『SAW 3D』 ケヴィン・グルタート 2010

いろいろ言ったけど、さようならジグソウ! ありがとうソウシリーズ!
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 邦題は『ソウ ザ・ファイナル3D』となっていますが、原題にはファイナルという単語はありません。なぜだか日本の宣伝部の人々は、「ファイナル」をつけたがりますね。『ランボー 最後の戦場』『ロッキー ザ・ファイナル』も、原題は単に『Rambo』『Rocky Balboa』なんです。「ファイナルとつければ客が増えるだろう」と考えているあたりがアホらしく、またそれで実際に「ファイナルだから観に行こう」と思うやつがいるならそいつはそいつでアホです。アホばかりです。

 一応ソウシリーズもこの7作目をもって完結、という運びになったらしいです。それでよいと思います。6作目がどうしようもなくて、監督も引き続き6作目のケヴィン・グルタートだということで、何の期待も抱かずに観に行きましたシネマサンシャイン。

シリーズ初の3Dということでしたが、3D効果はほぼ皆無と申し上げましょう。これなら普通の映像で見せてくれよと思います。立体効果うんぬんなど語るべくもなく、ただ単に暗くて見づらいという、本末転倒の極みみたいな状態で、いちばん立体効果があったのは何よりも字幕の文字でした。3Dは眼鏡が邪魔だし暗くなってしまうんだから、その分の立体効果が得られなきゃいけないはずなんです。金だって余計に取っているわけだから。なのにこれでは何の意味もないです。単に映画館が400円余計に儲けただけです。逆に言うと、映画館が儲けを出したければとりあえず全部「3D」と銘打てばいいことになります。「これくらい飛び出していないと3D映画とは認められない」という基準はないわけで、なんでもかんでも3D映画だと言ってよいことになります。でも、これってたぶんこの映画に限らないし、ぼくの行った映画館に限らないと思うんです。だから中には「3Dなのにちっとも飛び出さないぞ、あれでプラス料金を取るなんておかしいぞ!」というクレームをつける人も結構な数、いると思います。その辺はどう処理しているんでしょうね。

 さて、本編の話ですが、まったく期待していなかったので、くさすつもりはありません。むしろ、まったく期待していなかった身としては楽しめました。まったくお勧めはしませんが。

 考えてみるに、ソウシリーズがスプラッター的インフレをするのは、興行上ある程度やむを得ないんですね。やっぱりいちげんさんもある程度楽しめるものにするためには、シリーズ通しての設定的な面白さよりも、ビジュアル的な刺激に依っていくしかないんです。5だけ観た人、6だけ観た人は、1や2のことを知らない。そういう人のことも考えて映画を作るとなれば、一応味の濃いおかずを出して、ご機嫌を伺うことになるんだと思います。今回の7(と呼びましょう)を観ながら考えたのはそういうことです。はっきりと、もうメインの話とは一切関係のない殺人シーンが出てくるんです。公衆の面前で殺人が起こる、という場面で、今までのソウにはなかったものです。驚くことにこれが何の物語的意味も持っておらず、これにまつわる警察の捜査シーンすら出てこないんです。

 その殺人場面は物語的意味を一切持っていないんです。が、そのシーンを序盤にぶちこんだ映画的意味ならば、ないとは言えません。というのも、あのシーン自体が、作り手の気持ちを象徴しているんじゃないか? と思えたからです。

 あの「ウィンドウ・マーダーショー」とも呼ぶべき場面では、野次馬たちがわらわらと集い、写メールを撮ったりしています。あれはつまり、「殺人ショーを喜ぶ観客」の戯画なのです。あのショー自体がいわばこのソウという映画であって、そこに居合わせた人々は観客なのです。

 しかし、あの場面は物語的に何一つ活かされません。物語に活かされないということ、それが何を意味するのかといえばひとえに、「ソウの魅力は本来、スプラッターじゃないんだよ」ということです。物語的に活かされないあの場面がなぜ序盤で示されたかと言えば、いちげんさんへの視覚的おかずであり、同時に、ソウにスプラッター要素を求めるような、ぼくからすれば野暮天としか思えぬ連中への餌なのです。あの場面をもって、シリーズに造詣の深くない人々をあやしておくわけです。

 あの場面を観てぼくは、作り手たちの、「馬鹿馬鹿しいと知りつつも観客の目線を慮り、スプラッター的インフレに走るしかなかった哀しみ」を感知したのです。それくらいに馬鹿馬鹿しい場面なのです。

 スプラッター的なものは本作でも山ほど出てきます。回を追うごとに馬鹿馬鹿しさを増しているわけですが、本作はそれでもなんとか、有終の美を飾ろうと頑張っていたと思います。少なくとも4、5、6よりは頑張っていました。というのも、直感的な痛みを演出しようと、目、口、歯などの部分を虐めまくっていたからです。肉体がばらばらになる、みたいなアホ用のスプラッターもありましたが、直感的に伝わってくる局所的攻撃を積極的に行った点、ぼくは作り手の良心を感じました。まとめるとこういうことです。
 本作の痛み表現は、血しぶき飛び散りどんな馬鹿にもわかる、アトラクション的なものの一方で、『魚と寝る女』『アウトレイジ』などに観られたような「地味だけどすごく痛そう」なものにも踏み入ろうとしていたのです。ぼくは観ながら、「よしよし、これならばよかろう、よしよし」と幾度か頷いておりました(なにさまっ)。

 筋立てとしては、3、4、6に近いです。一人の男が拘束状態にある人々に次々出会い、その人々を救う救わないで云々するという形式です。これはわかりやすくつくりやすく、もはや過去に散々やっているので安易であり、その説得力、切迫感もちっともなくなっていますが、はっきり言って、もうこれより他にやりようがないんでしょう。でも、なんなら4からの悪役であるホフマン刑事をあの位置に持ってきてもよかったんじゃないか、という気がしないでもありません。結局今回の主人公ゲーマーは、過去のシリーズと一切関係のない人ですからね。主人公ゲーマーに、過去の人物を起用しておけばよかったんじゃないかと思います。ジグソウの妻でもいいし。あれはちょっと安易、というか、端的に言えば、「完結作ならでは」にまったくなっていないのです。残念。

 ホフマンの使い方がだから残念なんです。一応4からのいちばんの功労者ではあるんです。だけど彼は、自分で手を下しちゃう。これはジグソウ精神にもとるんです。ジグソウ、トビン・ベルがなぜ魅力的かと言えば、「自分の手を汚さない殺人者」だからなんです。レクター博士の怖さとも違う、とてもクールな狂人なんです。ホフマンは今回も暴れちゃって、こうなるとその辺の映画と何も変わらない。トビン・ベルの格好良さがない。

 で、トビン・ベルですが、今回はもうワンシーンしか出てきません。回想でも出てこないに等しいです。彼が出てくると「待ってました!」的にうきうきしましたが、何もなかった。やっぱりぼくはソウを観るとき、彼を待っているのです。彼あってのソウシリーズなのです。ぼくが1よりも2を推すのは彼の魅力が大きい。2で彼が、刑事のエリックに淡々と語る場面。あるいは3で、わめくアマンダを諭す場面。ああいうのがあってのソウなのです。今回は、本当にワンシーンしか出てこない。是非彼には、別の映画に出てほしいですね。ゾンビ監督が『ハロウィン3』を取ったら、是非ブギーマンの師匠か何かで出て欲しいですね。何かとコラボしてほしいところです。『レクターVSジグソウ』みたいなのも観たいです。

 アホな妄言はさておきますが、まあ、ラストのオチはわかっていたようなもんです。冒頭と中盤で出てきますから、ああ、はいはい、この人がこうなのね、というのはもうわかりきっていたようなもんです。そこには何の説得力もないのですが、もういいです。一応締めくくったということで、もういいです。ジグソウの妻がすごく雑な扱いになっていたのは残念ですが。

 なんだかんだでソウシリーズもこれで終わり。あまあまの目線で観ました。エンドクレジットを見つめながら、「いろいろ文句も垂れたけど、今までありがとう。いろいろ言ったけど、ぼくは君が好きだったんだ」という優しい気持ちになって、劇場を後にしました。この映画を観て優しい気持ちってのも変ですが、いいんです。まったくお勧めしませんが、ぼくはこの映画が好きです。ありがとう、そしてさようなら、ソウシリーズ。
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by karasmoker | 2010-11-08 01:05 | 洋画 | Comments(0)
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