『鬼畜』 野村芳太郎 1978

歯車がずれたら、誰だって彼らになりうる。
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 時折ニウスで流れてくる、子供の虐待事件などを目にして思うことは、「一体その親はどういう環境でその日までを生き、どのような文脈でそこに至ったのだろう」という疑問です。ニウスではいかにも残酷な、それこそ「鬼畜」としか呼びようのないような形で親の虐待を取り上げるし、多くの場合、その通りなのかもしれない。ただ、その背景には何があって、その親はどういう生き方をしたのかというのは、いつも考えてしまいます。

 加害者であるところの親を鬼畜とみなし、最低の外道として片付けるのは簡単ですが、そこでぼくたちはひとつの「切断」を行っている。すなわち、自分たちとはまったくもって異質な存在としての犯人像を思い描きがちなのです。少なくとも、ニウスの短い文面で取りざたされる限りは、詳しい背景に踏み入ることができない。

 ただ、そこでぼくはいつも考えます。自分がそうならない保証がどこにあるのだろう、というように考えるのです。
 ぼくたちがぼくたちとして一応の平穏な生を保てるのは、いくつかの幸福な偶然の結果に過ぎない。もしもひとつ歯車が違ったら、これまでに歩んだ軌道が一度でもずれていたら、彼らが堕ちた外道を進んでいたかもしれない。ぼくはそう考えるのです。
「いや、そんなことはない。自分はそんなひどい事件を起こすわけがない」という人は、今現在置かれている状況の幸運に気づいていない。どんなきっかけで人は堕ちてしまうのかわかりません。あるいは、今が墜落への最中かもしれないとさえ言えるわけです。

 さて、『鬼畜』というのはいわばそういうお話です。松本清張原作ですがミステリとは違い、歯車の狂いがすべてを狂わせていくような話なのです。

 話の発端に当たる部分から話しますと、まず小川眞由美演ずる女性が、三人の幼子を連れてある家へと向かいます。向かった先にいたのは小さな印刷屋を営む緒形拳と、その妻の岩下志麻。緒形拳は小川眞由美と幼子三人の急な訪問に狼狽します。というのも、小川眞由美は彼にとっての妾であり、幼子三人は妾の子だったのです。秘密にしていたその関係を妻である岩下志麻に知られることとなってしまったわけです。家の居間はそれまでと一転、にわかに修羅場の様相を呈するのでした。
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 この序盤のシーンは完璧です。実に素晴らしい。
 このシーンの有り様だけで、「子供が邪魔」というのがきちんとわかるのです。ただの不倫関係、三角関係の修羅場なんてものは、この場面に比べれば何でもないと思わされる。ただの色恋沙汰なら話は簡単です。ところが、ここには三人の幼子がいるのです。これは厄介なことになるというのが、一目でばっちりと描かれている場面です。
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これね、子供目線で、「可哀想な子供」的に寄り添っていたら駄目なんです。可哀想なことは言わなくたってわかる。ここでは「この子供たちがこの大人たちにとっては邪魔なのだ」という側を描いている。このことが重要なんです。

 さらりと展開をばらしますので、嫌な人はじゃあ先に観るがよい。

 で、ここが驚くところなんですが、小川眞由美はそれまで三人を育ててきたくせに、もう嫌だと怒って蒸発してしまうんです。ここから、緒形拳と岩下志麻と三人の幼子のどうしようもない日々が始まります。

 立ち位置として岩下志麻が悪役に徹しているのがいいですね。緒形拳は責任もあるし、なんとか面倒をみようと奔走するんですが、岩下志麻としてはこの三人がただただ憎らしいわけですよ。夫にずっと騙されてきた恨みもあるし、不倫相手のなした子供らには愛情など抱けない。金銭的にもかつかつで、一緒に暮らそうなどと簡単にいくわけがない。ここに背景があるわけです。
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 冒頭に記した内容で言えば、こういう立場に置かれたらおまえは子供を大事にできるか、ということですよ。子供には何の罪もない、そりゃそうです。でも、実際自分がそこに立ったら、そんな風に割り切って育児する気になるのか。金もないのに、まったく知らない子供三人の成長を見守るなんてできるか。しかも不倫相手の子供を。正直言って、ぼくはぜんぜん自信がありませんよ。始めの話はそういうことです。この映画の岩下志麻の言動はもちろん肯定できないけれど、かといって否定しきれるかといえば自信が無くなる。この岩下志麻の気持ちがわかってしまう。いい映画の条件をひとつ満たしています。ぼくたちが当たり前に持っている(ような気になっている)良識やら倫理やらを、揺さぶってくるわけです。
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子役の演技は朴訥の一語で、現在もてはやされている「天才子役」の溌剌演技とは対極です。うまいかと言われればぜんぜんうまくない。でも、この映画の設定上、彼らのとつとつとした台詞回しや棒読みにも近しい言葉の数々は、肯定的に受け止めることができます。というのも、この子供らの背景をも想像させるからです。
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 序盤で小川眞由美に捨てられたことからわかるように、緒形拳に正妻がいることからもわかるように、彼らは十分な愛情を得られずに育ってきたわけです。そして、きっと彼らは「すくすく」という形容の似合わない成長を遂げてきただろうと思われるわけで、だとするなら彼らは「天才子役」たちの演ずるような溌剌さを持つわけもないし、「うまい愛でられ方」も会得していないのです。子供は元気でわんぱくで奔放で、というのはいかにもな子供幻想です。「天才子役」はその幻想を体現するからアイドルになっているわけですが、環境や文脈によっては、そんな風に育つことはできない。ここが憐れみを誘うのです。

 三人の子供はそれぞれに悲劇的な展開を強いられるわけですが、この辺がこの映画の怖いところ。ああ、どうしようもないな、と思わされるところです。溌剌さを持てなかった子供たちと、そんな子供を押しつけられた夫妻。どんづまりの状況です。最悪です。最悪すぎて笑ってしまうところも多いんです。怖い映画って、怖すぎて笑えたりするでしょう?それと同じで、最悪だからもう、まともに受け止めるのが怖くなる。これね、岩下志麻の背景がなければ、彼女に憎悪を向ければ済むんですよ。こちらは素直にしかめ面をつくれる。でも、彼女だって彼女の立場があるってことがわかっているからどうしようもなくて、どうしようもないんです。笑っていいわけないのに、笑ってしまうくらいに。

 いろいろと書きたいことがありますが、緒形拳の立ち居振る舞い、風合いが素晴らしいですね。韓国映画に邦画と違う旨味があるのは、あれらがこの頃の日本映画にどこか似ているからでしょう。この映画の放つ風合いは今の韓国映画に似ています。すなわち、日本映画がどうやっても描けない泥臭さがあるわけです。
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 風合い、前半の展開とも完璧でした。
 後半はと言うと、うーん、ひとつねえ、もったいないなあというのがありますね。内容をばらしますからね、ばらさないと話せないからね。警告したからね。

 あのー、娘を緒形拳が捨てるじゃないですか。あれがもったいないんですねえ、物語的に言うと。原作がそうなのなら仕方ないんでしょうけど、物語的な効果で言うと、彼女は残しておくべきだったんです、あくまで物語的な効果の話ですよ。

 というのもね、観ながら思ったのですけれど、子供は一人でいさせるよりも二人でいさせたほうが、その頼りなさを強めるんです、きっと。男子を一人で残してしまうと、なんか、なんとかなりそうな感じがしてしまうんです。それに、二人にしたほうが、緒形拳の抱える「こいつら、邪魔なんだよな」という闇の本音が、より強まったはずなんです。

 二人のほうが頼りない、というのでいうと、『火垂るの墓』がそうですね。あの映画のすごさって、清太と節子という兄妹だからこそ生まれたんです。というのも、二人の子供はそれだけで弱い存在だけれど、その中でもさらに節子は弱いわけです。弱さが二重になっているんです。その中で、弱々しい存在なのにもかかわらず節子を守らねばならぬ清太がさらに愛おしくなるし、節子の弱さはより強められる。これが「一人より二人の子供のほうが頼りなく映る」ことの例証です。あの娘は中盤から一切出てこなくなってしまう。これだと話も細くなってしまうんですね。ひとつの軸が消えてしまうわけですから。

 なので、前半、序盤の高揚感、そこから期待される抉られるような悲哀は、観終えた後には残りません。哀しい話は哀しい話であればあるほどいいと思います。その哀しさを観たいと思うのはある種の残酷さからかもしれないけれど、同時にやっぱり、哀しい出来事をきちんと哀しいこととして受け止めたいと思うからです。

 むろん、そのように二人を残すと展開が変わる、話が変わってしまうんですが、実際の話、緒形拳と息子だけの話で小さくなってしまい、岩下志麻のことは中盤から放り出されるようになってしまった。この設定ならばもっと、あの序盤ならばもっととてつもない場所に行けただろうになと思うので、そこには残念さがあります。
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 もっとも、あの序盤の修羅場、中盤までの哀しさを見届けるだけでもこの映画は十分観ておくべき作品と言えましょう。今日はひとまず、ここまでということで。
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by karasmoker | 2011-09-06 21:00 | 邦画 | Comments(0)
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