『わたしを離さないで』 マーク・ロマネク 2010

この映画のつくりにおいて、システムへの言及がないのは不可解。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 
 
 リクエストをいただくと書く励みになるものです。いつでも誰でも受け付けております。あ、そうそう、以前にいちばんにコメントをいただいたsikaさん、『イリュージョニスト』のレビウが遅れていて申し訳ありません。ディスカスで予約していますし忘れていませんので、ご安心ください。
 
 原題『Never Let Me Go』
映画ってね、大きく分けると2通りの享受方法があると思うんです。
 ひとつには「映画を映画として」受け取る方法。
 もっとも簡単な言い方をすれば、「映画は面白ければそれでよいのだ」という受け取り方ですね。面白いの意味は多義的ですが、要するに2時間なら2時間の間、楽しませてくれれば十分であるということ。綺麗なヒロインが出てきて惚れ惚れしちゃうなとか、すごいアクションシーンで胸が高鳴るなとか、サスペンスフルではらはらどきどきするなとか、いわば純粋な娯楽メディアとしての接し方です。いちばん素直な見方と言えます。
 映画好きをこじらせると、ここに批評性を足したがります。この撮り方はどうのこうの、ここは何々というテクニックなどというものです。でも、これも「映画を映画として受け取る」という点で言えば、面白い/つまらないと同じ範疇にあると言えます。
 もうひとつには「映画を現実の別の何事かと結びつけて」受け取る方法です。
もっとも簡単な言い方をすれば、「映画を通して何かを学ぶ/知る/感じる/考える」ということです。「映画を通して」というところがミソです。まったく映画とは関係のない話をしているときに、「何々という映画がある。あの映画では…」と語られる場合、その人は「映画を通して」何かを考えたわけです。

その話で行くと、ぼくにとってこの映画は明らかに後者でした。映画を通して何を考えればよいのか、と考えるわけですね。で、で、で、困っているのですね。前置きが長かったのはそのせいでもあるのですね。

 リクエストいただきましたponさんのコメントでは、「設定がありえないのですよ、人の命を扱う映画なのでとても許せません。」とのことでした。ここについて語る前に、設定について説明しなくちゃいけないわけですね。
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 お話はと言うと、冒頭の字幕で、「重大な疾患に対するある治療法が見つかったために、人類の平均寿命は100歳を超えた」ということから始まります。予備知識ゼロで観たので、ほう、SFなのかしら、とまず思いました。時代設定としては1900年代後半ですから、パラレルワールドです。ところがSFらしさはゼロで、一見普通の学校にいる普通の子供たちの様子から幕を開けます。
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彼らはどうやら学校の外に出てはいけないらしい、学校が孤児院のような施設として機能しているらしい、ということがだんだんわかってきて、物語の特徴となるひとつのネタが明かされます。
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 冒頭のヒントもあったので、結構早めの段階でどういうことかわかりました。彼らはいわばクローンであって、彼らの臓器を提供することで重大な疾患対策が行われている世界なのです。つまり、彼らは臓器提供のための存在として養育されていた、というわけです。
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 この辺の設定について突っ込むことは可能ですが、それはぼくは別にいいです。なので申し訳ないのですがponさんと一緒になって怒ることができそうにないのです。と言いますのも、こうしたある種突飛な設定の場合、その設定の中で何が描かれているか、に見方をシフトする必要があるのです。『トゥルーマンショー』などはその好例ですね。あの映画で「あんなことがありえるもんか」と怒っても仕方ないのです(と言いつつ、ご安心(?)。そこについては受け入れたぼくも、受け入れられない部分がありますから)。

 それでも受け入れられない場合も個人的にはあって、『スキャナー・ダークリー』はそういうものでした。「麻薬捜査」とか「療養施設での麻薬密造」とか大人なことを言っているぶん、じゃあこっちも大人になって観るからね、と思うと、いろいろ突っ込みたくなるわけです。

 この映画ではその辺は一切度外視。あくまでもその社会システム内部に置かれてシステム外部を見通し得ない存在たちとして描かれていました。主人公の子供時代が描かれていたのはその点で説得的です。「システム外部を見通せない」ということをもうちょっと描いてもいいんじゃないかとは思いました。たとえばテレビを観ていても、システムに批判的な議題の出そうなニュースチャンネルなどは一切観られないようになっている、とかね。そのことを彼らが普通に受け入れている、とかね。社会システム内部/外部の折り目が弱いとは思いました。そうすればもう一層厚くなったのにとも思うけれど、まあ当然ぼくなどより作品について遥かに深く考えている作り手がいるわけですから、あまり深くは申しますまい。

ただ、ぼくもponさん同様に、「ちょっと待ってよ。命を扱う映画でそれはいいわけ?」と思う設定があります。突飛な設定はわかった。受け入れよう。でもね、その設定が持つ意味を、もうちょっと考えてみたいと思うんだ。いや、設定というより、物語運び、結論的なことですかね。
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 映画の進行自体は、主人公たちが「育つ=死期が迫っていく」というわけで、彼らは自分たちがシステムに殺されることをどう受け止めるのか、抗うのか、ということを主軸に進んでいきます。その中でどう生きるか、みたいなこともね。
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 これ、観ながら思いましたけれども、『ブレードランナー』ですね。あの映画のレプリカントも「作られた存在」で、死期が人為的に決められている。それに抗おうとするレプリカントの話でしたから、特段目新しい素材とは思いませんでした。

 これは町山さんの本や発言に教わったところで、「我々も神様のレプリカント」。ぼくたちだって誰に頼みもしないのに生み出されて、いわば勝手に死を背負わされるレプリカントなのです。だから『わたしを離さないで』の主人公たちもぼくたちも同じと言えば同じ。ラストでその意味のモノローグが語られます。「普通に生きている人も私たちも同じなのだ」みたいなね。ぼくとしては「あそこで切られても」とは思いました。「うん、その話は『ブレードランナー』で知ってるよ」です。

 観終えると、この話がやや不健康だな、と思う部分も見えてきます。
『ブレードランナー』のレプリカントは、システムに対して反逆します。「命を延ばせ」と憤る。でも、『わたしを離さないで』の彼らは、システムに反逆しようとはしない。これをして「日本人にも通ずる諦観だ」と言って褒める向きもあるようですが、そうかな? それでいいのかな?
 ぼくたちの生の仕組みは、「個人」←「システム」←「システムでも抗いようのないもの」と考えられると思います。「個人」は日々の生き方を決定しうる。「システム」はその生き方の幅を設定する。「システムでも抗いようのないもの」はいわば「重力」や「時間」や、そのほか生そのものを規定するもの。「死」はこの三つ目にある。
 この映画は「システム」が三番目と同じ場所に置かれている。
 それでいいのかな?
 
 話を平たくするために、たとえば差別の問題を考えてみます。人種差別、民族差別、何でも構いませんが、たとえば黒人差別です。 
 黒人が差別されて、それを受け入れるしかない時代があった。彼らは現代の視点で言えば「システムに抑圧された人々」です。彼らに対して「その生き方を受け入れよ」なんて映画があったら、KKKでもない限りとてもじゃないけれど褒められない。「白人は黒人差別の社会の恩恵を受けて生きている。その枠組みを受け入れた上で、どう生きるかを考えよ」なんてとても言えないし、自分の立場に置き換えて思うこともできないでしょう。
 でも、この映画の主人公たちはそういう立場です。
「レピシエントはドナーの恩恵を受けて生きている。だからドナーはそれを受け入れる。受け入れた上でどう生きるかを考える」
 えええええ。
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「日本人にも通ずる諦観」。なるほど、納得がいきます。日本人も、原作者や映画制作者のイギリス人も、民族的、人種的被差別を強く受けた社会的記憶がない。アメリカに負けたり黄色人種として差別されたりすることはあっても、日本国内でそのような事態が蔓延したことはない。なおかつ、イギリスはそれ自体が階級社会というシステムの上に成り立っている。それで社会が回っている。ついに回り切らなくなったのか、暴動が発生したのは記憶に新しいけれど、作り手は暴動を起こした側なのかな? きっとそうじゃないだろう。この映画を作った人々は、システムをどう捉えているのか。そこが見えない。

 だからちょっと危険な映画って感じはする。たとえばどうかな? この映画の登場人物はみんな白人だけれど、主人公たちが黒人だったら、同じように受け止められるのかな?もしもそうじゃないとしたならなんで? うん、この問いはちょっと考えてみると面白いと思いますね。

別の面から捉えてね、この映画を、「システムすら意識できないほどにシステム下で抑圧された人々」の話とも考えられるかもしれません。臓器提供はあくまでメタファで、貧困な国の有形無形の尊い犠牲の上にぼくたちの生は成立しているという読み取りもできる。そうするとぼくたちに痛みを与える話になる。
 でもやっぱり、そういう意図でつくられた話にも見えない。もしもそういう意図なら、生の意味を考えるだの「私たちが救った人々も私たちと同じ」なんてことを言わせるのは、欺瞞でしかない。生の意味? 食うに困るほど抑圧されているであろう人たちが吐く台詞じゃない。だからその読解はできない。

 話を変えますが(あいやー、長くなっちまう)、この映画は一種の「余命もの」ですよね。制限された生をどう生きるか、難病ものと同じでもある(難病ものは「システムの外」を相手にしているからまだたちがいいけど)。余命もの、難病ものがウケがいいのは、限りある生の中での生き様が感動的、その中でどう生きるかが感動的、凝縮された生がそこにあるから、ってなことでしょうけれど、そこにはやっぱり、「俺は生きたいんだよ!」っていう咆哮があるからですね。生きることへの絶対的執着があるから。この映画にはそれがないんですね。ラスト近くで登場人物が哀しみのあまり絶叫するし、そこで抑えていたものが爆発したってな運びでしょうけれど、いかんせん生への悦びが希薄な気がしました。生への悦びを描いてなんぼでしょう。生きているとこんなに楽しいこともある、こんなに嬉しいこともある、でも、これをすべて失わなくてはならないなんて、という落差、その悲哀が余命ものの醍醐味でしょう。この映画、それがないと思ったんです。
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 丁寧です。とても丁寧。悪く言えば、西川美和的な「攻めのなさ」。でも、丁寧と言えばすごく丁寧。でも、ぼくには焼き付かなかったんです。登場人物たちの生が。ぼくたちの生なるものはシステムと不可分。でもそのシステムは不在。なおかつ生への悦びは希薄。それで、何を感じればいいのか? 『ブレードランナー』のほうが娯楽性も備えているし、そっちを観たほうが、よほど。
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 そろそろまとめましょう。
 この映画を薦めるとしたら、社会システムに対する疑念はなく日々への不全感もなく、とりあえず毎日の生活が楽しくて生きていることそれ自体が素晴らしいけどちょっとセンチにもなりたいよね、な人に向けることにしましょう。結構褒めている人が多いようなんですけれどね、そういう人はあまりシステムの話をしないですね。この映画に関しては、そこは現実と切り離してSFと割り切ってはいけない部分だと思うのですけれどね。いかがでしょうか。
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by karasmoker | 2011-10-08 21:00 | 洋画 | Comments(12)
Commented by pon at 2011-10-09 17:54 x
こんにちわ。早々見ていただいてありがとうございます。コメントが長くなってしまったら上げられなかったので、分割して上げました、うざくてごめんなさい。僕がこの映画が嫌いな理由はSF的な世界観が許せないとかではないんです。『トゥルーマンショー』とかは全然OKです。ファンタジーですから竹取物語と同じ事、現実的かどうかなんて考える必要もありません。ありえないのはこの映画のSF的な世界観ではなく世界共通の人の気持ち。たとえばこの子供たちに向ける周囲の人たちの蔑みの目、(がらくたのおもちゃを平気でさしいれるとか)あるいは普段、身近で働いている同僚、あるいは患者として話したり笑ったりしてるはずなのに、臓器をとりだしたら放りっぱなしの医者や看護士など設定以前の世界共通の人の感情を、無視した世界観に感情移入できないのです。こうゆうパラレルワールドもあるかなってどうしても思えないのです。
Commented by pon at 2011-10-09 17:56 x
ごめんなさい。続きです。

痛みとか怒りとかの人間共通の感情なのですから、その気持ちが通じない世界を想像することができないのです。そもそも、この映画は管理人さんの言う通り「余命もの」ですよね。「余命もの」は、作り手の泣かせてやろうとする根性が鼻につくとだめです。いやらしいと思ってしまう。この作り手は非常に巧みなのですよ、映画としての出来はけなす所がありません。美しい風景、抑えた演出、うますぎる。だからこそ許せないのです。作り手のいやらしさをどうしても感じてしまう、言ってみれば嫌悪感です。この世界を許す世論や、先進国を想像することができないのに、人の悲しみの感情までパラレルワールドやSF的設定で済ませる事ができませんでした。普段の僕はおもしろければなんでもありの人間です(笑)。適切に評価していただいてありがとうございました。ところでこんなのどうでしょう『ぼくのエリ 200歳の少女』昔に見て結構印象に残っています。丁度リメイク版(『Let Me In』)が届いたので見ようと思っています。
Commented by karasmoker at 2011-10-10 02:22
 コメントありがとうございます。
 
>ありえないのはこの映画のSF的な世界観ではなく世界共通の人の気持ち。
 
 ponさんは主人公たちを取り巻くいわば「普通の人間」たちの気持ちがまるで理解できない、とのことですね。そこについてはぼくはこの映画を擁護できる。というのも、終盤、施設長だった女性が主人公たちに画を描かせた理由を問われた際、彼女はこう答える。
「画を描かせたのは魂の美しさを測るためではない。魂があるのかどうかを調べるためだ」

 ここからわかるように、主人公たちは端から人間扱いされていないんです。だから彼らに対してあの世界の人間がどんなに冷たく振る舞っても、それは設定の理に適っている。むしろこの映画で、人々が彼らに優しく慈愛を持って接していたら、この世界観自体成立しなくなります。ponさんは「設定以前の世界共通の人の感情」と言いますが、それは「お互い尊ばれるべき人間である」と思うからで、人間扱いされていない彼らに対しては必ずしも当てはまらない話です。
Commented by karasmoker at 2011-10-10 02:36
 続きです。
 ぼくたちは主人公に寄り添ってこの映画を観ている。だから彼らに感情移入できるし、人間扱いできる。でも、この世界の人々はそうじゃない。彼らはクローンですが、彼らがたとえばロボットのようなものとして見なされている、と考えてみてください。そうすると冷たくあしらう側の気持ちも推察できる。「こいつらは人間みたいに振る舞っているが、人間じゃないんよな。感情があるように見えるけど、人間のものを真似ているだけなんじゃないのかな」というようにね。この世界が成立するためには、世界規模でそのような教えが浸透していると考えるべきです。だからこの映画は絶対に過去の話ではなくてはならない。クローン技術や生命倫理について誰もが名前くらいは知っているような時代、つまり現代や未来の話としては語り得ない。時代が過去に設定されているのは説得的です。
人間扱いされなかった人間というのは、歴史上いくらでもいる。奴隷にせよ黒人差別にせよです。

>痛みとか怒りとかの人間共通の感情なのですから、その気持ちが通じない世界を想像することができないのです。

 想像できませんか? だとしたら歴史を学ぶべきでしょう。
Commented by karasmoker at 2011-10-10 02:42
 続きです。
 ぼくはそのうえでこの映画を許容できない。抑圧された彼らにまるで寄り添うような視座を見せつつ、生の意味だの何だのと内面へと問題を向けさせてしまう。この映画からシステム批判を読み取らせたいのだとしたらミスリードしているし、システム批判の意図がないならそれは問題。そのようなことは記事で書きましたので、繰り返しません。

さて、『ぼくのエリ』ですが、これは既に観ました。別にぼくにはどうでもよい映画だったのでした。なので申し訳ないのですが、ここはひとつ、ぼくのもの以外のレビウを楽しんでもらうことをお薦めいたします。
Commented by 井上Luwak at 2011-10-10 11:04 x
こんにちは。僕も最近見ましたね。
Yahoo!映画の信頼していたレビューワーさんが5つ星にしていたので見て見ましたが、僕もやっぱりピンと来ませんでしたね。
序盤、何か深みのある感じだったり、学校の外に出てはいけない、と脅されてるようなシーンはちょっと面白そうな予感がしたんですけど、中盤・後半とタルかったです。
なにより気になったのは指摘されるような独自設定ですね。
最近ネットで知った言葉なんですけど、「虚構の世界の中でリアリティを感じる」ときに使える言葉として「迫真性」という語が挙げられていました。
Commented by 井上Luwak at 2011-10-10 11:05 x
(続き)
この作品はSF設定の中で、この迫真性に欠けていた印象を受けます。つまりクローンを作るのはいいけど、その歴史来歴、人権云々はどうなってるの?という疑問です。カトリック団体、プロテスタント団体、弁護士団体、動物愛護団体がいるだろうってのにクローンの権利が認められないのは実に不思議なんですよ。臓器提供にしても大量のクローンを社会的に抱えるコストが大きすぎる。奴隷制が廃止された歴史を見れば、とても不自然です。『トゥルーマンショー』の場合はジム・キャリーというコメディ俳優が出てるから、気取らないオモシロおかしな映画としてすんなりプロレスに騙されました。『トイ・ストーリー』でもなぜオモチャが喋るのかという疑問を抱かないのは、子供向けアニメ映画だからで、騙される用意がある。ただ『わたしを離さないで』は、大人向けで、(僕から言わせれば)気取った感じの、かつ人間の感情を描こうというのに、恣意的に思えるSF設定のせいで置いてけぼりにされた感じが半端なかったです。
Commented by 井上Luwak at 2011-10-10 11:05 x
(続き)
そのせいで感情移入も出来ず、主人公たちの行動に違和感や疑問が湧いてくる。プロレスにしても上手いプロレスならそれがプロレスと分かっていてもガチンコの勝負と区別ができないですけど、これは丁度下手なプロレスを見せられてる感じ。主人公たちは当たってもないチョップで倒れたり、派手にマットを叩いて痛がってる感じ。
まぁ迫真性については、結局人それぞれがどう感じるか「許容範囲」の違いなんでしょうけどね。僕の場合は気取った感じのモキュメンタリー風作品ほどアレがおかしいコレがおかしいとケチをつけたがる性格なので、初めから気取ってないエンタメプロレス的作品のほうが好みです。

『ぼくのエリ』は結構評判いいですね。ただ僕もあまりピンときませんでしたが……
またお薦めするのもあれですが、山中貞雄作品はご覧になってますか? 『人情紙風船』『丹下左膳余話 百萬両の壺』の二作はお薦めです。どちらも古い作品ですがよく出来ていますよ。
Commented by pon at 2011-10-10 11:10 x
こんにちわ、わざわざ長いお返事を返していただいて痛み入ります。ありがとうございました。ところで、僕はまた karasmokerさんを、怒らせてしまいましたか?なんか管理人さんの怒りのツボがわからなくて申し訳ないです。あの施設長は懐かしのシャーロット・ランプリングですね。若いときに見た「愛の嵐」は衝撃でした。ちょっと前にたまたま見た『ストリート・ダンス 3D』という映画で優しい(!)ダンスの先生役をやっていてびっくりしました。今回はぴったりはまってましたね(笑)。『ぼくのエリ』は視聴済みでしたか、これは失礼しました。では、多分見てないと思われるものをひとつ、管理人さんの映画評を見て白石晃士の作品を何本かみたのですが、フェイクドキュメンタリーものはお好きなようですね?僕は結構すきです。それでちょっと前に初めて違和感のないフェイク物を見たのですが(違和感があっても僕は全然OKです)、今月リリースされるのでどうでしょう?
「レイク・マンゴー ~アリス・パーマーの最期の3日間」です。じわっとおもしろかったです。
Commented by karasmoker at 2011-10-10 21:16
 コメントありがとうございます、井上luwakさん。
 おっしゃるところの「エンタメプロレス作品」はいわば「面白さを広げるために」虚構の世界を作り出しますね。普通の世界じゃつまらない。魔法やロボットが出た方が面白そうじゃないか。ということで、虚構を築く。観客が娯楽性を求めている限り、そのニーズに応えることが第一義ですから、それだけでいいと言えば言える。
 かたや、本作のような作品で虚構世界を用いる場合、その理由が異なります。あえて実世界と別のルールを施すことによって、実世界の有り様を異化して照らすこと。ぼくたちの認識を別世界との対比で揺らしにかかること。それがないなら、このような形でSF化する意味もなくなってしまう。
 だから大事なのは、異世界をつくった作り手が、この世界をどのように照らそうとしているのか。それを読み取ることです。
 
Commented by karasmoker at 2011-10-10 21:20
 続きです。
 繰り返しになりますが、この映画の設定には理がある。世界のルールがよくわからない、とおっしゃるかもしれませんが、この映画にそれを求めても仕方ない。だから、作り手は一切描いていない。そこを描き出したらこの映画の軸はぶれます。作り手が描きたいことから外れてしまう。こちらが見方を調整する必要があります。
 そのうえでこの映画を考えるべきでしょう。そのとき、どうしてもシステムと個人の問題をぼくは考えてしまう。この映画で描かれていることが、不愉快に思えてならなくなってしまうのです。これで泣いたとか言う人がいるのですが、いったい何に泣いたのかぼくにはわからないのです。
 
 山中貞雄という監督の名前は初めて知りました、というレベルの人間です。タイトルから察する限り、ぼくが避け続けてきた路線なので、一度観てみると面白そうですね。お教えいただきありがとうございました。
Commented by karasmoker at 2011-10-10 21:37
 コメントありがとうございます、ponさん。
 ぼくは本当に全く怒っておらず、意外なご指摘なのですが、仮にそう読まれるとするなら、ぼくのコミュニケーション方法それ自体に問題があるのかもしれません。「怒りのツボ」と言われてもそもそも怒っていないので、ぼくはぼくで、「怒っているように取られるツボ」がわからなくて困ります。しかしなるほど、もっと優しく優しく表現するべきなのか、と勉強にもなりますので、ありがたいところでもあります。

 ぼくは映画の内容についてそれなりに真剣に考えようとして、語ろうとしているだけです。その際、意見の異なる部分については硬い表現を用いることもあります。「この映画はいいですよねえ」「うんうん、いいですよねえ」という朗らかな相づちを打つときとは、文章の表情も変わってしまうのです。映画の内容について怒っているときは特に、というところです。真剣な顔=怒っているように見える、というのは実生活にも当てはまっていそうです。その意味では大変にありがたい指摘です。

『レイク・マンゴー』というのは知りませんでした。お教えいただきありがとうございました。ぜひチェックしたいと思います。
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