『エル』 ルイス・ブニュエル 1952

束縛の正体
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最近はこの映画について語りたい! と思うものになかなか出会いませずして更新、沈滞。いろいろ観てはいるのです。サタジット・レイとかイングマル・ベルイマンとか観るようにしているのですが、そういう系について読みたひ! と思われる方は別のとこに行きなとりあえず。

 ルイス・ブニュエルの『エル』。レンタルが難しいようで思い切って購入。なぜ60年近く前のメキシコ映画を? というと、宇多丸さんのオールタイムベストになっているからです。何かあるのだろう、何があるのだろうと思いながら鑑賞。なんだか文章のリズムが変。まあいつものこと。

 主人公の男が女性に一目惚れして結婚に至るのですが、彼女を束縛するあまりに気が狂ってしまう、という話です。まあストーリーはそのように実に簡潔に述べられます。

 印象から言うと、どうして宇多丸さんがこれにそこまで惹かれるのか、ぼくにはよくわかりません。本当によくわからない。彼の中にこの主人公のような部分が色濃くあるのかもしれませんね。話が映画からそれるいつものパターンを続けるなら、オールタイムベストって、町山さんいわく「その人の人格表明」「自分はこの10本の映画でできています、と表明すること」らしくて、ぼくもそう思っていて、ゆえにどうして宇多丸さんがこれを選んだかぼくのわからないのも仕方のないことです。

 オールタイムベストは面白いです。ある程度映画を観ているなら自分なりにつくってみるといい。心理テストみたいになりますからね。選ぶ映画は映画の出来不出来とは関係ないほうがいい。どんなに不細工でくだらない映画でも、その映画になぜだか惹かれる、惹かれてやまない、というものこそオールタイムベストであって、みんなでいちばんを決めましょうなんてのよりよっぽど面白いです。たとえば『ゴッドファーザー』とか『2001年宇宙の旅』とか、なんでもいいですけど『七人の侍』とか、そういうのを選ぶんじゃなくて、誰からもわかってもらえないだろうけど俺はこれが好き、というのが面白い。その類でいうと、ぼくの場合は窪塚洋介主演の『凶気の桜』が好きなんです。映画としてははっきり言ってたいしたことない。変なところもいっぱいあるし、不細工な面もたくさんある。だからこの映画をぼろくそに言われても別にいいし、たぶんその指摘の多くは正しい。でも、ぼくは『凶気の桜』が好きなんです。あの窪塚の愚かさ、若気の至りの無様さが格好いいし、表現としての不細工さもいい。そういう作品を見つけることは、エイガミの醍醐味の一つです。誰にもわかってもらえないだろうな、という部分を映画で表明すればいいのです。

 映画からそれすぎ。
 80分そこそこの映画ですが、まあ60年前の映画というのもあって、今の感性に照らすと退屈は退屈です。ただこの映画の美点は、真っ向からまっとうに「呪い」を描いているということです。愛とは呪いなのだ、というのをこれほど正直に描いた作品は決して多くないでしょう。

 何かを愛することは、あるいは何かに惹かれてやまぬということは、その対象に呪われることです。その相手を思うと胸が焦がれる、多幸感に満ちる。しかし同時にその相手を思うがゆえに苦しみが募る。出会わなければ味わわずに済んだ苦杯を頭から被る。束縛、というのはその最たる表現形態です。

 ガールズトークなどでは「恋愛」の関連ワードで「束縛」が気軽に用いられ、「あたいの元カレってば束縛がチョー激しくてぇ」的にわいのわいの語られますが、「束縛」しようとする人間はその実、その相手にひどく呪われているわけです。有り体に言えば、束縛しようとする行為こそが束縛されている証、自縄自縛の最中にあるわけです。

 主人公の男は自分の縄でゆっくりと己の首を絞めていきます。愛している相手が他の男と話しているだけでもう大変。誘惑されたんじゃないか、妻はその誘惑に乗せられたんじゃないか、いや、妻のほうが誘惑したんじゃないか。妄念が吹き荒れ、首の縄はより強く彼を締め付けていくのです。
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束縛するということは、信用が足りないのです。自分の愛する相手もまた自分を愛してくれるだろう、という信用。彼氏のケータイを見る見ない、といえばこれまたグータン的トピックですが、ケータイを観るということは信用していないということ。信用していれば監視の要はありません。「彼氏(彼女)のケータイを見る見ない」的問題設定はすなわち、「相手を信頼しているかいないか」を問うているわけです。と、まずは言えます。

 ですが、本当にそうなのでしょうか。

「相手を信用しているかいないか」という問いはこと恋愛において、「自分は信用に足る存在なのかどうか」という自問と表裏一体です。自分は相手を満足させている、と自分自身を信用できるのならば、相手の信用を疑う必要はない。相手を疑うということは、自分自身の卑小さを思う、ということです。

「相手のことが常に疑わしくてならない」という心理は、「自分はまったく相手を満足させられていない」という自己評価の現れなのです。この状態をポジティブに裏返すと、「あなたが嬉しいと私も嬉しい」という良好な関係が見いだせます。

 映画において、主人公は商売に失敗します。これによって彼は歯止めが利かなくなる。「相手を満足させる自分」の像が崩れてしまうのです。そのとき、束縛はいよいよ呪いとなる。卑小な自分を支えてくれる相手を、もはやつなぎ止めるほかない。もしどこかに行かれたら自分を支えてくれるものは何もないのだ、と思い込むのです。上述の通り、相手を疑い続けることは常に自分を卑小に感じること。それは精神的疲労が大きい。であれば、相手を束縛してしまえばいい。奔放な振る舞いを禁じ、疑いの余地をなくせばいい。相手にとっての世界が自分で満たされれば、卑小な自分の像を大きなものとして錯覚できる。 

この妄念は化膿します。主人公はついに、相手を殺そうとします。これは90年代エヴァ劇場版で、シンジがアスカの首を絞めたのとほぼ完璧に符合します。シンジはなぜアスカの首を絞めたのか。シンジにとって世界で唯一の他者となったアスカ。そのアスカに拒絶されたとき、自分は一切のよりどころが無くなる。ならば、他者自体を滅してしまえばいい。他者を滅すれば自分を思い悩むこともなくなる。『エル』の主人公にとっての他者は妻でした。その妻を殺すことで、長く苦しみ続けた「自分問題」そのものから解放されようとしたのです。
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 映画のラスト、彼は解放されます。妻を殺すことによってではなく、自分の崩壊をもって。解放された彼の世界に他者はいません。当然の結果です。だからこそ彼は闇に向かって歩いていくのです。光のない場所、他者も自分も区別がつかずゆえに自分のいない場所。自分のいない場所に意思はありません。ただ、おぼつかぬ足取りの彷徨があるばかりなのです。
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こんなに長く書くつもりじゃなかった。心理学とかそういうのぜんぜん知らないくせに知ったかぶりを炸裂させた。でもまあこれもまたひとつの解釈。そういう解釈をあれこれすることができたことで、それなりに『エル』という映画を味わえたのならそれでよし。『エル』について大学のレポートを書かなくちゃって思った人をだませればそれでよし。
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by karasmoker | 2010-09-05 04:41 | 洋画 | Comments(0)
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