『ブラック・スワン』 ダーレン・アロノフスキー 2010

ぼくにはわからなかった。どうしても『レスラー』と比べてしまった。
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 旧作ばかりと油断しているとたまーに最新映画を取り上げるのが当ブログ。
マスター曰く「女が間違って観に行って大ヒットしている」らしく、評判もすこぶる上々のようです。こんなにも悪い評判を聞かない作品って、ここ数年だと『グラントリノ』くらいじゃないでしょうか。キネ旬筋からも秘宝筋からも絶賛のご様子です。

 でも、だからこそ観るのがちょっとあれでね。観る前の嗅覚ってもんがあって、しばらく行く気がしなかったのよ。でね、いざ行ったらね、うーん、うーん。別に期待値をぐんと上げていたわけでもなんでも、ないんですけどねえ。

 ぼくはちょいちょい、世間の大絶賛反応と逆のことを感じてしまうときがありますね、こと映画に関して。『キックアス』にしても、絶賛している人たちと一緒に乗れなかった。
『サマーウォーズ』も乗れなかった。自分の中では確固たる理由があるんですけど、それはここでも書いている通りなんですけど、絶賛派の人たちはそこにはまったく触れない様子だから、見方がぜんぜん違っちゃっているわけでしょう。

 ま、そんなやつの言うことですから、話半分に読んでくださいな。たぶんぼくが間違っているんです。世間の皆さんのような目利きにはぼくはまだまだなれないのです。

 さて、いつになくひやひやしながら語り始める『ブラック・スワン』。監督はダーレン・アロノフスキーですが、彼の前作『レスラー』はぼくのゼロ年代ベスト10のひとつです。DVDも買ったし、劇場出不精のぼくとありながら二回観に行きました。その分の怖さ、というのもあったんですね。『レスラー』よりも感じ入ることはないだろうなと思って、それがなかなか腰の上がらぬ理由でもありました。期待値を上げずにいたと上述しましたが、やっぱり『レスラー』は前作としてどうしてもひとつの基準になってしまった。

 宇多丸さんが『ブラック・スワン』を評したとき、「『レスラー』の語り口で、それ以前の作品のテーマを語りなおした」という言い方をしていて、なるほどまさにその通りと膝を打ちました。狂っていくような話だけれど、抑制して描くべきところはしっかりと抑えられており、テンポも心地よかったのです。ナタリー・ポートマンの名演、ということについても、なんら異論はございません。

 ただ、ですね。ここはネットその他をちらりと観る限りだあれも突っ込んでいないんですけど、劇映画って、基本的には三人称なんですよね。本作もそうです。この手の話を三人称表現として描かれたとき、ぼくはどうしても戸惑いを感じてしまうんです。

 一人称、三人称というのはもっぱら小説で話題にされる視点形式です。
「私は自分とそっくりな女性を見た」というのは一人称。
「ニナ(主人公)は自分とそっくりな女性を見た」というのが三人称。
ほとんどの映画は三人称です。というよりも、たとえば『ブレアウィッチ・プロジェクト』のようなスタイルを採らない限りは、三人称にならざるを得ません。主人公が視点を担えど、あくまでもカメラは彼や彼女を客観的に写すことになる。一人称の場合は語り手と読者(鑑賞者)が限りなく近くその視点を共有することができますが、三人称ではどうしても、読者(鑑賞者)―語り手―主人公(視点人物)という構造を余儀なくされます。

 そうするとどうなるか。
 こと「幻覚」なる設定を施した場合に、観ている側は主人公とともに恐れることができないんです。主人公は幻覚を見ている、ということを、観ている我々は知っている、という差異がここに生じてしまうのです。裏を返せば、我々にも見えているものは、彼女の幻覚と呼ぶには決して適切ではなかろうとも言えるわけです。
 本作中で最もわかりやすいのは、リリーという女性と夜な夜な遊びに繰り出すくだりです。ナタリー・ポートマン扮する主人公ニナは、一緒にダンスを踊ったりタクシーの中で笑ったりあげくにはラブチュッチュにいたってしまうのですが、このことを翌朝に問いただすと、リリーはまるで知らないと言いだし、あれれ、あれは幻覚だったの、夢なの、何なのよ、ということになるわけです。
 これね、ニナとリリーが実際一緒にいるのを、観客は観ているんですよ。これでは「ニナの幻覚」とは呼びがたいんですよ、リリーが幽霊なら別ですけどね。

『ファイトクラブ』では、主人公エドワード・ノートンの「もうひとつの人格」としてブラッド・ピットが出てくるけれど、あれはもう別人格の具現したものとして開き直っていましたよね。黒沢清の『ドッペルゲンガー』でもそうでした。本作にもニナのドッペルゲンガーみたいなのが出てくるけど、あれは何なの? ニナの幻覚なの? でもニナが目にした幻覚だとすると、ぼくたち観客が観られるのはおかしくない? ニナの視神経を、こちらは共有できていないからさ。

さて、それが一点。
 と、もうひとつは、いわゆるひとつの「狂気」ってやつです。
 ニナはだんだんに狂っていくわけですけど、ぼくね、彼女にね、どうしても入り込めなかったんです。うん、これが大きいんですね。上述の人称問題と相まっての部分なんですけれど。

 ニナはどうして追い詰められているかと言えば要するに、次の大きな舞台の主役に抜擢されて、プレッシャーを感じて、周囲の嫌がらせだのセクハラ的な何だの母親との関係だのいろいろあって、うわああああ、ということなんでしょうけれど、あのー、なんというか、「ああ、おまえはそりゃ狂っちゃうよね」という風に感じられなかったんです。

 狂うってやっぱり、極限的な状況にあればこそだろうと思っていて、『八甲田山』における山岳部隊の彼がそりゃふんどし一丁で暴れ出すのもわかるし、『SAW』のゴードン医師が己の足首を糸鋸で切っちゃうのもわかる。もちろんそうじゃない狂気、ゆっくりと狂っていくっていうのも人間の姿で、街中で大声挙げてわめいているおっさんなんかを観ると、ああ、長い歳月のうちにゆっくりと狂ってああなっていったんだろうなあ、と思う。
 
 でも、この話はそんなに長い期間の話じゃないだろうし、狂うほどの極限とも思えない。だって彼女は別にそんなに追い詰められる必要はないじゃないですか。そりゃあ大きな舞台の主役だし、ぼくなんか味わったことのないようなプレッシャーなんだろうけど、あれに失敗したからって彼女の人生が終わるわけでもないんですよ。序盤で一度、主役が別の人に決まっただろうなって思い、「おめでとう」って言って立ち去ろうとする場面でも、強がる余裕が見て取れるじゃないですか。この舞台が駄目だったらもうおまえ退団しろとかそういうことでもないじゃないですか。それにね、幼い頃から頑張ってもバレリーナになれなかったやつだってきっといるわけでしょう。彼女はメインを張れずに来たと言っても、一応その立派な劇団にきちんと在籍できているわけでしょう。これね、ここがね、『レスラー』と大きく違うところ、だからこそ入り込めないところなんですよ。

『レスラー』のランディは、もうどん詰まりなんです。プロレスをやめたら、年老いた彼にはもうなーんにもないんですよ。長年のステロイド使用の副作用で心臓もいかれているし、家族ともうまくいかないし、もう本当に、ただ老いるだけ。過去の栄光を心の支えにするだけ。だからこそ、ものすんごく熱かったんです。

 ニナはそうじゃないですもん。この舞台で失敗したら終わりってわけじゃないでしょう。いや、バレエの世界はおまえが思っている以上に厳しいのだ、一度のチャンスを逃せば終わりなのだというかもしれないけど、彼女は「白鳥なら君を選ぶよ」と言われているくらい実力者なのだし、座長に見込まれているのだし、「これでしくじったら終わり」感がぜんぜんないんです。「おまえは処女だな、エロくないぞ」と言われたとしても、この先女を磨いてから「前とは違うんですよ、あたし」と言ってもう一段上がることもできるでしょう。ウィノナおばさんとは違うでしょう。だから、狂気に至るまでの苗床が、しっかりしていない感じを受けてしまうんです。おまえは狂っちゃうよね、狂わないとやってらんないよね、と思えない。むしろ、狂いたいのはウィノナおばさんのほうじゃないですか。彼女のほうがよほど悲惨でしょう。主人公を追い込んでおきながら、彼女よりも悲惨な目に遭っている人間を出すのは、どうなんでしょうね。『レスラー』に出てきたおじいさんとランディの関係ともまた違うし。

 監督も実はそこはちょっとわかっているんじゃないですかね。そうじゃなければ、ドラッグではちゃめちゃになるという、それこそ物語的にも即効作用のある薬なんて、使わなかったんじゃないですかね。あれをやると確かに狂いを演出できる。幻覚を見せるには、それがいちばん早いですからね。でも、それに頼るってことは、監督自身が「手っ取り早い手段」を使わざるを得なかったってことじゃないですかね。

『レスラー』を観る前、ぼくはプロレスにまったく何の感興も得られなかったんですが、あれを観てからプロレスラーの見方がちょっと、いやずいぶん変わったんですよ。それほどの熱さのある作品でした。『ブラック・スワン』を観ても、おおう、バレエのあの優雅な舞台の裏側ではこんなことがあるのか、というのは感じられなかったです。勝手に狂ったナタリーさん、という感じが強いです。

 うん、書いているといろいろと出てきてしまいますね。ニナがどうも、ああ、こいつは本当に心底バレエが好きなんだなあ、というのもなかったんです。バレエ自体に呪われているなあ、と思えなかったんです。バレエの喜びをもっと描くと、その喜びの分だけバレエ自体から呪われている彼女というのが出てきて、狂気の芯も強くなったと思うんですが、どうなのでしょうかねえ。 

 いやあ、いろいろと言ってしまった。どうしよう。みんなが褒めているからきっとみんなが正しいんですね。ぼくがぜんぜんわかっていないんですね。わからせてくれる方がいたら、ありがたいですね。

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by karasmoker | 2011-06-08 23:47 | 洋画 | Comments(2)
Commented by ミノワ at 2011-06-09 10:02 x
なんかねーたぶんこの映画って
ダーレン・アロノフスキー入門編
みたいなかんじなんじゃないかなって思うんですよね。
これからダーレン・アロノフスキーの映画を見ようという人が
最初に見たら、この監督の作風に入りやすいですよという。
そんなかんじしませんか?
だからたぶんヒットしたんだと思うんですよ
わかりやすいから。
わかりやすくて、特に何も深い意味とか無いっていう
Commented by karasmoker at 2011-06-09 23:12
コメントありがとうございます。日本ではこと「ヒット作」の部類において、宮崎駿やスピルバーグのようなわかりやすいブランド以外、映画監督で作品を選ぶという文化がおそらくありません。ゆえに観ている観客のおそらく90%はアロノフスキーの名前も過去作も知らないでしょう。監督への興味は希薄な国です。日本で「ヒット」させるには、これはもういかに女子供を動員するかにかかっていて、本作の場合は『アメリ』に近いものを感じます。バレエっていうハイソな感じ、オシャレ風味、ちょいグロ、「いい感じの映画を観にいってるあたし」感、「これ誘っても文句は出まい」感の程よい提供。これを観た観客には是非『レスラー』を味わってもらいたいですが、そうはならないんだろうなと思って、悲哀。
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