『いちご白書』 スチュアート・ハグマン 1970

当時の空気感、みなぎるみなぎる。青春とはこれみないちご白書なり。
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原題『The Strawberry Statement』
 10代のときに「『いちご白書』をもう一度」という歌を知って、はてそれはどんな映画なのだろうとずうっと思い続けていて、映画に興味を持ってアメリカンニューシネマ(本ブログにてはANCと呼称)などを知って、このたびついにリバイバル上映されると知るにいたっては駆けつけねばならず、新宿武蔵野館。DVD化されていないんですね、VHSならあるのですけれど。

 本作はノンフィクションを原作としており、学生運動の風景を描いた劇映画です。ばりばりのANC風味が心地よいです。タイトルが秀逸ですねえ。『いちご白書』はかなりキャッチーじゃないですか?「学生たちの主張など、いちご好きな学生が多数派かどうかと同じくらいに意味がないものだ」というような大学学長の言葉が由来だそうです。

 学生運動、という出来事については多少興味がありますねえ。今の時代に学生が団結して大学を封鎖したりなんてことは、もう日本では考えられないじゃないですか。仮に局所的に起こす輩がいたとしても、それが一大ムーブメントになることは現実的に想像できない。当時のぼくはまだ生まれてもおらず、父親と母親が出会ってすらいないであろう頃のことですが、時代特有のうねりとか熱気みたいなもんを象徴する出来事として、ちょっと惹かれるものがあるんです。

 映画はと言うと、大学のボート部に所属する青年が、学生運動をしている女子に出会い、その中に入っていく話です。と言っても、たとえば大島渚の『日本の夜と霧』みたいな、ばりばり議論をぶつからせ合うものでもないし、タッチとしては全体的に、淡い青春的な感じが色濃かったですね。その中で随所随所、学生運動の風景が描かれていて、熱気よりもけだるさがありました。みんなで集まって雑魚寝したりしてね。

 本作の抗議運動のとっかかりとしては、予備役将校の学校(RTOC)を大学に設置するかどうかで揉めたのが契機となっているらしく、この辺はぼくにはぴんと来なかったところです。ベトナム戦争に対する反戦運動との絡みで盛り上がったようです。ただ、それはあくまでもひとつの契機なんですね。それ以外にも、いろいろと若者の怒りたいことが出てきたりして、一挙に学生運動として盛り上がったわけです

 そういうのって、あるよね、と思います。今夏に起こったフジテレビに対するデモも似たところがあるように思います。あれは偏向報道だとか何だとかって言っていたけど、いちばんの焦点はたぶん違うと思うんですよ。あのデモはね、要は「韓国がきらいー!」って大声で言いたかったのが根本にあったんですね。でもさすがに「韓国きらいー!」だけでは人は聞いてくれない。そういうときに、あれが丁度いい出来事だったわけです。「韓国きらいー!」って大声で言うための「丁度いい理屈」だったんでしょう。
「いやいや、韓国だからどうのこうのではないんです。公共の電波を通して偏重しているのが」うんぬん、というのは理屈をつけたいだけだったはずです。公共の電波うんぬんで怒るなら、そんなところに突っ込むより先に原発報道に注力するべきなのに、たかだか一テレビ局の番組編成に怒っているのは道理として妙でしょう。やっぱり「韓国きらいー!」が最初にあるんです。ネットの罵言の数々はそのことを日々示してくれます。

『いちご白書』においても、あるいは学生運動に参加した多くの人にとってもそういう節はあったんじゃないかなあと思うのですが、いかがでしょうね。日米安保がどうの、ベトナム戦争がどうの、それを本当に本当に真剣に考えていた人たちもいたでしょうけれど、「なんか、ノリで」とか「まあ確かに今の世の中にはなんとなく不満もあるし」とか「なんか大人たちの言うことは信用できないし、てか単純にむかつかね? 警察とかちょーえらそうじゃん」とかそういう人たちもいっぱいいたのでしょう。現に本作の主人公も、別に大学に対して憤っている感じではないんです。ああ、みんなこんな感じなのかあというノリに巻かれているんですね。彼女が運動しているからってのもあるし。

 恋人が運動家だから、みたいなのもおそらく当時は多かったのでしょう。自分としては興味はないけど、恋人が熱心で、興味ない風に振る舞って別れることになるのもあれだから一緒にやる、みたいな人もいたはずです。

 そういう意味で言うと、『いちご白書』というタイトルは実に綺麗です。あっぱれな表現であるなあと思います。ウィキによると、当時の学長の発言の意図はこのようなものです。「彼」というのは学長のことです。
「学内ラジオ放送局 WKCR-FMによる1988年のインタビューによれば、彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明抜きでのものなら、彼にとっては苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない、というのが彼の主張である。」

 これはねえ、教育過程を卒業してある程度経つと、「わかるなあ」なんですね。「大人は汚い!」みたいなことを10代の頃とか学生の頃って考えがちだと思いますけど、世の中のこととかなーんにも知らずに理想論をぶっていても、そりゃあ「いちごが好きかどうか」の話と一緒だよね、ってことです。「苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」の言わんとするところは要するに、「聞く価値がないんだよ」ってことですからね。「甘いよ」ってことでもありますね。

学生側にしても、大人になって振り返ったら甘酸っぱい思い出になったりするわけで、その意味でもこれはまさしく「いちご白書」です。

 考えてみるに、10代や学生の世代って、一言で言うに「理想論の世代」だと思うんです。世間知らずだけれどいろんな成功物語なんかにはそれなりに触れてきて、一方で世の中のおかしな部分なんかも指摘できるくらいには目も肥えてきて、「世の中はこれじゃあ駄目だ! こうあるべきなんだ!」っていう理想論が生まれる。でも大人からすると、そんな理想はみーんな抱いてきたんだよと。それが理想だとわからない、世の中の複雑さがわからないうちは、悪いけど聞く価値がないんだよ、っていう。この辺のわかりあえなさ。

 ただ、そうやっていなそうとする大人の側にも後ろめたさはある。どこかの地点で理想を捨てた自分を自覚するし、あるいはその理想を叶えられずにきた自分を弁護したい気持ちもある。大人になるってことは、言い訳がうまくなることでもあるんですね。

 なんか映画とずいぶん離れた内容を続けていて恐縮ですが、本作は全体を通してはむにゃむにゃしている部分も多いです。このままむにゃむにゃ終わられたらきついな、という心配もありました。でも、随所随所で挟まる音楽がビウティフル。ワンダフル。空気感がみなぎるみなぎる。


ラストもよかったですねえ。この映画のラストはいいです。

 講堂みたいなところに学生たちが集まって輪を囲み、一斉に歌を歌うんですが、そこに警官隊が乗り込み、催涙ガスみたいなのを撒布しながら検挙するんです。このクライマックスのえらいこっちゃ感は素敵でした。学生たちの営みが一種の宗教的儀式にも見え、それが粉々になっていくシーンには鳥肌が立ちました。ANCの醍醐味がありました。

 学生運動とANCというのは、この上なく相性のいいテーマでありますね。とにかく反抗する、でも、反抗する先の像は結べない若さ。『いちご白書』も、何か訳のわからないままの波に翻弄されている感が面白い。

 当時の空気も十分な知識も持っていないので、いろんなことを見落としているのだろうなあという自覚もあり、その点は恥じ入るところです。もっといろいろと触れねばなりません。その後で観るとまた違うように思う。そういう風に積極的に思わせてくれる映画でございました。順次全国公開ということですから、よければこの機会にぜひ、というところです。
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by karasmoker | 2011-11-23 00:00 | 洋画 | Comments(0)
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