『さびしんぼう』 大林宣彦 1985

母と子の話の、ある面での真実なのでしょう。
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久々に観る大林宣彦。これまでに観たのが『時をかける少女』『天国にいちばん近い島』『理由』だけなのですが、それらを観るにあまり好きな監督ではないなあと思って遠ざけていました。世に名高いカルト映画『時をかける少女』がねえ、ぼくには良さがわからんのですわ。細田守のアニメ版はねえ、内容どうこう以前に、あのオリジナルでいうところの深町にあたる少年、あの声、喋り方がどうにも。あれが耳障りで受け付けず、クライマックスをほとんど覚えていないくらいです。最近のリメイク版はだからぜんぜんノーチェックなのです。

 そんなわけで遠ざかっていたのですが、尾道三部作最終作『さびしんぼう』。一作目の『転校生』がツタヤには置いていなくていまだ未見なり。

 前半部は尾美としのりと友人二名の高校生の日常がメインです。尾美としのりという人は、ぼくがイメージする80年代男子の中心にいるような顔つきです。ザ・80年代男子という感じがするんです。あの髪型とか、むっくりした輪郭とかね。ちょっと「腹立つ古くささ」もあって、友人たちの演技もなんだか金八先生みたいだったんです。映画というよりドラマみたいな、うん、本当に当時の金八みたいなノリ。これはきついなーと思いながら観ていました。
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 学園コメディみたいなノリで進んで、ギャグも正直もう、時代的にきつい。うわぜんぜん面白くないわ、このシーンのこのくだり絶対要らんわと思うのがいくつもあって、途中で観るのをやめようかと思ったくらいでした。やっぱり大林宣彦は合わないなあと。
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 が、しかし、これがね、後半は巻き返してきますね。これは巻き返されました。変なギャグも封印して、演技の風合いも良くなった。これは難しいところですね、前半あれだけやったからよく見えたのかとも思うし、序盤から後半の感じで行って短くまとめたらよかったんちゃうんかとも思うし。だからあれです、1986年放送の『ZZガンダム』と似ています。『Z』の重みを消すためというのがあったみたいだけど、あれも序盤クールはギャグばっかりで半ばどうでもいい。でも、後半はシリーズ屈指の熱さを見せる。あれが二時間の中で行われた感じです(わかる人は少なかろう)。

 じゃあどうして後半そんなに巻き返せたのか、というに、これはもう富田靖子のとびきりの可愛らしさあってのことです。富田靖子がねえ、もうむっちゃ可愛いですね。富田靖子のアイドル映画として観るなら、後半は完璧に近いのではないでしょうか。アイドル映画というのは思うに、被写体となるアイドルが可愛く映されていさえすれば60点くらいは確保できるのです。演出も前半とはがらりと変わって、しっとりした感じになったりして、前半は腹立たしかった尾美としのりにも乗っていけたのです。
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 富田靖子礼賛を続けるならば、この映画では二種類の彼女が拝めます。「うわっ、ふたつ入ってるやんけっ」です。この二つともがまた美味しいのです。黒ごまと梅の二種類です(別に何でもいいけど)。これがまた嫌みのない、ぶりぶり感のない控えめ演技でよろしい。それでいて「~だよっ」という語尾の用い方が絶品であり(可愛い語尾感というのは女子が持つ武器です。女子の皆さん、覚えておきましょう)、笑みのふにゃっと感が柔らかくてキュートであり、『時かけ』の原田知世よりもぼくは断然こちらを推すのであります。
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 富田靖子の自転車が壊れてしまい、それを見つけた尾美としのりが手伝って帰るのですが、もうあんなのはもう、あんなのはもう、です(何なのだ)。高校生の頃なんてね、そんなもんね、そんなのなかったよぼかあ。ぼかあ雨の日も風の日も、一人できこきこ自転車をこいで行き帰りしてね、時折二人乗りしている同年代とすれ違ったりしたなら、けっ、畜生、羨ましくなんかないぞ、羨ましくなんかあるもんか、羨ましいと思ったら負けだ、ん、何だおまえら、羨ましがってると思ってんのか、ああ羨ましいさ! 羨ましいね馬鹿野郎、羨ましくないと思ったら大間違いだぞ! 覚えてやがれ! だったんですけれども(可哀相な子だったんだね)、そんなのじゃないんだね。きっと、ぼくはきっと、相手の壊れた自転車を引っ張って、一緒に歩きたかったんだね。なんていうか、ああ、いいなあと素朴に思えましたね。富田靖子の壊れた自転車を引っ張って帰り道に付き合えるなら、ぼくはいくらでも時をかけたいね。かけぬけすぎて戦乱の世に突っ込むのも厭わないね。
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映画のレビウとはとても言えない妄言が一段落したところで、再び話を戻しますが、富田靖子の清純パターンと、コメディエンヌパターンが出てきて、これがいい対比になっていました。やっぱり最初からがんがん彼女を出してもよかった気もするのですが、ではどうして二人出てくるんだと言うに、これがなかなか厄介で、なぜならコメディエンヌパターンのほうは、なんと尾美としのりの母親を演ずる藤田弓子の、若かりし頃であるという設定だからです。

 この映画がよくわからないのはここです。若い頃の母親が息子の前に現れるんです。なんで出てきたんだ、というのも少々ねじれています。母親は高校生の頃にいわば「思い出の恋」をしたらしくて、息子の尾美としのりにもその相手の名前をつけています。で、息子の前に、まるで彼に恋をしているかのような愛らしさを持って登場してくるわけです。
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 さあ、ぼくにはよくわからないのです。この構造の意味が。
「男の子はいくつになっても母親に恋をしているものだ」というのが出てくるんですね。「父と子の話」の一方に立つ物語造形、「母と子の話」。母と子の幼児的一体性を阻むものとしての父がいて、子は母との一体性を失い、また抑圧的な父との関係を個として見いだすことで大人になっていく。っていうような、エディプス・コンプレックス。この話では父は弱くしか機能しません。母が前面に来る。他人との恋を通じて母への恋を失っていくのかと思いきや、母への恋も保たれる。母の若い分身が消えた後で、ラスト、「もう彼女に会いたいとは思わない。そうじゃないと大人になれない」と言います。でも、確実に彼の中には、母への恋が保たれている(普通の高校生が「若い頃のおかあさんも美人だね」なんて言わない。言ったらそれはマザコンでしょう。映画ではそうは描かれませんが)。
 
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 だから、この映画では、母を捨てたり忘れたりするのではなく、母への恋を鮮烈な記憶として宿した上で、それでも他人に恋をして大人になっていくのだという形式を採用していて、その意味では世のお母様がご覧になっても誠に安心な映画と言えます。母と子が切り離される、一体化願望とは完全に決別する、そんなことはねえだろ、というわけです。母が子供に思い出の相手の名をつけるのもそのひとつで、悪く取ればマザコン的、息子溺愛的映画とも言えるのですが、「男はみんなマザコンだ」的な考え方もあるのであって、頑固にマザコン否定をする映画とは別の側面を、確かに切り取っているのではないかなとも思います。

母親ということでいえば、ぼくの母親は劇中に出てくる藤田弓子と樹木希林を足して二で割ったような顔をしているので、この二人が共演したときはなんだか妙な気分になりました。そんなぼくからすると樹木希林の跡を継ぐのは藤田弓子じゃないかと前々から思っていたのであって、この二人が同じ画面にいたのは面白く、話が話だけに少しくらくらしたのでした。これまでに観た大林作品の中ではいちばんはまりました。個人的には、お薦めですね。
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by karasmoker | 2011-09-25 21:00 | 邦画 | Comments(0)
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