験をしたアンディなら、グッドガイ人形を目にしただけで泣き叫んでもよさそうなものなのに、なぜだか同じ部屋でぐっすり眠ったりしているのです。

 あんな風にするならいっそのこと、アンディとはまったく別の設定にすればよかったと思うんですが、いかがでしょう。この2では「アンディとチャッキーの因縁」だけが引き継がれており、後のことは無視もいいところです。で、1と同じく結局は、「大人は気づかない」パターンです。ここは先述通りこの映画の優れた部分であるし、崩しようがないのでしょうが、それにしても1と同じ過ぎます。しかもとってもかわいそうなアンディの境遇に対して周りの大人がぼんくらすぎる。人形の正体に気づかない大人は別にぼんくらでなく常識人ですよ。でも、傷ついているはずのアンディへの気遣いがなさすぎる大人はもう死ねばいいだけの存在なので、何のあれもないのです。

 チャッキーが本格的に暴れ出した後も、「そのカット撮りたいだけやん」みたいなのが多かったですね。コピー機の場面とか、目玉の場面とか。ああいうのをよしとする映画好きがいるのもわかるんですが、ぼくは乗れませんでした。クライマックスのおもちゃ工場も、もうおもちゃ工場くらいしか行くところがないから行っている感じです。1ではアンディの自宅が修羅場になっており、あの家は全編通じて映画のメインステージとして機能していたんです。だから白熱した戦いになったんです。2ではそういう舞台をつくれなかったので、チャッキーがいっぱいいる画的な面白さを頼ってのおもちゃ工場。舞台に宿る力がない。しかもNHKの教育番組みたいなセットだし。倒し方についても「それやりたいだけやん」を感じました。

 2がいい映画、というのはたくさんありますが、このように1がいいのもある。もっと奥深いところまで行くと3、4がいいという世界もあるようですが、ぼくはまだまだひよっこです。2が精々。よくなる2とそうでない2の違いについて語る元気はもうないので、また今度。明日は武蔵野館に行く予定。レイトの回に行くつもり。真っ赤なバラを口にくわえて昆虫のような銀縁眼鏡をかけ、上半身裸でローションを塗りたくっている男がいたらそれがぼくです。「油あげ、油あげ」と唱えると奇声を上げて逃げていきます。
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by karasmoker | 2010-04-24 03:57 | 洋画 | Comments(0)
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