『仁義なき戦い』5部作 深作欣二 1973-1974

善悪の地盤が端から壊れている、絆と生き方をめぐる人生譚。
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 間を開けつつ各作を観ておりまして、近頃に『完結篇』を観ました。まあ映画ブログたるもの名作はひとつでも多く取り上げておいたほうがよかろうっつうことで、『仁義なき戦い』。

 注:今回の記事はいつも通り、いつも以上に話がだらだらくねくねしています。ご注意ください。

しかしまあ二年以内に五作を続けて公開っていう勢いは、今の日本映画界では考えられぬハイスピードであります。1960年代から70年代にかけての日本映画は年に二作、三作を公開するシリーズものがばんばんつくられていたのですね。東宝で言えば怪獣もののほか『若大将』『クレージーキャッツ』、大映で言えば『座頭市』『兵隊やくざ』、松竹なら『男はつらいよ』。東映はシリーズもの華やかなりし時代を迎えており、『仁義なき戦い』のほか、高倉健主演の『日本侠客伝』『網走番外地』を筆頭に任侠ものが大量につくられ、菅原文太の『トラック野郎』もありつつ、ぼくの大好きな『女囚さそり』も公開。枚挙に暇ないとはまさにこのこととも言うべきシリーズ文化で、これでもごく一部に過ぎないのですから、いやあこの頃に映画を観まくった人というのは、もう本当に観まくったんだろうなあと思いますね。もちろん洋画もあるわけで、プログラムピクチャーの時代でもあって、二本立て三本立てが当たり前と来て、今よりも人と映画の距離が近かったのかなあと思います。DVD世代のぼくとしては、圧倒されるばかりの時代であります。
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『仁義なき戦い』がそれまでのヤクザ映画と違うのは、それまでのヤクザ映画が任侠(= 弱きを助け強気を挫く)的側面を有していたのに対して、暴力団組織同士の抗争を全面に描いたことであると言われます。本シリーズは「ヤクザ映画」というよりもむしろ、「政治映画」のニュアンスが非常に強いというか、いや、「政局映画」という言い方が伝わりよいのかもしれません。何々組の誰々を味方につければ何々組を圧倒できるぞ、いやしかしそうなると何々組の誰々が力を持って分が悪い、ここはひとつ別の何々組と示し合わせて、いやいやそうなるとこちらとしてはメンツが立たない、ここはやっぱり・・・・・・というきわめて政治的な出来事が繰り返されていくのであります。そこへ来てヤクザの世界とあって、血気盛んな若い衆が勝手に行動してお偉方の思惑がおかしくなったりしてぐちゃぐちゃになったりして、向こうにこっちの誰それを殺されたので大人しくしてはおれぬから復讐をするべきだと思うんだよね、というか復讐をしなかった場合向こうはこちらをなめてくるわけでそれは輪をかけてむかつくよねとても、殺しに行くよねこの流れだったら、的なことで血で血を洗う。ゼイウォッシュブラッド・ウィズブラッド。ゼアウィルビーブラッド。
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ちょいとぼおっとしていたりすると、あれ、これは誰と誰がどういう関係なのだっけ、というのがわからなくなったりするので、1回ちゃんと把握した上で2周目に入るとより面白く感じるかもしれません。ただ、名作と言われる本作でありますが、この映画が大好きである、この映画を悪く言うなんて信じられない、という人はたとえば、同じ役者が役を変えて別の作品で出てくる、ということについてはどう考えているのかは気になるところです。松方弘樹は1,4,5作目で出てきますが、毎回違う人物になってしまいます。北大路欣也は2作目の主役級の人物として登場し、壮絶な死を遂げるのですが、5作目ではぜんぜん別の組の幹部として出てきます。他にも、あれ、この役は前は違う役者だったぞ、というのもあって、その辺がもうひとつ大河性をなくしている感はあるように思うのですが、どうなのでしょう。公開当時の観客の人々は気にならなかったのでしょうか。「俺は2作目が大好きなんだよ、あの北大路欣也の役がねえ」と思っていたら5作目でぜんぜん違う人になっているのはいいのでしょうか。北大路欣也は北大路欣也で、「いやあ、ぼかあ2作目で死んだので」と断ったりはしなかったのでしょうか、その辺はいろいろと気になります。
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 そんな中にあって光るのは主役の菅原文太はもちろんのこと、山守という実に老獪な親分を演ずる金子信雄です。この人は5作すべてに出ていて、一貫して山守なので安心です。広能はもともと復員兵なのですが、山守組員に代わって殺人を行い、刑務所で出会った梅宮辰夫演ずる若杉と出会い、その後山守と盃を交わして極道の世界に入るのです。その後山守のために働いたり裏切られたりというドラマが広がっていくわけです。
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 五部作を見終えて思うこととしては、役者の変転、再登板なども鑑みるに、ひとつの貫徹した大河ドラマとしてはそれほど収まりがよくない、というのはあります。『完結篇』というからにはやっぱり、広能と山守の因縁に何か蹴りがついたりするとぴしっと締まったようにも思うのですが、そういうことではないようです。『完結篇』といっても、その後の『新・仁義なき戦い』もありますし、終わりは終わりで、「戦いは終わらないのであった」的なことになるし、この辺は実在の人物の手記から始まった実録ものの話でもあるから、映画的、物語的な完結性は持たぬのでしょう。
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 ヤクザものといえばこの前年、1972年にはあの『ゴッドファーザー』がありますね。あの3部作はもう、マイケル・コルレオーネの話じゃないですか。もともと堅気だったマイケルが跡目を継いで、そこからどう生きていくかっていう大河ドラマなのですが、『仁義なき戦い』は広能の話としての収まりはあれほどにはよくない一方、広がりも見いだしにくいところがあります。彼はあくまで一勢力で、それ以上の上位意志が方々で働いている、という構図があるため、混沌としています。『完結篇』ではもうほとんど刑務所にいて、出てきてからも何もしていないですね。

 ただ、物語的な収まりや起承転結のようなものが明確でないことが、映画的によろしくない、ということではぜんぜんありません。それであればこれほどまでに語り継がれ、愛される映画シリーズになるわけはないのです。
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『仁義なき戦い』が面白いのはひとつに、この映画においては、「善なるものは端からない」ということです。まさしく「仁義なき戦い」なのです。なにしろ題材はヤクザ同士のシマ争い、メンツ争い、シノギの削り合い、だまし合いばかし合いそして殺し合い。そこには初っぱなから最後まで、勧善懲悪は皆無です。これは実際の戦争に通ずる、きわめてメタフォリカルな構図です。

 話はそれますが、東映は1971年にあの『仮面ライダー』を放映開始しています。仮面ライダーとは何か。平成版はおくとして、こと昭和版のライダーシリーズというのは、善と悪というきわめてわかりやすい図式を用いたヒーローものなのです。
 ウルトラマンシリーズ、あるいはゴジラシリーズとは大きく異なります。ヒーローものを一緒くたで考えていると気づきにくいかもしれませんが、ウルトラシリーズは善と悪の話ではない。むろん、「地球を侵略する悪い宇宙人をウルトラマンがやっつける」的構図はいくつも見られはするものの、多くの話において、果たして人間は善か? 宇宙人や怪獣は悪と言えるのか? と問いかけるものがあります。

 『機動戦士ガンダム』はこのような「非・善悪図式」を採用しています。ジオン公国は地球に対して戦争を起こしますが、その大義は、「地球連邦からの完全な独立」。はっきりとした戦争行為で、どちらが悪と一概に言い切れるものではない。作中では残虐な殺人行為や過激な壊滅計画を行うなどして悪辣な印象をもって描かれますが、そこにあるのは「悪」ではない。戦争による作戦行為です。
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 物語において、善と悪の図式が採用されることがままありますが、そもそも我々の社会において、悪とは何か? 「倒されるべきわかりやすい悪」などというものがあるのなら、既に淘汰されていてしかるべきなのではないか? 我々は何かを「悪」と規定することで、自分たちの足場を保持、あるいは構築したいだけなのではないか?

 既得権益は悪だ、私利私欲をむさぼる政治家は悪だ。
 なるほど、ならば速やかに排除すればいい、しかしできない。
 なぜか? 
 彼らが権力を持っているからか? 
 しかし政治家とてただ一人の人間に過ぎず、彼が独り荒野で権力を叫んでも意味はない。 彼の持つ権力を支える人間や、そのシステムの存在があるんじゃないか。
 そうしたことを突き詰めたときに見えてくるのはつまり、「我々は何に支えられているのか」ということです。

 まだまだ話はそれますが、今年を表す漢字として、「絆」が選ばれました。絆、なるほど、それはいい言葉に思えます。とりわけ被災した地域の人々にとって、絆というのはとても尊いものに思えたことでしょう。絆は「善きもの」であると言えましょう。しかし、既得権益やら私利私欲の政治家やらの持つものもまた「絆」と言えるのです。何々さんには世話になったから手厚くしてやれ、選挙の際は是非に応援してやれ、というのも絆。記者クラブ同士仲良くやろうぜ、というのもまた絆。絆を尊ぶ人間が、他者の絆を糾弾するのはおかしな話と言えます。絆というと聖なるつながりに見えますが、何事も聖性だけに目を向けようとは虫がいい。その絆から離れたものにとって見れば、打ち砕くべきものに見えてくる。そしてぼくたち自身だって、絆にただ乗りすることで現在の生活を保てている。税金で私腹を肥やすな、税金の無駄遣いをして増税とはなんたることだと怒りながら、日本がアフリカの諸国よりもずっと贅沢な生活環境を維持できているというこの国民的既得権益には何も言わない。ぼくたちだって既にうまい汁を十分に吸っている。
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『仁義なき戦い』は暴力団の話ですが、暴力団はいわば「絆」の最たるものでもありましょう。疑似家族的な共同体を形成し、規律と連帯のもとに寄り集まっているのです。先の話で言えば、暴力団は「悪」と一般的には言えるのでしょうが、はて果たして簡単にそう言い切れるのか? 
 とりわけ戦後の混乱期において、共同体がぐちゃぐちゃで、法的信頼もずたずたの最中で、暴力団に入ることで救われる人間というのが確かにいたわけです。あるいはその暴力団の存在ゆえに救われた人々もまたいたのでしょうし、今だっていくらでもいるのでしょう。そうでなければこんなにも長い歴史を持つわけがない。今年にはあの大物芸人が、「暴力団とのつながりは駄目だ!」と言って引退して、だけれどその後もいろいろ報道が出たりして、ぼくたちはそれを笑って眺めたりしているけれど、あの後、何か変わったのか?
 彼はいわば捨て身で「暴力団とのつながりはアウトなんだ!」というメッセージを発したけれど、誰かそれをきちんと受け取ったのか? 芸能界の図式は変わったのか? あの後たとえ一件でも、暴力団とのつながりが明るみに出た芸能事務所や芸能人があるか? 結局は彼を揶揄して終了? 彼だけが特殊なケースで芸能感は真っ白? マジで信じられる? それじゃああまりにも実りがないと思うけれど、やっぱり暴力団に支えられている人はいっぱいいるなあと思えるわけです。

『仁義なき戦い』とはこれすなわち、善と悪の崩壊した状況の中での、絆をめぐる話とも言えるのです。そして一見、物語的な簡潔さを帯びないつくりであるこの作品は、そうであるからこそ、ぼくたちの社会の写し絵たり得る。終わりの見えないこの話、綺麗な勧善懲悪も起承転結もないこの話は、ぼくたちの人生の進行とも同じです。『仁義なき戦い』には人生がある、というのはあまりにもおおげさですが、人々が熱狂するのはひとえに、そうした延々の流転があるからだと思うのです。

 思いつきで書いているのでいつも通りいつも以上にだらだらしました。個人的にいちばん好きなのは4作目の『頂上作戦』。3作目で絡まりきった混沌がついに爆発したような4作目の熱量に惹かれました。初見の際には、ある程度構図を頭に入れたうえで観るのがお薦めと言えます。
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by karasmoker | 2011-12-16 22:00 | 邦画 | Comments(0)
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