『評決』 シドニー・ルメット 1982

利口になるのはたやすいがそれじゃあ大事なものを失ってしまうんだ、という話にぼくは弱い。
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 原題『The Verdict』
今年の4月に亡くなったシドニー・ルメット監督。彼の作品は『12人の怒れる男』『セルピコ』『狼たちの午後』『その土曜日、7時58分』しか観ていないのですが、独特の重みがありますね。ふわっと観ることを許さないという感じがして、こちらもある程度コンディションを整えて集中度のあるときでないと、十全に鑑賞できないという印象があるのです。別に難解な作品とかいうのではぜんぜんないですから、あくまでもざっくりした印象の話ですけれど。

 さて、『評決』です。
 主演はポール・ニューマンで、彼は弁護士を演じています。いわば落ちぶれた弁護士として登場するのですが、今までぼくが観てきたニューマンの印象とはずいぶん違う役どころでした。『暴力脱獄』『タワーリング・インフェルノ』『ハスラー』などで見られた力強さとか、『明日に向って撃て!』『ハスラー2』『スティング』などで見られた頼れる兄貴感、師匠感はそこになく、冒頭のやさぐれ感が新鮮でした。ウィキによると、「『自分の長いキャリアの中で初めてポール・ニューマン以外の人物を演じた』ものだと述べた」そうで、ピンボールをする最初の横顔ショットはイーストウッドっぽくもありました。序盤のニューマンにイーストウッドのイメージを重ねたのはぼくだけではないでしょう。
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 落ちぶれ弁護士のニューマンは病院の訴訟事案を依頼されます。示談にもっていけばそれなりにお金がもらえるという仕事で、その方向ですいすい話が進みます。ところがどうもこれは示談で解決するのはよくないのじゃないか、という考えが持ち上がり、展開は一転。示談なんかやめじゃい、裁判するのじゃい、相手は大病院だろうが知ったこっちゃあるかい、ということになっていきます。
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 わりと最近に取り上げた『フィクサー』はこれと似たような展開ですね。与えられた仕事を言われたとおりこなせば自分にも利益がある。だけどその簡単な解決策を捨ててでも、たとえ危険な道であってもやらなくちゃいけないと感じて、立ち上がるというお話。

この手の話にぼくは弱いです。
 楽に賢く立ち回ろうと思えばできるけれど、それじゃあ男が立たねえよ、という話。
 世渡りのうまいオトナになることはできるけれど、それじゃあ俺自身が納得いかねえんだよ、という話。こういうのは、ベタな言い方ですが、「勇気を与えるお話」です。

 『ロンゲスト・ヤード』もそうでした。ここで言いなりになったほうが絶対賢いのはわかっている。でも、ここで賢くなって、本当にそれでいいのか? という問いかけがありました。記事でも書きましたが、刑務所に30年服役しているじいさんの台詞がいい。

 やっぱりね、「納得いかないことには納得いかない!」っていう姿は、どうにも思い入れてしまうんですね。そういえば久しくそうした自分を見失っているな、と思います。高校生の頃は思春期的苛立ちもあってそういう噛みつきもしたものでしたが、久しく忘れている。

 高校の頃にね、四月から五月にかけての放課後、一二年を対象に、「応援練習」なる謎の時間があったんです。応援部のいかつい二三年生が仕切るもので、グラウンドか体育館に一斉に集められ、そこで「応援歌」とか「凱歌」とかそんなのを歌わされるんです。これね、「応援練習」なのに「本番」がないんですよ。何しろ運動部が弱いし、学校を上げて試合を応援に行くとかいうこともない。さっぱり目的がわからない。
 だけど、いかつい二三年生が取り仕切っているものだから、周りの生徒はその直前、生徒手帳片手に一生懸命歌詞を覚えているんですよ。で、合唱するんですけど、歌わないとみんなの前に立たされるんです。
 バカじゃねえかとぼくは思った。何のためなのかさっぱりわからず、教師に聞いても「学校の伝統だ」としか言わない。だから歌わなかったので、みんなの前に立たされました。 でね、ぼくの他にもそういう生徒が数人いたんですけど、そうすると応援部の連中がぼくたちを取り囲んでガンを飛ばしてくるわけです。なんだてめえ、みたいな。
 でも、ぼくは歌わなかった。そのあと何か面倒なことにたとえなったとしても、別にいいと思った。いや、むしろ面倒になってほしいとすら思った。そうすればこの意味不明な「伝統」を問いただせると思ったから。
 結果、別にその後応援部に目をつけられることもなかったので、後日談は特にないのですが、ある意味で貴重な体験でした。おかげで高校時代は変な人扱いをずっとされていたのですが、そういう心性はぼくの根本にあるのですね。同時に、普段いきがっている同級生たちが余計バカに思えた。なんだおまえら、いつもは不良っぽくやっているくせに、こういうときは従順なのな!って。賢くやっているおまえらが、俺は本当に嫌いだよって。
 この手の小事件は「駐輪場事件」「予備校のために早退事件」などもあるのですが、別の機会に譲りましょう。
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余談が長くなりました。映画について語りましょう。
 クライマックスは法廷劇なのですが、法廷劇というのは「最も動きがなく、最も緊張感のある場面」のひとつと言えるのではないでしょうか。言葉のやりとりだけで、その後の人生が左右されるわけです。だから裏を返せば映画特有の快楽があるとは言えない。舞台や小説のほうが引き込まれるかもしれない。でも、物語的快楽が炸裂する装置であるのは確かです。
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 敵となる病院弁護の弁護団がまた腹の立つ感じでいいですね。ニューマンの味方はジャック・ウォーデンの先輩弁護士くらいしかいないのですが、向こうは大きな会議室でエリート然とした連中が作戦会議をしているんです。いけ好かない感じがたまりません。
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 シャーロット・ランプリングという人は目に特徴がありますねえ。似顔絵を描くときは円の下半分、半円の形のおめめになります。一重っぽい目ですね。そのときの顔はあまり素敵に思えないのですが、寝室のシーンでは違う目つきに見えて美人度が上がり、不思議です。我ながらなんて底の浅いことを書いているのでしょう。
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 うん、いや、映画自体はね、堅実なルメット節という感じで、このシーンを見よ! このシーンは焼き付くぜ! というのはあまりないかなというところなんです。スリリングさがわかりやすくあるものではなくて、「骨太なドラマ」という印象なのですね。でも、そこにこそ味があるのじゃあないかね、と言われれば、うむ、その通りであるなあと思います。
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 ただ、話のオチの付け方というか、解決の仕方はなんとかならんかったんかい、というのはあります。簡単に言うと、人情話っぽいんです。不利に転がってるぞ、どうするねん、どうなるねん、と思っていたら、正義がどうのということをニューマンが演説して、ひっくり返しちゃうんです。そりゃ映画を観ている側は確かにニューマンの裏の活躍を知っているし、彼に思い入れて観ているわけですが、陪審員はそうじゃないですからねえ。あれでいいってのは、なんだかなあ、です。そこはやっぱり、ニューマンの正義が別の誰かの、それこそあのランプリングの正義を突き動かして、彼女が出てきて、証拠とともに気持ちよく勝利すればよかった。正義がどうのという演説をしてそれでいいのかな、と思うんです。それを言わずしていかに描くか、みたいな部分が醍醐味じゃないのかなと。あれで勝てるってのはどうにももやもやします。あの証人の女性のインパクトとニューマンの演説だけやないけ、という気がして仕方ない。法廷劇としてのつくりは、うーん、です。

 でも、そう考えるとラストのラストもわかるんですけどね。あの電話を取らずにおいたのは筋が通っている。ランプリングは結局、ニューマンと対比される弱さの象徴でもあったのかなあと思います。なるほど、それを考えると、ランプリングの活躍に話を持っていかなかったのもわかるか。でもなあ、そこはリアルではあるけれど、でもなあ。

 いくぶんの迷いを持たせる結末です。あの終わり方をどう捉えるか、というのを語らせる映画であることは確かでしょう。今日も今日とてふらふらした話を続けてしまいました。ここまでです。
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by karasmoker | 2011-10-22 00:00 | 洋画 | Comments(0)
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