『フィクサー』 トニー・ギルロイ 2007

 処世せずにいられるか? という大人への問い。
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 原題『Michael Clayton』
 ジョージ・クルーニーという人は「わっかりやすいおっとこ前ダンディ」ですね。わかりやすく画になるし、時代が時代ならば今以上の映画スターになっていたんじゃないかとも思います。背広の似合う男前俳優でアンケートを採ったら、一位じゃないでしょうか。いかにも「仕事ができる男」の役が似合う人ですね、恰幅もいいし、ぼくには到底たどり着けぬ境地であります。
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 さて、『フィクサー』はそんなクルーニーを愛でるに格好の映画ということになるでしょう。そんなに刺激的なことが多い内容ではないのですけれども、観終えた後にはその潔さ、簡潔さに痺れる作品です。ラストのぱしっと終わる感じでポイントが上がりました。
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 一世を風靡した三谷幸喜脚本ドラマ『古畑任三郎』もまたクルーニーとは別種のダンディ、田村正和が大活躍したわけですが、あのドラマの良さというのはやはり、「いい具合の収まり」なのです。犯行が冒頭で描かれ、古畑が犯人と接触し、謎が解かれる。この定型ぶりは一話完結型連ドラにとって大きな強みでした。一話完結型連続ものの代名詞と言えばたとえば数々のヒーローものであって、もしくは『水戸黄門』などの時代劇ものだったりするわけですが、同じような構造の話を毎週人々が観たがる理由はひとえに、終盤のカタルシスにあるわけです。子供にとってはヒーローが大暴れして必殺技を繰り出し、難敵をやっつけるあの瞬間。水戸黄門で言えば紋所からの悪者の平伏。

『古畑任三郎』が持っていたのは、大立ち回りを一切拒絶したスマートさです。ここが他の刑事ものとの大きな違いでした。銃が出てくることはないし、「逃げたぞ! 追え!」的な展開もないし(江口洋介の回はその意味でとても異質でした)、犯人が崖に追い詰められてよよよと泣き出すこともない。古畑はスマートに犯人を追い詰め、犯人は犯人で「そこまで知れちゃあもう負けだね」と潔く終焉を迎えた。中学生のときに『古畑』にはまったぼくは、この冷静な駆け引きの虜になったわけです。

 さて、なぜ延々と映画を離れ『古畑』の話をしているのかと言えば、この映画のラストもまたそれに近しい、クルーニーのスマートな結末があったからです。結末はいいとしてどんな話なのだということを先に語るべきだと気づくいつものパターン。パトゥーン。

 クルーニーは弁護士なのですが、一方で「もみ消し屋」(=フィクサー)としての腕前も高く評価されていました。そんな彼の勤める弁護士事務所は、ある大企業の訴訟問題を案件として抱えていました。その企業がつくった農薬は人体に悪影響を及ぼすものなんじゃないのか、たくさんの人々が被害を受けたぞ、という案件でした。
 この訴訟を当初担当していたのはクルーニーではなく、トム・ウィルキンソン演ずる別の弁護士。彼らは同じ事務所の仲間同士です。あるとき、このウィルキンソンが精神的にアレになってしまい、これでは訴訟問題に支障を来すことになります。一体どうなっているのだ、ということでクルーニーが動き出すことになりました。そしていざウィルキンソンに出会ってみると、事態は意外な方向へと動き始めるのでした。
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 話が動き出せばあとはどういう展開になっていくのか大体のところはわかるんですが、要は大企業の悪事を告発するぞ、という内容です。当然、向こうはそんな動きをおいそれと許すわけにもいかず、裏でごちょごちょ動きだし、クルーニーらは危険な目にも巻き込まれていくわけです。
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 設定の妙味として、クルーニーはもみ消しが得意な弁護士で、立ち位置としても大手企業を弁護する側なんですね。ウィルキンソンにしてもそうなんです。しかもクルーニーは私生活で金銭難を抱えていて、雇い主や依頼主に楯突いてもいいことは何もない。でも、とある出来事をきっかけに、それでもやらなくちゃ、と思うことになります。
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 邦題は『フィクサー』となっていまして、字幕では「もみ消し屋」という意味合いで訳されているんですけれど、この映画ではむしろクルーニーはその仕事を放棄するんですね。もみ消されてたまるかよ、と奔走するわけです。

 この種の正義譚というのは、単純な勧善懲悪ものとは違うカタルシスをもたらすというか、もっと自分のサイズに近づけて観られる、もっと深い部分に切り込んできますね。勧善懲悪のメッセージというのは、言ってみればいちばん楽なんです。子供向けヒーローものが勧善懲悪になるのは、そこで発されるメッセージが単純で子供にもわかりやすいからです。いいもんが勝ち、悪者が負ける。自分の持つ倫理をなんら刺激されずに済む。

 でも、それだけで社会が回るわけがない。わかりやすい悪者は警察に掴まるとしても、そうでないやつらはうまく立ち回っている。そして哀しいことに、ぼくたちは往々にして、悪者の恩恵を受けたり、あるいは片棒を無意識に担いでいたりするわけです。

 ここに倫理観の分かれ目が存在します。ただの悪なら倒されて然るべき。しかし、その悪に自分もまた助けられているとしたならば、果たしてその悪を倒せるかどうか。
 この問いの本質はつまり、「処世」です。処世をうまくやるほうが生活や将来を考えれば合理的ですが、それじゃあ割り切れないと感じたとき、人はどう振る舞うのか。
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東電でも政治でもなんでもいいですけれど、ぼくたちが多く直面する問題って、この部分なんですね。東電が情報を隠しているとか、記者クラブがそれを助けているとか、政治家が本当のことを言わないとか、そういうことに対する怒りってのは、「この局面で、処世してんじゃねえよ」ってことだと思うんです。内部の人間だって、外側の人間の怒りはわかっているはずですよ。でも、内部の彼らは彼らで「俺にも生活があるんだ。仕方ないじゃないか」と思っている。ずっとそう思い続けているのは苦しいから、いつの間にか見て見ぬふりをしたりする。

 ただ、この種の怒りを相手に向ければ、ブーメランになる。「おまえはどうなんだ?」と跳ね返ってくる。
「おまえがもし彼らの側でこの状況に直面したら、処世せずにいられるか? 本音で語りうるか?」
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 この映画を観終えた後のカタルシスは、この問いに対して、ひとつの「ぼくたちが本当は取りたい態度」を表明しているからです。クルーニーが格好良くぱしっと決めているところがさらにポイントを足すわけです。同じような大企業訴訟ものの『エリン・ブロコビッチ』が大嫌いなぼくとしては、このテーマはこのようにこそ語られるべきだ、と思いました。
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by karasmoker | 2011-09-05 21:00 | 洋画 | Comments(0)
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