『死ぬまでにしたい10のこと』 イザベル・コイシェ 2003

死というものがちっとも見えてこないのが致命的。死がないのに生を語られても。
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 原題『My Life Without Me』
 たまには「邦題が10文字以上映画」を観なくちゃな、ジャンルが結構偏っているからな、何かというと殺人、ドンパチ、おぱーいばかりを愛でるからな、というわけで観てみました。

 邦題通り、余命数ヶ月を言い渡された若い女性がどう生きるかを描いた作品です。余命ものというのはセカチューの大ヒットにより、日本でも陸続とつくられるようになりました。死というのはすべての人間に関わりを持つテーマですし、結末は決まっているし、感動を誘いやすいモチーフだと思われがちです。タイムリミットものと爆弾ものの両方の側面を備えてもいるため、エンターテイメント的語りもしやすい。でも、実はいちばん難しいジャンルだと思いますね。どうしても絵空事感が強くなるんです。本当に真剣につくらないと、あるいはすごく巧みにつくらないと、むしろ描かれていることの軽さばかりが先に立つ。痛みをもたらさない。本作に感じた印象はつまりそういうものでした。

 類似ジャンルで「記憶消失もの」があります。だんだんと記憶が消えていく、というのも、余命ものと似た性質があるので、たくさんつくられるようになりました。余命ものではぐっと来るものに出会ったことがないんですが、記憶消失ものでいうと、小説『アルジャーノンに花束を』が忘れられません。今までに読んだ小説の中でかなりベスト級で、あれはめちゃくちゃうまい。忘れていくにつれだんだんと記録の文章が拙くなっていくところなんて、あっぱれです。訳文がとてもよくはまっています。死に向かう過程での自意識ではなく、自意識そのものが消えていく過程。自意識を描くのではなく、「描かれないということ」それ自体。映像作品は観ていません。どうせ勝てるわけがないでしょうから。あの小説に打ち震えた記憶があると、どうしてもこの手の作品には辛くなってしまいます。

 余命ものとは少し違いますが、『ザ・フライ』も実は構造的には同じなんです。やばくなっていくのが目で見てはっきりとわかるし、遠からずどうしようもなくなるのも予見できる。その末にああいう結末を持ってきた点が作劇上素晴らしく、強いてあげれば、余命ものの傑作は『ザ・フライ』ということになるでしょうか。

 さて、映画の話に入ります。観てわりと早い段階で、「下手な感じ」を受けます。具体的にどこで感じたかというと、動きのない会話の場面で、妙に人の顔を寄りで映し、話者の顔に忙しくカメラを動かすところ。登場人物の人間性を伝える際、その人の所作や行動ではなく、延々と過去を語らせてしまうところ。非演劇的所作を避けようとした分、むしろその演劇性が強まって見える恥ずかしいところ(涙を流す絶妙のタイミングったら!)。あとは最初に主人公が異変を起こし、倒れる際の一連の編集とカメラワーク。全体が見えていない感じ。安定感がない感じ。「映画ってこういう風にやるんだよね」みたいな感じ。ここはこう撮る! という明確な意思を見いだせない感じ。

 どうしたいねん! と思わずにはいられないのは、ぼくの人間性ゆえでしょうか。
 映画の中身でも、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書くのですが(このレストランのシーンの「くさい演劇性」は反面教師になる)、その中に「夫以外の男と遊ぶ」みたいなことを書いているんです。で、実際に他の男とチュッチュするのです。

 わからない! ぼくにはてんでわからない!
 この女(『バロン』を支えたサラ・ポーリーとは気づきませんでした)は家族がいて夫とも仲良くやっているのですが、どうして他の男と遊ぶのかよくわからない! この女は17で妊娠し、要は他の男をあまり知らないというわけなんでしょうが、だとしても死が間近になって、他の男と遊びたいと思うものなのでしょうか。この手の映画ってやっぱり、主人公にある程度感情移入して観るものだと思うのですが、さっぱりこの女の考えがぼくにはわからないんです。死ぬ瞬間になって、夫に対し、「自分が愛したのはあなただけだよ」と強く言えないことになると思うんですが、それはいいのでしょうか。「あたしはあんたしか男を知らない。でも、ただ一人知っている男があんたで、よかったと思うわさ」となっていたなら、くーっ! だったのに。夫は妻の死の宣告を知らずにいて、「なんだい、変なこと言うなあ」みたいになっていれば、くーっ! だったのに。なんかよくわかんねえ男とチュッチュしているんです。

 いや、わかるんですよ。自分と同じ名前の隣人が引っ越してきて、仲良くなって、ああ、彼女と家族が仲良くやってくれたらいいなあと眺める様なんかは、いいと思うんです。自分があまり夫を縛り付けないようにしよう、そうしないと自分の死後も生きていく彼を呪縛してしまうから、という、いわば反『ゴースト』的姿勢はある意味正しいと思うんです。でもさ、だからといってさ、他の男とチュッチュするのはよくわからないんですよ。それにさ、それにさ、それだとするとさ。

 引っかかるのは、車の中でメッセージを吹き込んだりする場面ですよ。あの辺のなんていうか、リストカッター的なイタさを感じさせるくだり。うわ、結局自意識にまみれてるやん、呪縛しようとしてるやんと思わされます。隣人と仲良くやって、何なら次の家族像を結んでほしいとまで願うのなら、あんなメッセージを吹き込んじゃ駄目だよ。あの辺がちょっとリストカッターっぽいんです。深刻ぶっている感じに見えるんです。綺麗にしようとしている感じなんです。その人にとっての死が、ぜんぜんリアルに見えてこないんです。

 いちばんこの映画で辛いなあと思うのは、「あーっ、嫌だ! 死にたくない! 死にたくないんだよ!」という生への執着が、ほんのひとかけらも見いだせないところです。無様でいいし、不細工でいいから、死にたくないっていうあがきを見せてほしいんです。そうしないと、死と対比される生が見えてこず、ゆえに死を問題視しえないんです。
「なんか、あたし死ぬみたいだし、できること、やっておこう」みたいな。
あのさあ、そんなやつにつきあっていられないよ! 格好付けてるのか? 何なんだ?
とにかく全編を通じて、この人にとっての死というものがちっとも見えてこないのが致命的。園子温の『ちゃんと伝える』も同じようなものでした。死が見えてこないのに、生を語られても。それなら逆に、「死ぬと言われたけどちっともリアルに感じられないよ」というその精神が伝わってくるかと言えば、否。だから全部、絵空事。全体的に、女性監督的な甘さが漂ってならない。

 アマゾンなんかじゃ褒めている人が多いみたいなんですけどね。これを褒めるかー。
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by karasmoker | 2010-05-13 01:24 | 洋画 | Comments(0)
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