『さや侍』 松本人志 2011

松本人志が初めて見せたもの
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ぼくは映画好きを自称しながらも大変な出不精であり、最新映画を追いかける趣味もほとんどありません。というよりも、最新の映画を観る前に古い映画で観ておくべきものがわんさかあるぞ、という状態なのですね。だからDVD派になるんです。もちろん、最新のものをしっかり追いかけていくことはその作品の同時代性を感じるうえでは大事なのでしょうけれども、なにしろ出不精がひどいもんで。むつまじくきゃぴつくカップルは目の毒になるし。

 というわけで、新宿ピカデリーという場所には初めて行ったのです。池袋界隈に暮らし続けて数年になるのにピカデリー初体験というので、いかにぼくがそういうあれかというのがわかりましょう。ゴールデン街に行くときに通るんですけどね、ピカデリーは。でも、観たい映画がピカデリーでやっているときは大体別のところでもやっていたりして、ずっと通わずに来たんです。

 ピカデリーってのはあれですな。なんかわちゃわちゃしていますな。ラウンジみたいな場所で、大学生とかなんかそんな感じのやつらがわらわらしていました。どうも好もしい場所ではないというのが第一印象でしたな。ライバルであろうバルト9はもっと落ち着いた感じなんですけどね。しかも劇場への出入り口はただひとつで、エスカレータで6階とか7階とかまで行列組んで行かなくちゃいけない。ああいうのは嫌ですねえ。なんていうかさ、都会に閉じ込められている感が強くなるんですねえ。文芸座とか早稲田松竹みたいにさ、入ったらすぐ劇場ですってんじゃないんだもんね。いろんなストレス要素がありましたね。

新文芸座はなんかこう、まあ名画座は大体そうでしょうけど、「ぼくは俺は私は、映画を観に来たのだ」という確固たる意思を共有できている感じがするんです、みんなで。作品によるでしょうけど、きゃぴきゃぴカップルもほとんどいないし、いても品のよい老夫婦だったりするしね。そもそも若い女が少なくて一人で来ているおっさんがほとんどですから、非常に落ち着いていてよろしい。そんな中で一人座る若い女はこれまたいい具合に映るからそれもまたよろしい。かたやシネコン、特に今回行ったピカデリーっつうのはあのラウンジ的ざわざわが目の毒耳の毒。ほいでなんかプラスチックのお盆的な変な容器にポップコーンとかコーヒーとか入れてエスカレータ上がるあの感じね。けっ、おしゃれっぽくしちゃってさ! ぼくは新文芸座で一本目と二本目のつなぎのときにチップスターを喰ってやるんだ畜生。で、六列目くらいで「近いなー」とか言ってんの。けっ、ぜんぜん近くねえや馬鹿野郎。後ろにたまっていやがれってんだ!

 いろいろとカウンセリングが必要になってきた己を自覚しつつ、そろそろ映画のことを話さないとね、はいそうですね。『さや侍』です。

前回の『しんぼる』ではことによるとオールタイムワーストなんじゃないかと思わされたのですが、今回の『さや侍』。はい、ぼくは嫌いじゃないです。いろいろと語る中で、説明したいと思います。

 概要はと言えば、侍が殿の息子である若君を笑わせようと苦闘する話です。侍は無断で脱藩した罪で捕縛されるのですが、彼には「三十日の業」という処分が下されます。三十日のうちに、母の死で笑うことのなくなった若君を笑わせよ。成功すれば無罪放免、失敗すれば切腹。と、大枠はこんなところです。予告編を観てもらうのが早いってことに気づきました。

 
 主演は『働くおっさん』シリーズの野見さんです。リアル「変なおじさん」です。映画的な収まりが思いのほか悪くありません。宇多丸さんもマスターもその点に苦言を呈していました。彼はもっと異物として際だってもいいんじゃないかってことですね。ぼくはそこは反対意見です。と言いますのも、この映画は一応時代劇という体裁を取ってはいるものの、実際はまったく時代劇としてはゆるゆるです。時代劇の皮を被っているだけで、そこで織りなされる出来事や人々の会話どれを取っても、まるで時代劇っぽくないのです。

 最初のりょう、それからローリー、腹筋善之介のくだりはその表明ですね。あの二つのシーンで、現実的な時代劇路線はまったくやる気がないよ、というのが宣言されます。だからね、このうえさらに野見さんがぶっ飛ぶと、もう映画のトーンが引き裂かれちゃうんですよ。土台リアリティがないところでさらに野見さんが変になったら、このお話は粉々なんです。彼は引いていて構いません。この理由は後の文章と関連します。

 彼は劇中ほとんど喋らないのですが、代わりに娘のたえ(熊田聖亜)が饒舌です。このこの演技をどう観るかってことですね。これね、ライトノベルを読むような見方が必要なんですよ。ラノベってその多くが、駄目主人公のもとに元気な女の子がやってきて振り回す、みたいな形式を取っているんですけど、そこにはリアルさよりも傍若無人な活発さが要るんです。で、この映画のトーン全体を通したときには、彼女はああいう風に振る舞うべきだった。変なリアリティは度外視で、とにかく駄目主人公野見さんを強引に引っ張っていく暴力性が必要だった。最初ね、予告編の台詞でもあるんですけど、彼女の台詞は明らかに浮いている。でも、ぼくはかなり早い段階でコードを調節しました。ああ、このトーンで行くのね、ラノベっぽく観りゃいいのねって。「この男、天高く飛んでみせまする!」という口上に対しては、「おっ、元気いっぱいだ。いいぞぉ」と思って観ればいいのです。

 お気づきの通りかもしれませんが、今回は相当甘く捉えているんです。『ブラック・スワン』評で見せたしつこさに比べるとはっきりしているでしょう。ぼくは今回、結構褒めの調子でいきますよ。

『ブラック・スワン』をけなして『さや侍』を褒めるなんて、なんだこいつ、エイガミとしてどうなんだ、読むのはやめだ、うんこしてくる、となられるのは結構ですけど、違うんですよ。『ブラック・スワン』はあの『レスラー』を撮ったアロノフスキーですよ。『レスラー』に萌え、燃えたぼくとしては辛口になる。アロノフスキーって人はすげえなって思うから。でも、どうでしょう、あの『しんぼる』を撮った松本人志ですよ。『しんぼる』に比べればよくやったという話です。宇多丸さんもマスターも、松本人志にはぜひ才気走った奇才ぶりを発揮してほしいとお考えのようですが、あの『しんぼる』方面に走られるのに比べればぜんぜんいい。松本人志が自分なりに普通の映画を覚えようとしている感じがする。『大日本人』や『しんぼる』のときのような、「俺の才能を観よ!」というにおいが本作からはしない。そういう攻撃性がない。攻撃性がないから駄目だっていう人は、『しんぼる』を肯定するんですかね。攻撃性はあるけどあんなに防御力のない映画を撮られるのはごめんです。ぼくの中で、『しんぼる』でハードルがぐーっと下がったんです。あれを観たとき、「次の作品も似たような感じだったらもう松本人志はあれなのかな」と感じていた。でも、今回はなんとか形にしようとした。それでいいんです。

 松本人志は好きだけど今回のは……という人も結構いるみたいですけどね、同じ松本好きから言わせてもらえば、今回こそ彼を擁護すべきときだって気がするんです。「映画ってものを壊してやろうかな」などと言っていた『大日本人』の頃とは違う。今回は、彼なりに映画を、物語をつくるぞ、どうすれば楽しんでもらえるんだろうって観客のほうを観ようとしている感じがするんです。それは悪いことではないでしょう? ティーチ・インを行ったりもしているし、物語自体がそういう話です。どうすれば若君=観客を笑わせられるのかなって悩んだんです。彼の変容を見守ろうではないですか。「天才・松本人志の苦悩」なんてもんじゃぜんぜんないんですって。松本は周りのスタッフに甘やかされて…というのはよく言われるところで、ぼくも『しんぼる』で本当にそれを感じた。でもそれで言うなら、今回は「甘やかしていい」(なにさまっ!)。賞賛しているんじゃないんです。今回に関しては甘やかしていいのです(褒めてんだか何なんだか)。

 白状しますけど、ぼくはあの風車のシーンでうるりと来たのです。笑わせようとして馬鹿馬鹿しいことに懸命になるっていうのは、どうあれ胸を打つのです。ここでも『大日本人』からの成長を見ます。あの映画では「自分はめっちゃ頑張ってんのに誰も評価してくれへんねんで。悩んでるで俺」って感じだったけど、今回は「笑わせたいねん。へたくそで無様かもしれんけど、なんとか笑わせたいねん」ってところまで来たんです。

 宇多丸さんは「笑わせてるんじゃなくて、ほだされてるだけじゃないの?」と疑義を呈していましたが、「笑わせる」ってのはね、おかしなことや、それこそレベルの高いなんちゃらをやることだけじゃないんです。ほだしていくことも大事です。なんでこいつはこんなにも馬鹿らしいのだろう。なんだかおかしなやつだな。でも、本人は懸命に頑張っているんだろうな。馬鹿なやつだなあ、本当に、と相手の気持ちを徐々に溶かしていくことだって大切だと思うんです。本作は前二作と違い、「これおもろいやろ。えっ、このおもろさわからへんの?」的な部分がなかった。野見さんを通して、「不細工ではあるけれどもなんとか楽しませたい。楽しめるようなものにしたい」っていうのを感じた。

 だからね、そろそろ終えますけど、ちょっと『シベ超』に近い印象を受けるんです。あれもフェアに見たらダメダメな映画です。でも、水野晴郎は水野晴郎なりに映画愛をこめていて、だからこそ一部で強く愛されているわけです。『さや侍』は松本が「俺様の笑いの才能」っていう刀で人を斬るのをやめた、初めての作品のように思える。それまで刀の道で生きてきた侍が、「これで駄目だったら見限られる」との覚悟でもって、今までとは違う領域に足を踏み入れようとしているんです。映画的にどうだっていうことを言えと言われればいくらでも言える。それこそ『シベ超』をけなせと言われればいくらでもできる。でも、そこは今のぼくには、とりあえずどうでもいいや。

 この作品は、そういう目で観るべきなのです。松本人志が見せる謙虚さ。彼は「今まで見たことのないものを見せる」ことにこだわりますが、それはつまり、彼が初めて見せた謙虚さです。この変容を見守ってこそ、松本好きじゃないですかね。だから逆に言うなら、彼に何の思い入れもないよ、という人があしざまに言うのにも反論はしません。思い入れがなければつまらなく感じる人も多かろうと思いますし、ぜんぜん知らない監督のものならぼくもあしざまに言うでしょう。でも、今回はそのトーンは封印。松本人志にとっての大きな一歩として、寛容に受け止めたいと思います。
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by karasmoker | 2011-06-22 22:48 | 邦画 | Comments(0)
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