『アウトレイジ』 北野武 2010

威力と魅力がいかんせん不発。
d0151584_23291188.jpg

 池袋東急。ワンスクリーン単発興業でかなり細々とやっている印象の映画館。
 北野作品は最近の三作を観ていません。評判があれだったりするので、別の映画を観ているとどうしても優先順位がいつまでも下なのです。北野作品でいちばん好きなのは『3-4×10月』で、映画界で高評価の『ソナチネ』『HANABI』に対する感度はかなり低いです。『あの夏、いちばん静かな海』なんかもそうなんですが、静かな北野映画って、一度「退屈だなあ」と感ずるともう残りの時間がひたすら退屈になるんです。いわゆるキタニストには評判が良くないかもしれないけれど、ぼくとしては『BROTHER』や『座頭市』が好きなのです。エンターテインメントに寄ってほしいのです。

 さて、『アウトレイジ』は『BROTHER』以来のヤクザたけし登場映画です。組織内のいざこざが激化していくお話です。ヤクザ映画一般について、ぼくはさほど詳しくありませんので、これがヤクザ映画としてどうなのかという比較談義はなかなかできないのですけれども、こういう映画では「台詞のドス」が快楽の決め手になってくると思います。

 脅し、威嚇の台詞が怖いと、そのヤクザ映画はきっと優れたものになると思います。観ているほうまでをうわあ怖いなあとびびらせてしまうものなら、観客を引き込めていると思うのです。ただその種の表現というのは何でもかんでも怒鳴ればいいというものでもなく、やっぱり細かい演出なり役者の技量なりが必要になる。

 小説でもそうなんです。多くの小説でも登場人物が罵声を飛ばしたりする場面がありますが、下手にやると言葉が空虚になる。響きが空回りする。たとえば小説の場合、「てめー何すんだこら」と書いたって、何の迫力も生まれない。特に日本語の場合、平仮名は優しい印象を与えるので、「こら」という表記は全然現実の響きをトレースできない。じゃあ片仮名で「コラ」と書けばいいかというとそう単純ではなく、地の文でいかに雰囲気や流れを固めるか、いかに言い回しに工夫を凝らすかが勝負になる。ちなみに、そういう用意も何もなく「てめー何すんだこら」と書いたのは『蛇にピアス』。それでいいのかよ、純文学ってのはよ。純文学こそ、それを許すなよ。

 愚痴に傾き掛けたところで話を戻すと、「台詞のドス」が出来不出来の指標となるヤクザ映画において、『アウトレイジ』はかなり微妙なラインでありました。役者の迫力、という部分で言えば、どうにも不気味さ、底知れなさが足りぬという思いでした。北野武の怖さはあるにせよ、他の役者、椎名桔平や杉本哲太などのドスが、どうにも不発な印象を受けたのであり、三浦友和に至ってはむしろどうしても彼のいい人っぽさが先に出てしまい、ああ、こいつは怖いぞ、何をしでかすかわからないぞ、という狂気が滲んでこなかったように見受けました。

とはいえ、「台詞のドス」に関しては、別に怖いことやびびらせることがすべてではありません。たとえ怖くなくても、「いい啖呵」を切れていれば、映画的な快楽が生まれうるのです。たとえば前回紹介した『片腕マシンガール』の八代みなせ、杉浦亜紗美、あるいは『愛のむきだし』の満島ひかり、もしくは『バトルロワイアル』における栗山千明など、最近の若手女優でも「いい啖呵」を切れる人は多いのです。ああいう啖呵を聞いた場合、たとえば内田裕也ならば「姉ちゃん、ロックじゃねえかシェキナベイベー」と賞賛することが予想されるのであり、では今回の『アウトレイジ』の啖呵はどうかというに、それほどロックな感じがしなかったのであります。雰囲気的には、今一歩の印象です。

 映画全体の演出としましては、饒舌でありながらも細かくカットを割っており、なおかつ互いにバストショットで台詞を交わす場面が非常に多く、前にも増して北野武は小津安二郎に近づきつつあるように思います。というか、ほとんど小津安二郎そのままと言ってもいいくらいの場面が散見されます。仮に笠智衆が存命でヤクザの大親分なんかをやっていたら、本当に小津作品に見えてくるくらいなのです。そうなると場面全体の熱量が醸成されることは難しく、役者の台詞にドスの負荷がかかってしまうのです。場面に熱量を生むためには、ある程度カットを割らず流れに任せた芝居が必要だと思うのです。でもこの映画では、カットを割って、よーいスタートでカチンコを鳴らし、直後罵声を放つ、という撮影法がおそらくは多用されている。これは難しいです。これでは台詞のドスを利かせるのはすごく難しいと思います。

 物語の流れで言うと、かなりベタベタというか、先の読める展開が随所に見られます。一人の男がぼったくりバーに連れて行かれ、金を出せと要求されます。彼は「事務所に行けば金がある」と店員を連れ出します。もうこの時点で、ああ、男はヤクザなのね、で、店員がびびらされるパターンなのね、とわかってしまいます。こういう部分には驚きが欲しいじゃないですか。ヤクザに見えない役者さんを選んではいるんですが、だからこそちょっとバレバレ過ぎて、ベタベタすぎる。

 他にも、ある一人の黒人がヤクザに絡め取られるくだりがあるんですが、あの「蛇」の場面はちょっといただけなかった。まるで数十年前に戻ったかのように古くさく、今にすればださいやり方。特に今回の加瀬亮の役どころを考えると、あれはまずい。加瀬亮に関しては、ああ、こいつだけは底知れねえ、という風合いを出せたし、出すべきだったのに、あの蛇のくだりはとても残念。やっつけにさえ見えました。黒人もねえ、拙い日本語で面白かったりするんですけど、どうももうひとつ活かし切れていないんです。ポリティカリーコレクトをあからさまに破った、最近の映画にしては過激な一言があるんですけど、ああいうのをもっともっと放り込んでよかったんじゃないですかね。ああいうのをたくさん放り込んだら、絶対この映画はもっと強くなっていたんです。

 暴力描写についてはどうかというと、ここは魅力的な、さすが北野バイオレンスという表現があって、まだまだ活けるぞという頼もしさを感じました。歯医者のくだりと國村準のくだりが出色で、あの辺のぞわぞわ感は貴重です。暴力描写には大きく分けて二つの醍醐味があります。一つには見せ物としての暴力描写。前回の『片腕マシンガール』もそうですが、ゾンビ、スプラッタなどアメリカ映画で大きく栄えました。もう一つは直接的な痛さ。ゼロ年代において韓国映画が筆頭となりました。2001年、キム・ギドクの『魚と寝る女』が印象深く、最近で言えば『チェイサー』のノミとカンナのくだり。本当に痛く、怖い描写。韓国映画で爆発したこの10年でしたが、北野バイオレンスは今でも日本の砦
となっているのがわかり、ここはとても頼もしいのでした。しかし、今回の映画についてはどうもお上品な場面も見受けられるのであり、少し不安でもあるのでした。

 総じて言うに、どうも活ききっていない要素が多い作品だとは思いました。すべての要素を活かすなんて土台無理な話ですが、ここも活かせるのに、ここを活かすならここはこうじゃなきゃいけないのに、と思わせられる部分が多々あったのでした。物語的にもよくわかりません。どうして北野武はああいう展開に巻き込まれたのか、どうにも必然性がない。北村の大親分がとち狂っちゃったようにしか思えなかった。ここはぼくの読解力不足かもしれません。誰か教えてください。後半はさながら『ゴッドファーザー』的な事態に陥っていくのですが、反面北野武の動きがしょぼしょぼーんな感じです。ああいうのがリアルで、美学なのかもしれないし、『グラントリノ』よろしく過去の自分を裏切って見せたかったのでしょうけれど、それにしても消化不良な感じです。

うーむ、うーん、うーむ。
[PR]
by karasmoker | 2010-06-22 23:32 | 邦画 | Comments(0)
←menu