『トーク・レディオ』 オリヴァー・ストーン 1988

殺される覚悟で伝えるということ
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我らがキング・オブ・レディオといえば、伊集院光。彼自身が物語るように、テレビでの彼は穏やかなキャラクターを演じては「ご陽気なデブキャラ」の位置に納まっているわけですが、こと深夜ラジオとなればその拘束具を外し、フルスロットルで毎週攻めまくっています。他にもお笑い芸人やタレントの番組は数多くありますが、ラジオを自らの主戦場としている人は数少ないのであって、いつか「ラジオ芸能史」が編纂されるとしたならいちばんにページを割かれるべきお人であります。そんな彼が認めるラジオもの映画、ということで観てみました。
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 ラジオとテレビの比較論などをいまさらやっても長くなるだけですが、ひとつ言えることは、「同じテレビ番組を観ている人」よりも「同じラジオ番組を聴いている人」のほうが、感性のシンクロ率はおそらくずっと高いだろうなということです。これについて掘り下げると長くなりますが、なんかそんな気がします。以前、松本人志が「放送室」をやっていた頃のこと、松本が好きだという女子がいたから、ぼくとしちゃあこれは感性が合うんじゃないかと期待して「じゃあ、あのラジオ聴いてる?」と尋ねたら、当たり前のように「ラジオとかは聴かない」。はああああ、と落胆した覚えがあります。おまえの好きと俺の好きはぜんぜん違うんだろうなきっと、と思った覚えがある。これ、逆だったら違うんですね。テレビは観ないけどラジオは聴いている、だったら、お、なんやこいつ、おもろいやつかも、と思ったのでしょう。ラジオのほうが、人と人を繋ぐのかもしれません(なんだそのまとめ)。

 さて、『トーク・レディオ』です。
 本作の脚本も務めたエリック・ボゴジアンという人が主演で、彼はラジオのDJ役です。彼の番組はとにかく過激で、政治、人種、性愛、宗教、ドラッグ、なんでもござれの内容なのです。リスナーと電話で話す番組なのですが、このやりとりも互いを罵倒し合ったり差別し合ったりするようなとんでもない会話で、現代日本では完璧に不可能な放送なのです。
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 番組中の彼の表情や動きが実に白熱しています。突然に飛び込んでくる顔の見えない相手に真っ向から戦いを挑む様子が格好いいのです。当然、中には彼に批判的なリスナーも出てくるわけで、脅迫状もばんばん送られてくる始末ですが、うるせえ馬鹿野郎とばかりに鋭い舌鋒、言葉の連射。これは英語が満足にわからないのを悔やむ映画ですね。
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 最初の三十分ほどがラジオのスタジオ内で進むんです。だから大きな動きはぜんぜんないんですけど、それでも緊張感が十分に持続するんですね。過激なやりとりで何が起こるかわからず、観ている側ははらはらする。この三十分をつくったというだけでもこの映画は特筆されるべきものと言えます。

 映画は1988年で、ネットのない時代ですが、ネットがなかったがゆえの自由さがある時代、というのを感じるところでもあります。日本でも今より過激なテレビやラジオがいっぱいあったわけですが、これはネットがなかったからできた部分も大きいのでしょう。ネットが生まれたからこそ告発される暗部も多く、ネットの意義は大きいのですが、逆に人々の声が氾濫した分だけ、テレビやラジオが自由にやりづらくなってしまった。情報の拡大範囲、影響力が読めなくなった分だけ、テレビもラジオもリスクを負いやすくなり、規制を強化せざるを得なくなったわけです。

 と、中途半端なメディア論は置いておいて映画の話。
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 中盤は元妻との過去などが語られるくだりがわりと長く、そこで何を描きたいのかはあまり読み取れなかったのですが、バスケの場面は面白かったですね。彼の番組は罵倒の連続ですがそれでも人気で、全米ネット昇格が検討されるくらいなのですが、バスケの試合にゲストとして出かけたら、思い切りブーイングを浴びるのです。人様のブログでこのシーンについて触れられていて、なるほどと思いました。このシーンに出てくる観客たちというのは、スポーツ観戦に来るような「健康的な」アメリカ人というわけで、彼のような過激な毒舌家は嫌われてしまっているわけです。映画では『イージーライダー』の名前も出てきますが、あの映画でもあったように、アメリカ人は自由を重んじるが、本当に自由な人間を見ると腹が立つということです。言論の自由は重んじても、本当にその自由を活かす人間には寛容になれない。彼が人気パーソナリティだと思ったら実は違っていた、というのを示す興味深い場面でした。
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 書きながら、この映画はちょっとやそっとじゃ語れないな、ということに気づきだしたのですが、ネット社会の今にも十分に通底しているというか、むしろ誰しもが発信できる今のほうが意義深いんじゃないかとさえ思います。
 
この映画におけるリスナーの電話は、今で言えばネット上の言葉ですね。それも罵倒や侮辱、呪詛や懊悩の数々。劇中の彼はそれを次から次に受け止めてはいなしていきます。一身に業を浴びるような活動の末に、彼は思いの丈をぶちまけるわけですが、このメッセージは今日にも十分通じているものと言えましょう。
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 このメッセージは実際に映画を観て聴いてほしいところですね。ある種の自戒も込めて、本当に何なんだよ、と言いたくなる。今年には大震災があって、そのときは誰しもがそれなりにセンチメンタルになったり「人と人との繋がり」だの「絆」だのと言ってみたりしたものだけれど、数ヶ月もすればネットにはまた罵言が溢れるようになったし、義援金をもらったことも忘れたか隣国への罵倒に明け暮れては、芸能人のゴシップを追いかける。匿名の言の葉を散らし続ける。何なんだよ、と言いたくなる。
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うーん、うーん、うーん。いろいろと続きを考えてみるのだけれど、どれもしっくりと来ないですね。「人に何かを伝える」っていうことが、すごく難しく思えてならなくなる。たとえばここで文章を書いたら、ぼくは自分の思っていることを吐き出せるし、誰かに伝わる可能性もあるならば多少の満足も得られる。世間の言論人なり何なりは、意見文だの評論文だの分析だのをしてみたりしてお金を得られる。でも、そんなことでいいのかよ、と鼻柱を殴られた気になる。安全な環境に安住して打鍵するだけでは、合法的で健康的な表現だけでは伝わらないんだよ、ということをぶつけられた思いがする。ぼくを含め、ネットで何かを書いたりする人は程度の差こそあれ誰かに何かを伝えたいと思っているのでしょうけれど、伝えるってことはそうそう生やさしいものじゃないぞと思わされる。

これはなんだか、きつくなる映画です。伝える、伝わる、伝わらないってことは万人に共通の問題でしょうから、誰にとっても無関係ではないし、ネット時代ならなおのことだと思います。これはちょっとね、うん、観終えたあとに、だんだんと重くなってきますね。
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by karasmoker | 2011-10-04 21:30 | 洋画 | Comments(2)
Commented by 通りすがり at 2013-07-08 13:23 x
 中途半端なメディア論とあっさり書かれていますが、結構重要な指摘な気がします。「トーク・レディオ」を(多少無理はあるけど)宗教的に解釈すれば、主人公はさしずめイエス・キリストの役割を担っているわけです。
 けれども、「不特定多数」の当たり障りのない意見にメディアが迎合(というか依存)してしまった場合、あの映画で主人公が引き受けていたような、「大衆を映す鏡」としての役割は誰が引き受けるのでしょうか?
 鏡がなくなっても、大衆はきちんと自分たちの姿を直視していけるのだろうかと思うと末恐ろしくなりませんか?
Commented by karasmoker at 2013-07-08 21:36
 コメントありがとうございます。
 マスメディアやネットについて、どの水準でお話しすべきなのかわかりませんもので、問いに対して真摯な回答を差し出すことができかねます。誰が引き受けるんだと言われても知りませんし、末恐ろしくなると言われればはいそうですねとしか申せません。おっしゃりたいことがよくわからないので、申し訳ありません。
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