『天使のはらわた 赤い教室』 曽根中生 1979

ぼくにロマンポルノの情緒は解せんなと、そのことに気づく。内容のレビウはできていないよ。
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AVについては饒舌なるぼくですけれども、それじゃあ日活ロマンポルノ、ピンク映画はどうかといえば、こちらはまったくさっぱり。映画について喋りなさい、あるいはAVについて喋りなさい、と言われれば、何時間でも一人喋りを続ける自信がありますけれども、その中間とも言えるジャンルについては、何も語れません。ほとんど初めて観たに等しいのが今回です。『天使のはらわた』というのは劇画原作のひとつのシリーズになっているらしく、4作目の『赤い淫画』と2作目の『赤い教室』を観てみました。そういえばこの頃は山口百恵のテレビドラマ『赤いシリーズ』が人気の時勢ですから、タイトルはそれにあやかろうとしていたのでしょう。

 映画全般、もしくは何かを楽しむこと全般についてそうだと思うんですけど、「粋」ってのがあると思うんです。「これがわかるなんて旦那、粋だねえ」という「粋」。この粋を解す解さぬというのが大事なんですね。言ってしまえばたとえばぼくが『東京残酷警察』とかそういう映画、アホ要素の多分にあるスプラッターなどを褒めるとき、「こいつぁ粋な表現だな」と感じているわけで、そういう映画を見下したり馬鹿扱いしたりするやつに対しては「けっ、無粋な連中だぜ。おとといきやがれ」と思うわけです。その作品、対象が持っている「粋なところ」に対して、正しく構えられるかどうか。それが観る側の乗れる/乗れないを決めるのでしょう。歌舞伎とか能とか、要するになんかそういうのもそういうことなんです(なんてざっくり)。

 日活ロマンポルノがとても好きだっていう人は、AVなんか観ると、無粋だと思うんじゃないでしょうかね。
「AVなんて観てらんねえぜ。なんつうの、あれには恥じらいっつうのかな。奥ゆかしさっつうのかな。そういうのがないんだよね。そりゃセックスの場面を映したらこっちはどきっとするよ。そりゃ女優の裸を観てえとは思うよ。だけどよ、なんつうの、ただセックスの場面映したって面白くもなんともねえんだよ。やっぱりよ、なんつうの、ドラマっつうの、そこでの男と女のやりとりとかよ、女の背負ってる業とかよ、男のしみったれた欲望とかよ、そういうのがあってこその濡れ場なんだよな。それをAVみてえに適当にドラマ部分つくって、結局要は濡れ場だけが大事なんてのは、俺は嫌いだね、うん」
 的な。ロマンポルノに魅せられた人々が、今もピンク映画を支えているのでしょう。

 ぼく自身はロマンポルノ的な「粋」がまだよくわからないですね。どう楽しんでいいのかもうひとつわからない、というのはありました。いや、というよりも、日活ロマンポルノはどうも、言い訳くさいにおいがします。AVは堂々とAVですけれども、ロマンポルノはなんか、「映画」という権威に守られている感が否めません。
「またいやらしい映画を見に行くのね、この変態ッ。色魔の助平」
「きみきみ、人聞きが悪いよ。ぼくはね、スクリーンに映る肉体を通して、男女の関係における心の機微、精神の有り様、つまりは人間存在つてものをだね、あの暗闇の中でじつと考え込んでいるのだよ。であるからしてだね、その、きみの思うようなだね、卑猥で品性下劣な目線でだね、スクリーンを見つめたことは、一度だつてないのだよ」
 的な。エロ以外のドラマ部分をがっつり入れておくことで、「自分はエロを観ているのではない。あくまでも人間ドラマを観ているのだ」と野郎どもが自己弁護できたのでしょう。ただ、でも、その「ドラマ部分」は言うまでもなく、他のジャンルの映画で散々につくられ続けているわけで、そっちのほうが時間もバジェットもかけてじっくりつくりうるわけで、そうなると何をどう楽しんでいいのかなロマンポルノって、とぼくはよくわからなくなってしまいます。 

めちゃめちゃ期待してはいるんです。現代のピンク映画については。なぜならあの辺で傑作が生まれることが、AV女優が、とりわけ恵比寿マスカッツの彼女たちが、世間的に認められていくことにもなりますから。エロの絡みって、言ってみりゃカンフーアクションや時代劇における殺陣と同じなんです。物語を進める機能よりも、見せ場としての役割を担っている。だから物語の要所で使えば、クライマックスになる表現なんです。ところがどうも、この『天使のはらわた 赤い教室』のエロシーンは、「なんでそこに入れるの? そこは物語の要点ではないよ」という部分で結構がっつりエロかったりする。逆に、もっとそこはエロくていいのにな、意外とエロくないな、と拍子抜けするところもあって。

 うーん、こちとらは完璧なAV世代ですから、どうもあれですね。これを解せない、己の情緒のなさってものが、なんだか哀しくもありますね。ほら、物心ついたときからケータイがあった世代って、たぶんなかった時代のことを「不便」としか思えないと思うんです。ケータイがないがゆえのすれ違いってものを、リアルなものとして受け止められないと思うんです。好きな子の家に電話したら、家の人が出てきて気まずい、的なエピソードはこの先、ほぼゼロでしょう。そういう話をしたところできっと、「へえ、昔は何かと不便だったんだね」みたいに片付けられてしまうでしょう。でも、違うじゃん。その気まずさの中でしか味わえないドキドキってあったじゃん。ちゃんと取り次いでもらえるかどうかの不安とか、そもそも彼女が在宅なのか否かの不安とか、うまく話せるかどうかとか、そういう成分がちょっとずつ入ってできるドキドキってのがあるわけじゃん。で、このドキドキは、平成生まれにはわからないでしょう。それと同じで、AV世代のぼくには、このロマンポルノがわからないんです。

 DVDで観ている時点で違う、と言われそうです。そうなんですねえ。これはきっと、それこそエロに免疫のない中高生かそれくらいの頃に年をごまかして映画館に潜入し、「ばれたらつまみだされるんじゃないか」と心臓をばくばく言わせながら観たりしてこその面白さがあるんでしょう。そういう体験のパッケージはすっごく羨ましくもある。そういう意味では、映画館っていう場所はやっぱり大事です。なんでもDVDで済ませるのも考え物なのですね。

 話がふらふらして内容に入れませんでしたが、要は、ぼくにゃあロマンポルノをしっかり楽しむための、記憶や教養や視点が欠如しているな、と強く感じましたの巻き、なんです。かつての映画少年が、映画館でロマンポルノを観たときの感動。それを代替するようなものは、今後何か仮想できるのでしょうかね。できるとしたら、ぼくは全面的に、応援したいんですけどね。
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by karasmoker | 2010-11-23 01:51 | 邦画 | Comments(0)
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