『フェイス/オフ』 ジョン・ウー 1997

スターの顔を活かした作品。活劇的快楽とともに、味わったことのない鑑賞後感。
d0151584_10592717.jpg

ジョン・トラボルタ、ニコラス・ケイジの二大共演ということ以外、予備知識無しで観ました。どちらのスターも、彼が出ているなら観てみようとはならないのですね、ぼくの場合。ジョン・トラボルタは『サタデーナイトフィーバー』が印象深いけれど、そこまで惚れ惚れとして観ることはないし、ニコラス・ケイジは正直なところ、あまり好きではなかったんです。というか、彼がなぜ超一流人気俳優みたいになるのか、あまりよくわからない。三番手、四番手あたりでいい働きをするというか、日本で言うなら光石研のような、バラエティで言えば東野幸治的な人、というイメージだったんです。ところが今回は非常にその良さがわかったというか、映画の中で文句なしの存在感でありました。二大スターの共演作ということでいえば、彼らよりひとつ、ふたつ上の世代であるアル・パチーノとデニーロの『ヒート』がこの二年前に公開されていますが、いやあ、断然こちらです。アクションにおいてもその物語的深みにおいても。
d0151584_947125.jpg

d0151584_9471555.jpg

d0151584_9472712.jpg

『フェイス/オフ』はそのタイトル通り、「顔を外す」わけですが、一言で言うなら、顔を交換してしまう話です。刑事のトラボルタ演ずるはアーチャー、悪もんのケイジ演ずるはトロイという人物ですが、事件の捜査を進めるうえでの必要から、特殊な手術で顔を入れ替えてしまうのです。この辺の説明はちょっと面倒くさいのですが、観れば誰でもどういうことかわかるので、省きます。
d0151584_9474028.jpg

d0151584_9475191.jpg

 最初はトラボルタが正義側で、ケイジが悪なのですが、これが収まり悪いなーと思って観ていました。ケイジは悪者としてはどうも貫禄がない。トラボルタに勝てそうにない、と思っていたわけですが、これが反転したら見事に収まりました。役が入れ替わり、ケイジが苦難を乗り越えて戦う正義側になったら、そのやや頼りない感じがすっと収まった。トラボルタはジョーカー的な貫禄で華々しく躍動していた。ここまですっと反転して収まると、なんだかものすごく気持ちがいいです。作り手も、「やたっ。思った通りだっ」と思ったことでしょう。

 最初のほうはね、正直ちょっとずさんというか、あんな高度な手術をできる警察なのに、あほなことするなーと思って観ていたんです。穴が多いなー、『スキャナー・ダークリー』を思い出すなー、と思っていたんです。面白くなりそうなのにもったいない、駄目かもしれない、とちょっと期待値が下がりました。あんな風にして捜査官を送り込むのはいかがなものか、もっといいやり方があるんじゃないのか。
d0151584_9481094.jpg

 ところが、引き込まれました。途中でね、「悪の顔」=ケイジになったアーチャー刑事がどんづまりの状況を迎えるんです。「善の顔」=トラボルタになった悪者トロイにうまいことやられて、どんづまりになる。このトロイがうまいことやって復活するくだりも、設定的には穴があるんですよ。なんであんな風にやられてしまうねん、もうちょいちゃんと警備しておけ、という話なんです。でもね、どんづまりをちゃんと描いているから、観ながら「さて、アーチャーはどうやって逆転していくんだろう」とわくわくどきどきはらはらできる。これはとても大事ですね。これだけどんづまっていれば、もう駄目なんじゃないかと思うんです。でも、そこを知恵とアクションで切り抜けていく。いや、このくだりもね、うまいこと行き過ぎといえばそうなんですよ。特に最初のほう。でも、ぐんと収まりのよくなったケイジとアクション演出で、オッケーになる。さあ、この後どうするんだ、というのも継続する。この映画自体がまさに、「逆転」を果たしているわけです。
d0151584_9483067.jpg

d0151584_9484510.jpg

『ヒート』はまるで必要のない家族描写を入れていたし、前の記事でもファミリー向けにファミリー描写を加える必要はない。と書いたんですけれど、本作では家族が有効に機能していましたね。物語的に、家族は必要だった。これはむしろ家族を描かないと旨味がぐんと半減するつくり。脚本上の必然から、因縁の対決に家族を織り込んでいる。収まるところにきちんと収まっていて、前半の設定的穴さえなんとかすればほとんど言うことのない映画でした。
d0151584_949447.jpg

 2時間20分は決して短くはないけれど、この映画にとってこの長さは意味をなしている。長さ自体が意味をなす映画というのは、あまりないと思いますね。でも、この映画は2時間を切ったらここまでよくはならなかった。何なら設定的穴のカバーをすべく、もうちょっと伸ばしてもいいくらいだった。

 なぜ長さが意味を持つのか。
 この映画の最重要ファクター、「顔」です。トラボルタとケイジという、どちらも十分に顔の知れた映画俳優であることも意味をなしている。この映画はなかなかのもんです。
 
 観ている側はね、正直、ケイジに肩入れするわけですよ。苦難を乗り越えて戦い続けるケイジのほうにね。トラボルタがうまく行きだすと、ちゃんとむかつくわけです。ケイジが好きになるんです。でもね、もともとの設定で言えば、ケイジの方が悪者だったわけですよ。これが面白いところです。もうこれ以上は深刻なネタバレになります。ネタバレとか基本的にどうでもいい主義、の人間が書いていますからね。
d0151584_9492319.jpg

 観客はラスト寸前まで、ケイジにハッピーエンドを迎えて欲しいと思っている。でも、最後に笑って家族と抱き合うのは、トラボルタなんです。これは最初の設定から行けば、当然の帰結というか、普通のハッピーエンドです。彼の家族も、よかったわね、もとに戻ってすべて丸く収まって、とこうなる。でも、観客は不思議な気持ちにさせられる。トラボルタが憎かったはずなのに。ケイジを応援していたはずなのに。
d0151584_9494437.jpg

 そう、このようなマジックはある程度の長さを必要としますね。短い映画だと、トラボルタが善だったことをそれほど忘れていないし、ケイジに思い入れる時間が短くなる。それじゃあこの映画はこうはならない。この映画を思い返したとき、ケイジを応援していたのを思い出す。でも、本当はトラボルタを応援していたはず。あれ、どうやって記憶すればいいんだ? そんな風に惑うことがこの映画を見終えた後の醍醐味です。これと『スキャナー・ダークリー』は実は兄弟のような、あるいは親戚のような関係にあると思うんですけど、なんかその辺のことを考えるにはもうひとつくらい補助線が必要にも思えるなあ。また今後の議題とさせてもらいましょう。

 どうやって記憶すればいいんだ? というこの戸惑いはつまり、ぼくたちの対面記憶が顔に依存していることの何よりの証左ですね。うん、この、「顔」というファクターは、ちょっとやそっとじゃ語れないでしょう? ぼくたちは一生の間、幸いにして目が見えている限りにおいて(あなたがこれを読んでいるのも目が見えているからですが)、顔に縛られ続ける。この先、ネットコミュニケーションが進化すれば昔よりも顔への比重は弱まるかも知れないけれど、「リアルな人間関係」を結ぶときには、やはり顔からは逃れようがない。顔がいい女とはやりたい、そうでないなら願い下げ。これって何なんですかね。

 ぼくは昔よりも「美容整形」というものに対して、自分がずっと寛容になっているのを感じます。整形なんてしやがって、と言って某国を叩いたりタレントを叩いたりする人がいるけれど、顔が生まれつきの資本であり、その結果差別も生まれてしまうのなら、より良い選択を果たそうとするのにも十分に理がある。整形に反対する人間は、顔の美醜で人を判断しないと本気で言い切れるんですかね? 絶対思ってるじゃん、ブスより美人がいいってさ。それでいてブスが美人になるなと他人に言える権利を、なぜあなたは持っているのでしょうということです。

 話がそれますけれども、このような鑑賞後感を与える映画はこれまで観た記憶がありませんで、その一点だけでもこの映画は推せる。もちろん途中の活劇も見応えがあったし、一本の映画として十分に面白かった。あ、胸の傷の活かし方も、伏線として予想の一枚上でした。あの活かし方は、ちょっと格好いいですね。これぞまさに、スターの顔を活かした一品と言えるでしょう。
[PR]
by karasmoker | 2011-09-24 21:00 | 洋画 | Comments(2)
Commented by pon at 2011-09-25 15:09 x
ふ〜ん、ジョン・ウーを推すなんてちょっと以外ですね。
しょっぱなからロングコートはひるがえるわ、箱を開ければお約束の2丁拳銃だわ、子供挟んでの銃撃戦ではOver the Rainbowは鳴り響くわ、鳩は飛ぶわ、ジョンお得意のこてこて演出でした。
あー、おなかいっぱいだ〜。
Commented by karasmoker at 2011-09-25 21:50
 コメントありがとうございます。
 どういうところが意外なのかはぼくにはよくわかりませんが、ぼくはベタベタでこてこてなものも好きな人間です。映画は観るタイミングも大きいですしね。それよりもこの映画で魅せられたのは記事の終わりの方で書いた、不思議な感覚です。述べているように、その一点だけでもこの映画は推せるのです。
←menu