『クリムゾン・タイド』 トニー・スコット 1995

何が正しいのかなんて、いつだってわからないから。
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長らくブログをやっていていろいろと気づくのですけれど、ぼくはデンゼル・ワシントンの出てくるような映画を、これまであまり観ていなかったのですね。硬派な刑事アクション、軍隊ものみたいなのをあまりおらず、彼の出演作もほとんど観ていない。特に近頃は静かで「ヒューマン」な作品を愛でる傾向が顕著になっているため、この辺で振れ幅を持たせねばならぬ、というわけで、『クリムゾン・タイド』です。これはなかなかの掘り出し物でした。

 冷戦終結後にロシアで反乱が起きて、またもや世界情勢が不穏なことになってしまった、核戦争寸前だ、みたいな世界設定です。こうなったら先制攻撃も辞さんのじゃい、というわけで、ジーン・ハックマン艦長とデンゼル・ワシントン副長の乗る海軍の原子力潜水艦がロシア近海まで潜行。核ミサイルのひとつやふたつ、いつでも撃ったるけえの、という流れになっていきます。
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 冒頭とラストを除くほぼ全編が潜水艦内で進行し、女子供はほとんど出てきません。この辺の硬派感というのは大変に好感が持てるところですね。乗組員のアメリカでの生活、家族がいてうんぬんという、よくあるような「ファミリー描写」は冒頭以外入れておらず、潜水艦の中で起こる出来事がすべてです。前にも書きましたけれど、この手の映画で「ファミリー描写」はやっぱり要らないですね。これがその成功例でしょう。女子供に観てもらうには登場人物に女子供を入れるほうがよい、と判断する映画制作者は多いようで、何かにつけて「ファミリー描写」を、あるいは「恋愛エピ」を放り込むくせがアメリカ映画にはありますが、そういうのは要らない。最初こそ出てくるけれど、後はまったく出てきませんからね。それで長くなってしまうなら、すっとメインの舞台に入って描くべきことをきちんと描いた本作のようなもののほうが、ちゃんといい出来に仕上がるわけです。

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 潜水艦内だけで話が進むわけですが、艦長と副長の間にある対立が生じます。
 ミサイル発射命令が出ていたのですが、途中で敵からの攻撃に遭い、外部からの受信機能がぶっ壊れてしまいます。実はその寸前、司令部から命令が届いていて、これが問題を生んでしまうのです。
 といいますのも、連絡装置が壊れたせいで、命令がものすんごい中途半端な形で受信されてしまうのです。述語のない命令文が届いたような状態になってしまい、この解釈を巡ってハックマンとワシントンがぶつかり、これが物語を駆動させます。
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 ハックマン艦長は「その電文は命令になっていないので、取り合う必要はない。かねての予定通り、ミサイルを発射するのだ」と主張し、ワシントン副長は「いいえ、中止命令かもしれません。ここは受信機能が回復するまで発射を見送るべきです」と反対します。こうしている間にもロシア側がミサイルを発射するかもしれない。時は一刻を争う。両者の間で派閥が生じたりして、緊迫の密室劇が繰り広げられるわけです。
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この映画の美点として、「どちらが正しいのかわからない」というのが大きいですね。 どちらが正しかったかは、その後の結果でしか判断できない。右に行くべきか左なのか、それは答えが出た後でないとわからない。どちらの言っていることにも理がある。この対立はそのまま戦争そのものをも示しているわけで、狭い空間の出来事がそれを内包する全体をも照らす、という優れた構造を有しているわけです。
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 映画ってのはやっぱり、人生ってもんと重なって見えてくると、より入り込めるものです。たとえば原発事故があって、西方に疎開した人たちがいる。かたやぼくを含め、それまでの生活を優先して関東に残っている人が大半を占めている。どちらが正しいのか、どういう選択をすべきなのか、すべきだったのか、今はまだわからない。ただ、自分たちが当然だと思っている日常も、ひとつの重大な選択の結果なのだということだけが、うっすらとわかっている。正解がわからない問いを前にしているのはぼくたちも同じことで、そういう問いに直面した人間の話というのは、それだけでも自分に引きつけて観てしまいます。
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 戦争を含めたあらゆる出来事がそうであるように、そのときにしかわからないこと、当事者にしかわからないことってのがあるわけですね。あの戦争は間違っていたとか、あのときはああするべきだったとか、そんなのはいくらでも言えるけれど、そのときその状況でベストだと思ったことを、やっていくしかない。これからだってそうなわけで、いつだってそうなわけです。この映画の旨味はそこにあるなあと思います。潜水艦内の対立のはらはら感を味わうだけでは、ちょっともったいないというものです。
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 もっと若いうちに観ていたら、きっとワシントン側にもっと肩入れして観ていたでしょうね。ハックマンがむかついて仕方ないかもしれない。でも、ハックマンだって、自分なりにベストだと思う回答を見つけようとしていたわけです。どうしていいかわからない状態で、下士官たちも自分で考えて動き出す。その一方で、全員を救おうと自分の仕事に従事した人間が、命を落としたりする。各々が各々の立場で、あの狭い潜水艦内で動き回る姿は熱かった。ハックマンが部下に銃を突きつけたのだって、彼らが憎かったからじゃない。彼は彼で、自分がなすべきことを貫徹しようと必死だったのです。
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 うん、この映画はアメリカサイドの話だけれど、そうでありながら戦争を起こす両者の立場を寓意的にわきまえている点で、なおかつそもそも戦争を起こすことそれ自体への言及にもなっている点で、とてもいいなと思いましたね。ぼくはこういう描き方が好きなんですね。映画というのは往々にして、対立があったらどちらか一方を輝かせるんです。勧善懲悪はその最たるものです。そのほうが理解しやすいし、受け入れられやすい。だけれど、わかりやすい悪なんて実はほとんどない。テロリストにはテロリストの理だってある。それはぼくたちの生活やその中で育んだものの考え方では理解に苦しむかもしれないけれど、彼らには彼らで、それをしようという道理がある。造反有理というやつです。それを批難することはたやすいけれど、『鬼畜』でも述べたように、人は文脈次第でいかような思想も持ち得、どのような選択もし得る。
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 そういうものの見方を教えてくれる映画を、ぼくは今後も愛でていくことであろうと思いますね。見てくれの派手さはないけれど、「正しい戦争映画」のひとつとして、お薦めしたいと思います。
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by karasmoker | 2011-09-23 21:00 | 洋画 | Comments(0)
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