『チャイナ・シンドローム』 ジェームズ・ブリッジス 1979

原発というメタファ。原発事故の教訓。
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 原発事故のあと、あらためて名前が出されるようになった本作。タイトルの意味を『知恵蔵2011』から教えてもらうと、
「原子炉核燃料のメルトダウンによって、核燃料が溶け落ち、その高熱により鋼鉄製の圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すこと。溶融貫通またはメルトスルーとも呼ばれる。米国の原子炉がメルトスルーを起こしたら、高温の核燃料が溶けて地中にのめりこみ、地球の裏側にある中国にまで突き抜けて達する事態になるのではないかということから、チャイナシンドロームという。もちろん、地理上は米国の裏側は中国ではないし、地球を貫くようなことは現実には起こらず、ジョークの一種である」

 まあ正直な話、実際に原発事故が起こったあとですから、映画で何が描かれようとも、どう描かれようとも、現実の出来事以上の何かがあるとも期待していなかったわけですが、一応有名な映画は押さえておこうじゃないの、というのがぼくの鑑賞方針でもあるので、観てみました。

原発事故の様子が描かれた映画ではなかったのですね。いや、厳密には事故なのだろうけれども、すぐさま収まったことになっているし、現実のように放射能が拡散してしまう話ではありません。内容的には、「このままだと原発事故が起きるぞ」という文字通りの警鐘映画です。この警鐘が鳴らされてから2週間も経たないうちにスリーマイルの事故が起きたらしく、すごいタイミングですね。で、そこから32年後が今年です。もはや警鐘の響きは遠く消えてしまったのでしょうか。
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 ニュースキャスターのジェーン・フォンダとカメラマンのマイケル・ダグラスが原発の取材に行くと地震が起きてトラブルが発生し、これはなんかまずい施設なんじゃないかということになり、制御室長のジャック・レモンもそれを感じていろいろと調べだし、するとやっぱりまずいことがあったぞ、という筋立てです。
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 先にも書いたように、現実の原発事故がこれだけ大きなものになった今、警鐘をいくら見つめても仕方がないです。現実の事故を見つめる方が大事です。ではこの映画はもはや意味を持たないのか、というと、それは見方としてはもったいないです。この映画を今観るならば、「原発」をひとつのメタファとして捉えてみるのがよいでしょう。実際この映画では放射能の恐怖だったり、この事故が起きるとどういう事態が引き起こされるかとかはそんなにちゃんと教えてくれないのです。だから、原発映画を観るならばもっと別のものを観るべきなのでしょう。ドキュメンタリーとかね。
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「原発」あるいは「原発事故」をメタファとして観て、現実の自分に置き直して、何かを見いだすというのがこの映画への意味ある接し方でしょう。これはこの映画に限りませんね。映画を通して何かを見いだす、これが「映画批評」の第一歩です。

 うわ、えらそうなことを言った。そんな教養もないくせに。何が「映画批評の第一歩です」だ。おととい来やがれ、そして昨日帰れ。いやいや、でも、言っていることはきっとそんなに的外れではないのです。だからぼくは今後も映画の感想と批評の間をゆらゆらしていきたいと思います。

 人生ってのは、ある意味で原発と同じです。そのこころは、「ミスや間違いを見てみぬふりをするとえらいことになるぞ」ということです。あるいは身体にしてもそうですね。体の不調や痛みが大病の警告かもしれないのに、検査を疎かにすると取り返しがつかなくなったりするわけです。だから思うに、あの事故のあとで日本中で、「事故の教訓を活かせ」なんてことが言われるようになって、原発反対とかそういうのが盛り上がるようになりましたけれども、ぼくを含めた大半の人間は、もっと個人レベルで教訓を活かすべきなのでしょう。たとえば今回の原発事故に強い憤りを感じて、「なんでそんな設計をしたんだ」「なんで検査をもっと厳密にやらなかったんだ」と怒る人がいるわけですが、じゃあその人は自分の体の検査をしっかりやっているのでしょうか。自分の生活を顧みているのでしょうか。ここなんですね。ぼく自身を含め、原発の教訓というのはそういうレベルで捉えた方がいいのでしょう。これが「原発はメタファである」ということの意味です。
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 制御室長のジャック・レモンは検査の不備を見いだし、すぐに稼働を停止するように働きかけるのですが、この動きを体制側が食い止めようとしてきます。告発的な動きに対しては暴力による阻止も厭わない。これも現実に起きていることですね。政府にせよ東電にせよマスコミにせよ、やばいことがわかっていないわけがない。それでも事実をおおっぴらにしようとはしないし、原発を減らしていくことへの舵取りもしない。なぜなのか。いちばん単純な理解としては、原発利権がどうたらとか、マスコミは御上のいいなりでうんたらとか、そういうことです。そして、それは間違っていないのでしょう。要はお金の問題だ、と一言で言い切ってもいいのかもしれない。でも、じゃあそのお金とは何か。ここをつっこんで考えてみるべきでしょう。

「お金」というものの価値を考えたとき、ひとつには「豊かな生活を送るために必要なもの」と言えます。お金があれば生活に必要なものは揃えられるし、ぜいたくもできる。だから人はお金を欲しがります。でも、お金はそれだけのものではない。お金には象徴的な意味が付与される。すなわち、自分は確かに労働してきたのだ、という証しの役割です。合法的な行為によってお金を儲けてきた場合、人は自らのその行為を肯定します。程度の差こそあれ、多少の肯定感を得られないと、やっていられなくなります。だから人は自分の過去の行為、自分が荷担した社会的営為を肯定することになるし、お金はその象徴としての機能を担うわけです。だから、もしも原発推進をやめてお金を儲けられなくなる場合、人は二つの価値を同時に失うことになります。即物的価値と象徴的価値。ものとこころ、有形のものと無形のもの。これを失ってまで別の路線に転換することは、過去を持たない子供ならばいざ知らず、年を重ね経歴も重ねた大人となると、難しいことなのです。その意味で、個人の内面的レベルにおいてもまたお金は大事なものであり、たとえ暴力を行使してでも反逆者を押さえつけたくなるのです。そしてこれもまたやはり、他人事ではないのです。原発というメタファを拡大して考えてみました。

 無教養なくせに映画からそれたことをいろいろと書いてしまいましたが、映画を通して何かを考えるのはこのブログを書くひとつの意味でもあるのでした。
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 映画のラストはいい切り方をしましたね。観客を安心させず、ぽんと投げ出してしまう。この映画の内容を考えれば、収まりの良い着地点は絶対に要らない。監督はきちんとわきまえていたわけです。原発の映画として観れば弱いですが、原発やその事故を通して何かを考えるための2時間としては、有意味な作品と言えるのではないでしょうか。今日は結構真面目な感じでしたね。ここまでです。
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by karasmoker | 2011-09-26 21:00 | 洋画 | Comments(0)
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