『トータル・リコール』 ポール・ヴァーホーヴェン 1990

テーマとガキ度の食い合わせに疑問。
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 久々にシュワルツェネッガーの映画を観ました。というか、思い返すにぼくは彼の作品って、『ターミネーター』シリーズと『プレデター』しか観ていないです。映画は人より観ているけれど、彼に対しては人並み程度の興味しかないのですね。スタローンとともに80~90年代のハリウッドスターアイコンとなりましたが、断然スタローンのほうが格好いいし。シュワルツェネッガーがポップになった背景にはやっぱり、彼のあの外見が「強いアメリカ」の象徴になり得たからでしょう。名前もすごく強そうですもんね。どんなやつかまったく知らなくても、「シュワルツェネッガーに言いつけてやる」「シュワルツェネッガーさんなめとったらあかんど」と言われたらびびりますもんね。「シュワちゃん」という呼称は個人的には嫌いですので、しつこくシュワルツェネッガーと呼びます。いや、それだと長いので、英語圏の愛称だという「シュワルツィ」を用いましょう。

 さて、『トータル・リコール』ですが、ガキ度満点の映画でした。どんがらがっしゃんな映画でした。

 お好みの記憶を売りますよ、実際に旅行に行ったりしなくても行ったような気分を味わえますよ、というか、「実際に旅行に行った」という記憶そのものをお売りするのですから実際に行ったも同然なのです、これはなんと画期的でしょうか、みたいな企業があって、シュワルツィがそのサービスを体験しに行きます。
「いろいろなコースを選べますよ」
「ふむ、このスパイコースってのは何だね」
 とシュワルツィは興味を示し、その記憶を植え付けてもらうことになります。そこから大波乱の物語が幕を開けるのです。
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 ガキ度満点でとにかく映画的な面白みをふんだんに詰め込み、どんぱちもおぱーいも織り交ぜての大活劇、これは楽しめるはずなのですが、意外と乗れませんでした。なぜなのかと考えてみると、わりと理由ははっきりしています。

 やっぱり、観ている間こちらは、「この冒険活劇も結局は嘘の記憶じゃないかしらん」と思い続けてしまうのです。映画内において現実と見えているものも、実はすべて嘘っぱちでした、みたいになってしまうのじゃないかしらんと気にかかり、いくらシュワルツィに危険が迫ろうと、気分的にどうも白熱しなかったのです。『追憶売ります』が原作だということくらいしか予備知識はなかったのですが、「これ、夢オチだよ」もしくは「これも夢かもしれないね、るらら」という立場で観てしまうため、なんか楽しめない。

 いや、というかですね、あのですね、撮り方からしてちょっと気になったんです。これはあくまでもシュワルツィのいる世界であって、観客は彼とともに旅をするわけです。にもかかわらずですね、結構彼のいない場面もたくさんあるわけです。悪者が密談している場面とか。そうなると、おや、「これは彼の認識世界なのか何なのか」と見方がよくわからなくなるのです。ううむ、うまい言い方ができない。

「この世界は結局、シュワルツィの夢かもしれないよ」というのは、ひいては観客自身にも向けられる問いなのですけれども、だとすると観客はシュワルツィに気持ちを入れて、彼と同じ目線で映画世界を旅するわけです。簡単に言えば、「今ぼくたちのいるこの世界は実在しておらず、結局は主観的な認識があってのみ成立しているんじゃないか」という、「人間原理」ならぬ「個人原理」的な・・・。あ、めんどくさい。

 要するにですね、何が言いたいかというとですね、この物語は絶対に、片時たりともシュワルツィを離れてはいけない、ということなんです。たとえばぼくは今、自分の目に見える範囲でしか世界を捉えられません。当たり前です。それが個人の目線であり、主観であり、認識の限度です。ところが映画というものはおしなべて、複数の場所の複数の人間の動きを捉えるものです。これはぼくたちの世界の見方とまるで異なるわけです。映画とはそのような形式を持って、映画内の世界をつくっていく。映画内に別個の現実を打ち立てるものと言えます。この映画的作法は、「ぼくたちの認識するこの世界は実は嘘ではないか」という捉え方と相容れません。

 あ、わかったぞ。うまい言い方ができるぞ。
 つまりですね、「この世界は夢なのでは・・」という感覚がなぜ生じるかと言えば、そもそもぼくたちが自分という個体を通じてしか世界を捉えられないからです。どう言いつのったところでどのみち主観でしか捉え得ないからなのです。人は主観しか持たない、どこまで突き詰めようとこの主観から逃れることはできない、だからこそ、「この世界は夢だ」という発想を持つのです。対して、複数の人間の生き様を追えばそれはいわば神の視点であり、客観的にこの世界が存在する、ということになります。一般に映画で用いられる複数視点というのは、ぼくたちの認識方法と真逆なのです。その手法では、「この世界は夢」と言えなくなるのです。

 この映画はぼくたちの認識と真逆の、映画的に普通の複数視点を採用してしまっています。シュワルツィが機械に身をゆだねてもがき、違う現実を生き始める序盤のシーン。これをあろうことか他人の視点から描いてしまっている。これは「この世界の夢っぽさ」を描くうえで、絶対やってはならないことだと思うんです。あくまでもシュワルツィの目覚めの目線からやらないといけないはずです。

 と、長くなりましたが以上のような理由で、あまり乗れなかったのだと思います。余計なことをせずに言わずに、「火星の人々を救う話」にしてくれればさぞ楽しめたと思います。この映画は損をしている気がします。中身はカーペンターの『エスケープ』二作のようなガキ度なんですよ。そこで面白ければそれでいいんです。長々述べたような小面倒くさい話とは食い合わせが悪いんですよ。
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 いちいち褒める必要もないくらいに、どこもかしこも観客を楽しませようというサービス精神に充ち満ちています。だからアクション映画としては大変に素晴らしい。舞台が火星っていうのがまず楽しい。火星の魅力って、やっぱりあの赤い風景なんですね。あの絶望的なまでの赤さの中でいろいろやってくれれば、そりゃ楽しいです。SF小説で火星を舞台にしたものは多いけど、やっぱり映画でひとつの風景として示されると、その壮大さにはうきうきするわけです。
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 奇形の人々が出てきますが、そこにはリアルっぽさがあるんです。いわゆる宇宙人的なものなんか要らなくて、奇形の人々が何の違和感もなくそこにいる風景が、火星という場所の近さ、遠さをうまく表しています。その描写もいいんです。さすがヴァーホーヴェン先生です。
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 ですが、シュワルツィはやっぱりどうしてもターミネーターのイメージがあるので、明らかに強そうで、彼に太刀打ちできるのはT-1000かプレデターしかいないような気がして、スリルはありませんでした。人間どもがシュワルツィに勝てる気がしないのです。なんだかんだでシュワルツィは勝つな、とどうしても思ってしまい、ここの点はウィリスやスタローン、カート・ラッセルあるいはジャッキー・チェンのほうに魅力があるわけです。要は、シュワルツィは頼もしすぎるのです。何しろあのT-1000やプレデターを打ち負かしたわけですから。
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 ヴァーホーヴェン演出のフルスロットルというところでは完璧。しかし他の要素の部分でどうにも乗れなかった。そういう映画でした。『ターミネーター』『ブレードランナー』『ロボコップ』といったカルト作品と並ばないのは、やはり余計な要素のせいなのではないでしょうか。あ、シャロン様はやっぱ綺麗っす。
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by karasmoker | 2010-09-26 06:35 | 洋画 | Comments(0)
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