『超・悪人』 白石晃士 2011

白石晃士流ジョーカー、炸裂。
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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 どうも年末年始は映画を観る気持ちが弱まっております。なんだかなぜだか映画を観る気にならないのであります。そんなわけで更新頻度が高まるまでは今しばらくお待ちいただければと思うのですけれども、まあこんなブログでありましても更新を待ってくれる方がいるのであろう、来たときに「更新されてないや」と思われるのは少し哀しい、というわけで、去年に書いておいた記事をひとつ上げておきます。年明け一発目を飾るには少し、というかかなり問題があるんじゃないかね、もっとみんながハッピーな気持ちになれるファミリー向けな作品などでご機嫌を伺ったらどうかね、というためらいもあるのですが、年明け一発目に白石晃士のエネルギッシュな怪作を取り上げるのも悪くは無かろうというわけで、『超・悪人』です。先に申し上げておきますが、まだ正月気分で惚けていたい場合は、そんな気分が抜けてからお読みいただければと思います。

『グロテスク』についてはここで何度も名前を挙げていますが、あの映画が本当に危険なのは見た目の残虐さではないんじゃないか、と最近考えました。『グロテスク』は変態男に付き合いたてのカップルが拉致され、拷問される映画で、その過激なゴア描写にどうしても意識が集中してしまうのですが、その単純な映画構造の裏面に、ぼくたちの認識を揺るがすような仕掛けが施されているのです。

 結論を先に言うならば、「あの変態男こそが観客自身である」ということです。実にアクロバティックかつ、挑発的かつ、危険に満ちた設定なのです。説明します。
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 大迫茂生演ずる変態男は川連廣明と長澤つぐみのカップルを路上で襲撃し、密室で磔にします。なぜそんなことを、という問いに対して、彼は言う。「感動させてほしい」と。生の感動、愛の感動を見せてほしい。二人のうちにそれを見いだすことができたなら、生きて帰すと約束する。彼はそう宣言して、数々の残虐な行為を開始します。

 このとき、観客にとって変態男は「他者」です。日常的感覚、社会的道徳の範囲で言えば、彼に感情移入できるわけがないし、拉致拷問して「感動」などと嘯くのは頭がおかしい。
 ただ、その一方で、観客は映画の進展に期待を抱いてしまう。そして、映画でひどい目に遭うのを観て、「感動」を得ようとしている自分たちに気づくことになる。
 そんなことはないって? ゼロ年代半ばに思いを馳せましょう。
 『グロテスク』はゼロ年代の日本映画の一面を、実に過激に、まっすぐに切り取っています。
  『世界の中心で愛を叫ぶ』を筆頭にして難病、死にオチの純愛映画が流行し、『恋空』を代表とするケータイ小説的な悲劇のジェットコースターが流行った。感動感動という言葉が嫌というほどメディアを駆け巡った。あれらに涙した観客がいるとするなら、その人々は『グロテスク』の変態男と同じことを求めていると言ってもいい。換言すれば、あの変態男は、死に至る受難の最中に「感動」があると信じ込む観客自身だとも言えます。
 
 なんとアクロバティックなことでしょう。観客が本当の意味で感情移入しているのは、あのカップルのどちらでもあり得ない。あの変態男でしかない。映画に「純愛」だの「感動」だのを求めている人間は、変態男と知らずのうちに同期するのです。90年代にはハネケの『ファニー・ゲーム』がありましたが、あれよりも遙かに鮮烈な皮肉です。

『グロテスク』に惹かれながら、この構造に気づかずにいた自分の不明を強く恥じ入るところです。読者の方から記事にコメントをいただいて気づくことができました。大変感謝しております。この映画はゼロ年代の純愛と感動を巻き込んでぶち殺す、最凶の恋愛映画ということができます。「泣ける純愛映画みたいなのを観たいんだよねー」という方に、ぜひお薦めしましょう。そして、もしも観た後で文句を言われたら、「何を言っているの? あなたの観たいものが、克明に描かれていたじゃない」と言ってあげればいいのです(ただしその場合、二度と映画の話をしてもらえなくなりますが)。

前置きが長くなりました。今回は『グロテスク』の監督が撮った『超・悪人』を取り上げます。そして、本作もまた、『グロテスク』同様に、認識を揺らしてくる映画でした。
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『超・悪人』の主人公は連続強姦殺人男です。『オカルト』でも狂人を演じた宇野祥平が演じていますが、あのときとはまったく異なる演技で、サングラスをしているのもあって途中まで気づきませんでした。

 映画は全編がハンディカム撮影で、白石晃士が得意とするモキュメンタリースタイルです。冒頭は十分以上に及ぶワンカットの長回し。描かれるのは、男が女性の部屋で住人の女性をレイプ殺人する様子です。
 去年、『レイク・マンゴー』を評したとき、「現代はネットの普及によって、以前よりもモキュメンタリーが困難な時代を迎えているのではないか」と書きましたが、白石晃士の作品はぼくの認識の甘さを教えてくれます。本作はニコ生的な、素人の生々しい自分語りをなぞっているのです。今後のモキュメンタリーの路線はこのような方面で花開くのではないかと思います。
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『グロテスク』はまだあの非日常的空間と劇映画的演出で毒素が中和されていた感がありますが、本作はそういうものがありません。あるのは日常的風景だけです。だからこそ、冒頭のレイプ場面は生々しくて、これは女性が観たら強い強い強い嫌悪を覚えることでしょう。本作を女性が観たらどう感じるのかは、とても知りたいところです。

前半でぼくは持って行かれたんですけれど、白石がうまいのは、このレイプの場面を長回しで撮ってショックを与えて引き込んだ後で、ふっと現実の、日常の場面に落とすところです。それもまあ言ってみれば気持ちのよくはない、けれど十分に今もこの街中で起こっているであろうコミュニケーション風景を切り取ること。レイプシーンの次の場面で描かれるのは、メイド喫茶を盗撮しているところです。ここの描き方はすばらしいというか、うん、面白い。ここには、フェイクだとは思えない現実味があります。
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 撮り方自体は視野の狭い、ハンディカムの定点撮影なんですが、ウエイトレスと男とのやりとりはものすごく面白い。ああ、こういうことはある、間違いなく日常で起こっている、と思わせる。ぼくは実はこのメイド喫茶のシーンがいちばん好きかもしれません。
 そしてこのシーンでは、男の「ジョーカー性」があらわになります。「ジョーカー性」とはつまり、「常識的で道徳的で正しいと信じる我々の自己像を、悪人が正直に照射してぶちこわす性質」のことですが、あるきわめて身体的な指摘が、彼をただの殺人レイプ魔として突き放すことを許さなくなります。それは別に、「彼が正しい」という種類のものではない。ただ、「我々が正しい」という基盤が狂わされる、ということです。あんなにも日常にありふれているであろうと思える場面で、そこを描き出すというのは、すごいの一言です。白石晃士って、正当に評価されていないと思います。
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『オカルト』『ノロイ』『バチアタリ・暴力人間』などがそうであったように、本作でも監督の白石晃士自身が登場人物として出てきます。清瀬やえこという人と一緒になって、この男を取材しに行きます。このくだりの長回しも没入を促すうえで大いに作用しています。監督と清瀬という二人の人物がレイプ魔に接触することで、物語は駆動します。
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 白石監督の面白さを一言で言うなら、「狂人」の描き方です。監督はその辺の取材やなんかをたぶんすごく行っていると思います。彼の描き出す狂人は、他の監督の手つきよりもはるかにリアルというか、ああ、狂人ってこういうものだな、と思わされる。
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 今回の男で言うと、怒りの沸点がものすんごく低いというか、瞬間的に怒り出すんです。 それまでにこやかだったのに、ちょっと言葉を間違えただけで一秒後にぶん殴ってくる。 これはねえ、怖いですよ。本当に地雷原を歩いているようなものですから。

 やっぱりね、狂っている人ってのは、調節弁が働かない人なんでしょうね。ためらいがないというか、こうだろうと思ったらもう、途中の細かいこととかは何も見えなくなる。こんなことしたら相手はこう思うだろうから、とかそういうのがないんです。でも、だからこそ、狂人というのはこちらの認識を揺らしてくるんです。近代という「狂気の歴史」の中で、常識から逸脱するものを檻に閉じ込め、それを狂気と呼ぶようになった。しかし、常識などというものはたかだか「社会的な、なんとなくの合意」に過ぎない。ジョーカー的な狂人はそういうものを信じない。ゆえにときとしてこちらの欺瞞を有り体もなく告発する。
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この映画の殺人レイプ魔が、ただの暴力的で破壊的な人間だったら、単に突き放して観られると思うんです。『バチアタリ・暴力人間』の二人組にはその色合いが強すぎたようにも思うし、AVのレイプものを観てもただ不快でしかないのは、ただ単純に嫌なものでしかないからです。でも、『超・悪人』は異なる。狂っているとか、壊れているとかいうのがどういうことなのか、今一度考えるように仕向けてくる。
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 本作でも終盤、実にアクロバティックな展開が起きる。男を徹頭徹尾嫌悪して観ていると、あの終盤はレイプ魔肯定的ファンタジーという不快なものにしか見えないかもしれない。というか、「普通に観れば」そういうものに見える。

 ただ、ぼくにはそうは思えなかった。これが映画の怖いところです。
『時計仕掛けのオレンジ』だって、最悪なレイプ魔アレックスが人間性を喪失したとき、どうしようもない気持ちになったりしたでしょう。悪人が処罰されてハッピー、ではなかったはずです。この映画はそれを裏返している。悪人が愛を成就して不快、だけでは収まらない。これは何なのだろう、ということを考えているのですが、はあ、そろそろ疲れました。続きはまたの機会にしようと思います。女性がどう観るのか、が気になるところではありますね。
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by karasmoker | 2012-01-04 00:00 | 邦画 | Comments(2)
Commented by 世田谷の男 at 2012-01-04 08:59 x
マイペースな更新楽しみにしています。
ことしも頑張ってください!
Commented by karasmoker at 2012-01-04 21:30
ありがとうございます。それなりにやっていくのでございます。よろしくお願いいたします。
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