『ゾンビーノ』 アンドリュー・カリー 2007

使役されるゾンビを通して、過去と未来を描く離れ業。
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ponさんよりお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

原題『FIDO』
 映画という表現技法が発明した、開拓した面白みというのは数多くありますが、その中の代表格のひとつが、ゾンビという存在でしょう。世間一般には「永遠のキワモノ扱い」だと思うのですが、それもまた称号であって、死者という存在でありつつも幽霊のようなおどろおどろしさもなく、ファニーさがある。ゾンビ映画が大好きだ、という人は世の中に多いですが、それもうなずけるところです。
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 ぼくは個人的にゼロ年代を「ポスト・ロメロの時代」と位置づけているのですが、なるほど本作もまたその例証となるような映画でありました。パッケージの様子からするにどうもあほくさい感じがあるかもしれませんが、その内容は結構深いというか、いろいろな寓意の見て取れる映画なのでした。コメディとしても愉快な一方、ゾンビという存在を通して社会の有り様を描く。ゾンビを通じた社会風刺はロメロが意識的に行っていたことですが、より鋭いものがあるな、と感じたのでした。

 本作では、人間を襲う敵対物としてのゾンビ像から跳躍して、ゾンビを使役する社会、召使いみたいにする社会が描かれています。ゾンビを制御する道具が発明され、ゾムコンという会社が「あなたの家にもゾンビを置きませんか?」と宣伝するような社会なのです。
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 それでいて面白いのは、舞台となる街の風景はあからさまに50年代のアメリカであるということです。挿入される歌曲も、演出も、画の感じも、すべてが古き良きアメリカみたいになっている。そこにゾンビがいて、奴隷的な存在として登場するわけです。
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ネット上の論評をいくつか見るに、公民権運動時代のアメリカを模しているというのが目につきました。つまりはゾンビ=「奴隷としての黒人」というわけです。なるほどその寓意もあるのですが、ぼくはむしろ違う方向の想像を膨らませていました。
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 と言いますのも、近頃ぼくは未来のロボット技術に興味を惹かれていて、この映画におけるゾンビはロボットのようであるな、と感じていたのです。この映画が面白いのは、ゾンビという存在を描くことで、現実の過去の出来事としての黒人奴隷、あるいは現在まで続く人種差別、そして未来に起こりうるであろうロボットの登場までをも感じさせるところなのです。ロボットを通して差別社会を描くというのは、既にあの『鉄腕アトム』でなされているのですが、ゾンビという要素がこれまた別の色合いを与えてくれるのです。
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 ところで、原題の『FIDO』はファイドと読み、これは主人公の少年の家で使役されているゾンビの名前です(主人公の父親は「ゾンビに名前なんてつけるな」というのですが、この辺の細かい部分にも作り手のリアリティへの配慮が行き届いています)。ぼくがロボット映画として本作を観ていたのは、このファイドがフランケンシュタインの怪物に見えたからです。
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 フランケンシュタインの怪物というのは、一般的に人造人間、アンドロイドということになるのでしょうが、果たしてそれは正確な捉え方なのでしょうか。といいますのも、フランケンシュタインの怪物というのは人間の死体からつくられているのです。脳も死体のものなのです。だからあれはロボットとはまったく違っていて、むしろゾンビに近いのです。ですが、一般的には「人造人間」ということになっているようです。はて、いろいろ考えて頭がくちゃくちゃしてきました。ゾンビ、人造人間、ロボット、そしてそれに向き合う人間。それぞれにどういう境界が設定可能なのか。『ゾンビーノ』はそんなことまで考えさせます。
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 ゾンビにせよロボットにせよ、そこに人格はありません。この部分は、公民権運動時代のアメリカと本作がつくられた現代を大きく分かつところです。「黒人は奴隷なのだから人格や権利など考えてやる必要はない」というのはもう昔のことになりましたし、たとえ国々、地域での差別はあるにせよ、「人間性を認められていない人間」は、歴史を通してだんだんと少なくなりつつあるはずです(うむ、この辺の言い方はちょっと複雑ではあるのですが)。

だからぼくが面白いと思ったのはそこではなくて、人間性がないものに対して人間性を感じる人々の振るまいについてでした。主人公の少年も、母親も、ファイドを大事にします。ゾンビだから人間性はないはずなのに、人間のように見えてくる。これはロボットの問題に近しいのです。たとえばこんなテクノロジー。

人間ならざるものに人間性を見いだす、というのは、昔から人間がやってきたことで、宗教とはそういうものです。迷信の類にしてもそうですし、類例を示すまでもないことです。現代では宗教よりもアニメのキャラクターなどでそれが見られるようになってきたように思います。これもまた枚挙に暇がありません。ネットにしたってそう。これは人間性の有無の問題とはずれますが、現実の人間関係よりもネット上のコミュニケーションが大きい、という時代に生きているわけです。社会評論ぶって恐縮ですが、リアリティの質が変容してきているのですね。

 ぼくたちにとって他者とは何か。ゾンビという存在を用いて、そうしたことを考えさせる。また同時に、ネットに見られるように、公民権運動とつなげて人種差別の議論もできるのかもしれない。パッケージの印象から、また映画の感じからして、チープで退屈なゾンビコメディと思われるかもしれませんが、いやいや、これはなかなかいろいろ語らせる映画でした。50年代を模した風景でのゾンビ映画であると同時に、ロボットSF的な意味合いを持つ作品としてもお薦めできるという、離れ業をやってのけています。まだまだ語ろうと思えばいくらでもできそうですが、疲れましたので、ここまでにします。
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by karasmoker | 2012-01-08 22:00 | 洋画 | Comments(4)
Commented by pon at 2012-01-10 10:46 x
こんにちわ。あけましておめでとうございます。今年もユニークな映画評を期待しています。新年早速取り上げていただいてありがとうございました。添付のロボット動画のあの大きく開いた口の中に、別の物を入れた人はいないのでしょうか?気になります。町山氏がこの映画からキンゼイレポートの話をしていたのを思い出しました。お疲れのようですが、ご自愛ください。
Commented by karasmoker at 2012-01-10 19:28
コメントありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
ロボット技術が進展していくと、ゾンビ映画も変容していくことであろうと思いますね、いつか将来には実際のロボットを用いたゾンビ映画なんかも出てくるだろうなあと予言します。人間に似せたロボットをつくる際に、いわゆるラブドールは肌の質感などを再現するうえで活用されているようです。
 またのコメントをお待ちしております。
Commented by pon at 2012-01-11 00:22 x
こんにちわ。オリエント工業、恐るべしですね(笑)。最近、管理人さんの嫌いなノロノロゾンビを見たのでお知らせします。久しぶりの傑作邦題「ゾンビ大陸 アフリカン」(爆)ですが、中身もタイトルに負けず、あまりにも弱いゾンビに、わざわざ危機に陥ってるとしか思えない不可解な行動の登場人物たちが、なかなかいい味でした。その辺にイラッとしない人にはおすすめです。月末公開です。
Commented by karasmoker at 2012-01-11 01:47
その手の変な映画が好きな人を知っているので、その人にぜひお勧めしておこうと思います。ぼくはかなりの高確率でスルーし、ずっと後になってから観ることになりそうであります。
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