『サタデー・ナイト・フィーバー』 ジョン・バダム 1977

この映画にとって大事なのは、実は土曜日じゃない。
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 「有名すぎて逆に観ていなかった」シリーズ。
 ノリノリでイケイケな感じの映画なのかしらん、と思いきやちょいと違った風合いの映画でしたね。観た直後よりも、ちょっと経ってからのほうが何か来るもんがあります。そういう意味では正しき青春映画と言えるかもしれませんね。青春が青春であるとわかるのは、それが終わった後でしょうからね。女子高生の性的価値がわかるのは、高校を卒業した後ですからね(言うな言うなそんなこと)。

 ちょいと迂回した方面から話しますが、こと映画の物語的善し悪しというのは、その作品内に登場した人物、出来事の数々が、綺麗に活かされているか否かで分かれます。わかりやすいところでいえば、伏線というものがありますね。伏線がしっかり回収されているときに、ぼくたちはその脚本をよくできていると感じます(ではなぜ伏線が活かされると快感が生まれるのか、についてはまた別の機会に)。あるいは、登場人物たちが話を進める上での単なる駒ではなく、単におかず的に出ているのではなく、きちっと立体感をもって描かれているときに、これまたよくできていると感じます。そうした足腰のうえで、たとえば三幕構成がしっかり形作られていたなら、その脚本はよくできた脚本、と一応は言えるわけです。

 しかし、これは実はぼくたちの人生のつくりとは大きく違います。なぜなら、ぼくたちの人生には伏線もないし、三幕構成もないからです。もちろんぼくたちそれぞれの現状は過去の言動の数々の結果であって、その意味で言えば物語的なものとも言えるし、振り返れば伏線だって見えるけれど、何かにつけて「行き当たりばったり」なものなのです。自分の過去を自伝的に振り返ればそれはいくらでも伏線は見つかるでしょう。物語的に編めるでしょう。でも、それはあくまでもひとつの文脈に絞って抽出しているに過ぎない。ぼくたちの人生は、ぼくも含めてほとんどの人間の人生はおそらく、映画的な物語ではない。

 最近古谷実の『ヒミズ』『シガテラ』『わにとかげぎす』などを読んで、つくづくそう感じました。あれらは伏線の利いたひとつの物語というわけでは決してない。投げ出されたエピソードも数多い。でも、ぼくたちの人生もまたそういうものです。ぼくたちの人生には、投げ出されたエピソードのほうが、むしろ多いはずです(数あるうちのひとつの道しか選べないのだから、考えてみれば当たり前のことです)。

 さて、だいぶ迂回しました。『サタデーナイトフィーバー』でした。この映画には物語的に放られたエピソード、放り出された人物、実りのないエピソードが数多く出てきます。失業中の父親は結局どうなるでもない、兄は家に出戻りまた出て行ってどうなったか知れない、トラボルタの友人や彼に惚れた女もどうなったか知れない、車で突っ込み暴徒化するも落とし前はつけられない、トラボルタが今後ダンスを踊るのかどうかもわからない。
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 物語的な完結度合いを捉えると、とてもゆるゆるです。でも、トラボルタの浮薄さは自分の過去あるいは現在とも重なり、不思議と人生を重ねてしまうのです。たとえば彼は部屋にアル・パチーノやロッキー、ブルース・リーのポスターを貼り、彼らへの憧れを露わにします。でも、そのラインナップがどうも、ガキっぽいでしょう? 強いこだわりや崇敬ではなくて、漠然としているんです。彼にとっての格好いい男像は。明確に誰かに絞れないんです。この辺の、まだ自分の趣味嗜好がゆるゆるな感じというのは、若さであるなあと思うんです。
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 あとはバイトの昇給のくだりですね。一ドル二ドルというものすんごい安い幅の昇給だけど、バイト先で給料が上がったと言って嬉しがるトラボルタ。なんか、すごくみみっちい話なんですよ。でもその分、ああ、おまえにとってはすごい嬉しいことなんだね、というのが伝わるんです。今時の高校生でもあんな風には喜ばないですよ、親父に嬉々として報告して。でも、それがなんかこう、ああ、若いなあ、と微笑ましくなるのです。
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 好きな女性との場面では、『タクシードライバー』のトラヴィスと同じような展開がありますね。物語的にもちょっと似ている節があるように思います。私はハイソなのよ、あなたとは違うのよ、と言われながらも粋がって強がって、なんとか自分を大きく見せようとする場面もにやにやします。で、このシーンを観ると思うんですけど、実はあの女もそんなにはハイソな世界の住人ではないわけですよ、喋っていることとかね。本当にハイソな人間って、まあ普段接することは皆無ですけれども、たぶん自分の仕事がいかにすごいかなんて絶対話さないでしょう。それをやれ歌手の誰々を知っているやなんやと言いたがるところが、おまえもなんやかんやでこっち側だね、という感じがして、距離感が縮む。あの喫茶店では、二人して背伸びしているんです。そこは『タクシードライバー』と違う風合いがあったのでした。
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 肝心のダンスシーンについてはどうなのだおまえ、と言われるでしょうが、実はこの映画って、ダンスシーンはそれほど重要じゃないと思います。ぼくにとってこの映画を語るときに必要なのは、ぜんぜんそこじゃない。むしろ大事なのはその後の落差です。所詮は土曜日の夜の一時の狂乱。これがとても人生的な物語である以上、大事なのは他の曜日でしょう。他の曜日をどう生きているかってことです。最後のダンスシーンでの彼の行動を見ればそれは明白です。狂乱を見つめるうちに、ここじゃねえってことが見えてきたわけです。ここじゃない場所、それがどこなのかよくわからないけれども、とりあえず人生を進めるしかない。それは「ありもしない、ここではないどこか」を求めることとは違う。数々の経験を通して、ここではないどこかへの卒業を促されているんです。この映画はとても真面目なお話です。
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 これがずっとダンスにアゲアゲで俺たちの夜を叫んだりしていたら、なんてどうでもいい話だ、と思っていたでしょうけど、最後の展開がその印象を覆しました。正直、観ているうちはやや退屈であったりもしたのですけれど、観終えた後で、いろいろと考えてしまいます。その意味でこれは「まさしき青春映画」と申し上げてよろしかろうと思います。
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by karasmoker | 2011-06-04 23:11 | 洋画 | Comments(0)
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