『ブラック・スワン』をめぐる幻覚問題。―主観の狂気と俯瞰の正気―

めぐっているのは、ぼく一人みたいだ。ぼく一人が馬鹿ってことでいいさ。 
 絶賛の声に包まれている『ブラック・スワン』にぴんと来ず、先日『スキャナー・ダークリー』を観てあらためて感じたことがあるため、今回は至極真面目に一種の「映画表現」なるものについて考えてみたいと思います。お堅い内容になりそうなので、いつものような腑抜けた調子とは違いますゆえ、そういう方面の期待には答えられません。陰毛を束ねて見知らぬ人の墓に供え、和尚にどつかれ糞を漏らしているようないつものぼくとは違うのです(どんなやつだ)。

 映画という手法一般について喋り出すともう嫌になるほど長くなるため、こと映画の幻覚表現について論考したいと思います。論考だって、けっ、格好つけやがってさ(誰が突っ込んでいるのだろう)。

 あらためて一から書くのはしんどいため、つい先ほどにツイッターで一人呟いた内容を再録したいと思います。

 『ブラックスワン』を観て、最近『スキャナー・ダークリー』を観て思ったのは、「幻覚を見ている」という表現は、徹底して一人称的であるべきだろう、ということだ。だが、『ブラック・スワン』の好評ぶりを見聞きするにつけ、このようなぼくの捉え方は一般的ではないらしいと、あらためて思い知る。

誤解する向きもあるが、一人称と三人称一元視点はまったく異なるものだ。一人称の語り手はあくまでも登場人物。三人称一元視点はその登場人物の内面に同期しつつも、俯瞰を保つ。映画はその99%が三人称一元、もしくは三人称多元でつくられている。

 三人称視点のキーワードは「俯瞰」。ゆえに本来、幻覚表現とは折り合いが悪い。当人が見ている幻覚を当人を俯瞰して表現することは、矛盾している。幻覚を見るということは、俯瞰とは真逆の、異常なまでの主観性にまみれたものだからだ。なぜか先の映画の作り手はこの点をあまり意識しないようだ。

幻覚表現を用いて狂気を表そうとするなら、幻覚はあくまでも徹底して一人称視点のみに特化し、俯瞰の視点からは完璧に排除するべきだ。そうすることで、当の人物が幻覚を見ているということがより浮き彫りにされるはずであり、正気である我々との差異が明確に表現される。

そして、その表現を用いるべき理由はもうひとつある。そのほうが、我々自身もまた幻覚を見ているのではないか、という不安を惹起しうるからだ。我々は誰一人として死を逃れ得ないのと同様に、主観を逃れることもできない。だからこそ、登場人物を徹底して一人称の幻覚に追い込むことは、我々の認識それ自体を揺らすうえで、大いなる意味がある。

 と、ここまでがツイッターに書いたことです。なにしろフォロワーが少ないので、誰も何も言うてくれないのであります。さて、ここまでの記述で、ぼくが一人うんうん唸っている問題の要点は語られております。

 確かに、俯瞰で描くほうがより多様な表現を生み出すことが可能であり、ヴィジュアル効果を求める観客の需要も高かろうと思います。でも、それでは狂気が十分ではない。むしろ狂気を薄めてしまいさえするのではないか、というのが、今回ぼくが提起する問題なのであります。

下の画像をご覧頂きましょう。

d0151584_2303546.jpg

d0151584_2304448.jpg

 これはフィリップ・K・ディック原作、リチャード・リンクレイター監督の『スキャナー・ダークリー』冒頭のシーンです。この大きさだとちょっとわかりにくいかもしれませんが、薬物摂取で虫が湧く幻覚にまみれた男の様子を映しているわけです。

 小さな虫が大量に見えるなどというのは、薬物による幻覚体験として、よく見聞きするところであります。観客に対しても生理的な不快感を与える、わかりやすいビジョンであるとまずは言えます。

 しかし、このように描いてしまうと、この虫が彼の見ている幻覚なのかどうか、明瞭ではありません。いやむしろ、実際に虫がたくさんいるようにさえ思えてしまうことでしょう。こうなりますと、「彼が幻覚を見ている」という事実性は、薄められてしまうことになります。ビジョンとしては面白い。でも狂気が高まらない、というのはこういうことです。これをしてしまうと、観客と、幻覚を見ている彼の見ているものが、同じということになってしまう。狂気の中で一人身もだえる彼の恐怖、が演出されません。

 この場合はどうするべきか、ぼくが考えまするに、「部屋はあくまでも普通で虫など一匹もいない」という俯瞰ショットを撮り、「虫だらけの周囲、自分の体」というのを主観カットで撮るべきだと思うのです。こうすると、彼が孤独に抱える狂気が、鮮明なものになります。ああ、ぼくたちには普通に見えているこの部屋が、彼にはこう映ってしまっているんだ、とわかるわけです。『スキャナー・ダークリー』はぼくの思うような方法を採っている場面もありますが、これを冒頭に持ってきたところに、ぼくの認識との差異を感じたわけです。

『ブラック・スワン』においても同様の傾向が見て取れます。確かにあの映画でも、俯瞰と主観の切り分け、は行われています。たとえばある場面で、ポートマン目線で見ると指から生々しく出血している。でも次のショットでは彼女を引いた画で撮り、それが幻覚であると観客にもわからせる。主観にこだわって狂気を描く、という場面は随所にありました。ただ、それ以上に、「俯瞰からの主観的狂気」という語義矛盾とも言うべき表現が多用されます。手元にDVDがないので実際の場面をあまり紹介できませんが、youtubeのトレーラーからキャプチャーしたワンカット。
d0151584_23108.jpg

 これは主人公ニナ(ポートマン)が自分と同じ顔の女性に遭遇する場面です。今日ぼくが提示した問題をなんとも象徴的に表しているカットです。

 これでは、この女性がまるで実在するかのように見えてしまうのです。「ニナが見た、実在するかどうかわからないもの」にならないのです。彼女の後ろ姿から捉えているのがその証拠です。実在するかどうかの不分明さを描くならば、徹底して彼女の主観から撮るべきだったと思うのです。それとも、この黒い女性は幽霊か何かのような、超自然的存在なのでしょうか。それならそれでいいですけど、だとすると、余計にニナの抱える狂気は薄れてしまいますね。狂気は彼女一人に押し込められたほうが、濃度を高めるはずなのに。

 主観の狂気と俯瞰の正気を徹底して切り分けろ、と提唱する理由はここまででひとつです。まとめると、「狂気、幻覚は登場人物の目線のみに収めたほうが彼の孤独さ、異常さがはっきりとする。一人称で押し通すことが難しい映画においては、よりその点を徹底すべきだ。そうしないと狂気が内なるものとしてこもらず、濃度が高まらないからだ」ということです。

 さて、ここまでが一点。ぼくが長々と主張しているわけは、もうひとつあります。

 ツイッターで書きかけたところですが、ぼくたち自身の主観問題、認識の問題です。

 わかりきっていることですが、ぼくたちは一生、主観を逃れられません。ぼくたちはぼくたちの目を通すこと無しに、何かを見ることはできないのです。ぼくたちは死ぬまで、自分の視神経に忠誠を誓い、その信号を絶対的なものとして受け入れざるを得ないのです。
この世界は夢なのではないか、とは陳腐な問いですが、誰もこれに明確な答えを与えることはできません。誰もが主観世界にしか生きられないからです。同じ言い方が幻覚についても言えます。この世界は、ぼくたちが見ている幻覚なのではないか。この問いもまた、答えようがありません。

 さて、ここに主観と俯瞰の問題が絡みます。
 幻覚の症状を呈した人間は、その幻覚を実在だと思い込む。周りがいくら存在しないと言っても、当人にははっきりと見えている、ように思える。これを「幻覚」と片付けるのもまた危うい。たとえば今、あなたの前にあるパソコンやキーボードが、本当にそこにあると言えるのでしょうか。別の誰かに尋ねてもいいけれど、その人の発言が幻聴ではない証拠は、どこにあるのでしょうか。主観から逃れられない以上、この問いには答えが出せません。
 
 しかし、映画は登場人物を俯瞰します。その人物を外側から映す。主観と俯瞰のふたつをうまく使い分けるのが映画です。でも、だからこそうまく使い分けるべきでしょう。主観では狂気、俯瞰では正気。ビジョンを明確に分けることで、登場人物に感情移入している観客であればあるほど、「自分の見ている世界も主観的な幻覚にまみれているのではないか」と不安に落とし込むことができるのです。つまり、観客自身が信仰している主観に対して、切り込みを入れることができる。観客を狂気に連れて行くには、そのほうがいいように思うのです。
 
 主観と俯瞰が同期してしまえば、観客の認識は一切揺れません。映画を見終えて劇場を出た後も、周囲の物事を安心して捉えられる。自分の見ているものと、周りの見ているものは同じであると、素直に信仰し続けられる。これでは、せっかく狂気を描いた甲斐が、半分くらい無くなってしまうと思うのです。主観の狂気と俯瞰の正気を徹底して切り分けることで、観客は自分の目線、認識の足場が揺るがされる。それでこそ狂気を描いた映画の醍醐味ってもんじゃないでしょうか。ポートマン同様に自分も狂う、ことが、できないのです。

 さて、一応はここまでです。そろそろ疲れました。

 狂気を描き出せている、あるいは観客の認識を揺らしてくれる映画をいくつか紹介してみましょう。日本映画ばかりですが。

『オカルト』 白石晃士 2008
d0151584_2311856.jpg

 数日前『グロテスク』でやたら訪問者が増えたのですが、その前作に当たるのがこれ。登場人物に移入して観るタイプではありませんが、ぼくたちの他人に対する認識、世界に対する認識を確かに揺るがします。自分の捉える世界を、他人が同様に捉えてくれているとは限らない。UFOを見たことがあるなんて人は、ここに出てくる彼の世界に、首を少し突っ込んでいるのかもしれない。ほぼ全編がハンディカムで撮影され、主観的な演出も確かです。できれば、深い内容を極力知らぬうちにDVDを観てほしいものです。店舗には置いているかわかりませんが、ディスカスでは☆マークですから簡単に借りられるでしょう。

『紀子の食卓』 園子温 2005
d0151584_2313258.jpg

 三人称のビジョンで正しく狂気は描きうる、と確かにわからせてくれる作品です。多元視点で描きつつも、人称問題に抵触せずに狂気を映像化しています。わかりやすいのは、家族が幸福な食卓を囲む場面。ぼくたちの主観的認識を越えて、俯瞰的なビジョンでその状況の狂気を描き出す。幻覚などという他人事的狂気でなく、ぼくたちの生活それ自体に潜みうる狂気をしっかりと映像にしています。

『羅生門』 黒澤明 1950
d0151584_2314323.jpg

 言わずと知れた名作ですが、今日のテーマに深く関わっています。今日繰り返し使ったワード「俯瞰」、それ自体をも突き崩す構成となっているため、認識とは別の「記憶」まで踏み入ります。そして他人の話を無邪気に信じるということすら、許さなくなってしまいます。

長くなりました。ま、みんながいいって言っているんだから、ぼくの抱える問題意識なんて独りよがりなもんです。あなたがいい映画だって思ったんだから、それでいいんです。『ブラック・スワン』を観て、「狂気が凄い」だの「幻覚の描きようが凄い」だの言っている人たちは、当然この辺のぼくの問題なんて、簡単に解決しているのでしょう。とても頭がいい人たちばかりで、羨ましい限りです(断じて皮肉ではありませんよ)。
[PR]
by karasmoker | 2011-06-12 23:06 | Comments(2)
Commented by だだ at 2011-06-13 23:15 x
初めまして。ブログの形だけでなく内容も面白いですね。ブラックスワンはもちろんそこを超え出る部分はあるけれど、私もそうですがジャンル映画という領域内で享受されてるということが強いと感じます。その場合はあんまりゆさぶりを自分たちの日常の方にまでかけられたくないんじゃないかなと思ったりします。
Commented by karasmoker at 2011-06-14 00:20
 コメントありがとうございます。
 なるほど。
 ぼくは映画を観るときに、どうしても揺さぶりを期待してしまう人間のようです、とりわけ「狂気」の絡む場合は。
 揺さぶられないからこそ、程よい刺激物として、世間の皆々様に広く受け入れられている、ということなのでしょうかね。
 
←menu