『愛のむきだし』 園子温 2009 ふたたび 前編

まとまらせられない感動。ゆえにもう一度語るのだん
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 当ブログの検索キーワードはずっと「愛のむきだし あらすじ」がトップなのです。なぜあらすじを知りたいのでしょう。四の五の言わずに観やがれってんでい。注目作であるのは間違いないので、あらためてその魅力を語ってやりましょう。

 主に前半について述べましょう。
 長尺を支えた要素は数多く述べられますが、テンポの良さとナレーションと音楽が実に大きな働きをしているのは、言うまでもないところでありましょう。奇跡までのカウントダウンとチャプターごとの切り分けでメリハリを付け、速いテンポの編集をかましつつ、最高にセンスの良い音楽の選び方をしています。ダンスシーンやミュージカルシーンのような心地よさ、快活さが漲っているのです。ナレーションの当てはめ方が園監督はものすごく上手い。『紀子の食卓』『奇妙なサーカス』という2005年の代表作がありますが、あれらと同じく、登場人物はナレーションでどくどくと内面を吐露し、その吐露の語り口が絶品。男は敵、男は敵、と繰り返すヨーコの語りなど、もはや心地よさの極みであります。

 などということは観れば瞭然の話で、誰しも理解以前に体感可能なところでありましょう。ではなぜそれらの演出が劇的な効果を上げるのか、という話ですけれども、それはまさにタイトルが示す、「愛のむきだし」ゆえなのです。これは過去作における『うつしみ』とも通じていますが、あの作品にはなかった見せ物としての充実ぶりが、半端ではないのです。

この映画ではナレーションによる内面の吐露と表象される出来事がそのどちらにおいても、「むきだし」なものとして表されています。コイケの章に顕著ですけれども、彼女の学生時代が語られるときは、そりゃもうえげつない行動の連続です。「好きな男子に見つめられるともう駄目だった」といえばその通りに、リストカットがぐっちゃぐちゃになり、それどころか相手をぶっ殺してしまうのです。これはあまりにも「むきだし」なものとして迫ってきます。相手を愛するがあまり自分を傷つけ、しまいには相手を滅してしまう行い。リアリティなど糞食らえ。とにかく彼女なりの「愛のむきだし」の実現が描かれるのであり、こちらの予測を超えた形でその内面を描き出しているのです。あのコイケの章は、ものすごく濃い前半部の中でもとりわけぶっちぎっています。テンポ、音楽という外枠の部分を巧みに設定しつつ、観る者を飽きさせない刺激の連続。これぞ映画。そうした「むきだし」感こそが、この映画全体を神がかったものにしているわけです。

 リアリティなど糞食らえ。と書きましたけれども、前半部のハイライトに当たる広場での乱闘シーンがその極みです。なんなんだあのごろつきどもは、などというのは野暮。あのごろつきの台詞が面白い。ヨーコを見つけるなりごろつきの一人は、「まぶいすけじゃねえか」と挑発します。今時あんな人は日本中探してもいますまい。「まぶいすけじゃねえか」という言葉は、あの場面がリアルから大きく飛躍する始発信号なのです。退屈なリアルではなく、映画的醍醐味へ。まさしく「まぶいすけ」であるところのヨーコ、ひかりちゃんの舞踊が始まります。あれは一種のミュージカルシーンなのです。『愛のむきだし』には映画的要素が詰め込まれていますが、ミュージカル映画でもあるわけです。何人もの女性を並べてラジコンで盗撮するシーンも同じで、下手にやればただの馬鹿な表現。でも、ビートの刻み方が史上最高に秀逸だから、爆笑させてくれる。

 それと、格闘のシーンを語る上で、いや、映画全体を語る上で、ひかりちゃんのパンモロを抜きには話せません。映画にとって大事なものは何か、などと語り出せば、むろん幾多の要素があるわけですが、そのひとつに、「エロ」があります。いやいや、真面目な話なのです。はっきり言いますが、エロ抜きにこの映画を語ろうとする連中は全員偽物です。真面目たらしくキリスト教がうんぬんとのたまい、エロに触れないやつがいるとすれば、そんなやつはぽっぽこぴーです(何のこっちゃ)。

 男子たるもの、おぱーいやパムティーを観てうきうきしないなんてあってはなりません。映画とは見せ物です。エンターテインメントです。面白いものです。であるならば、変な格好付けは不要なのです。観客が密かに期待するおぱーいやパムティー。そういうものをきちんと見せるサービス精神を褒めずして、何が映画観(えいがみ)でありましょう。そういうものを下品だと言って退るやつはろくな映画を撮れないし、観られないのです。アホ扱いを気にしてるんだかモテたいんだか知らないけど、純愛なんて気取っているやつに誰が心動かされましょう。下品だってアホだってかまわない! ぼくたちはパンツが観たいんだ! ひかりたんのオナニーシーンで抜いたんだ!

 ああ、それにしたって度が過ぎる。言わなくていいことをたくさん言った気がする。
 
ところで、ぼくは昨晩銀座のカフェで一人、物思いにふけっていたんだ。どうしてポスト印象派の画家たちは、かように前衛的な作風を採用しつつも、我々の世界の一端を鮮やかに写実し得たのだろうって。あるいは彼らの研ぎ澄まされた感性は、たとえばこの窓外に見える梢をちらと目にしただけで、植物との対話を十全に果たし得たのかもしれない。
考えをまとめられそうだったその刹那に、飲み終えたコーヒーの氷がからんと音を立て、携帯電話が鳴った。バーのマスターが、いつもより開店が遅くなったことを詫びようと、律儀にも電話を掛けてくれたのだった。

 よし、バランスを取った。閑話休題。

 えー、あとはそうですね、役者陣が見事に園マジックにかかっているところです。技量以上とも思われる抜群の働きです。満島ひかりちゃんの表情の豊かさは、映画史上まれにも見ません。相手を蔑み、憎み、嫌う表情の冷たさの一方で、恋する乙女の無邪気さを見事に表現しており、映画館で観たときはただただ感動するばかりでした。コイケもまたいい顔をしています。安藤サクラは面白い顔です。あの人を引っ張ってきた園監督の慧眼は素晴らしい。ブスではないんです。でも、美人でもないんです。でも、時々美人に見えます。美しそうで美しくない、少し美しいのです。あの人がまた肉感的であり、板尾のちんこに股をこすりつけるシーンでは不覚にもぼくの股間が反応しました。

 渡部篤郎、渡辺真起子の良さもさりながら、忘れてならぬのが故・大口広司です。『奇妙なサーカス』で狂った父親を演じた彼の狂気に満ちた面構えが、馬鹿らしさを狂気に導いていたこと。「心から勃起しろ」というエコーのかかった声が、その狂気に彩られて強い響きを帯びていたこと。彼は格好いい役者さんでした。彼は『愛のむきだし』一般公開の一週間前に他界したのでした。彼をもう園映画で観られないというのは、悲しい限りです。

西島隆弘について語らねばなりませんが、彼は劇中ひかりちゃんと熱いチウをしているのであり、嫉妬の対象です。もう少し気を落ち着かせてからでないと、冷静に語れません。

 いい加減長くなった。読み返してみるとなんともまとまりを欠いた文章だ。こんなにまとまりのない文章は読んだことがない。でも感動をまとめるなんて、土台矛盾した話さ。続きは後編で。
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by karasmoker | 2010-05-18 00:13 | 邦画 | Comments(0)
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