『フロウ ~水が大企業に独占される!~』 イレーナ・サリーナ 2008
この映画を観て考えたこと。

数年前にやっていた「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」は毎週チェックしていた、というわけでもなくわりと見逃しているため、あらためて興味深いものを観てみようと思いまして、久々にドキュメンタリーを取り上げます。
そういえばぼくはコンビニ等で水を買う、ということを日本国内に限って言えばおそらく一度もしたことがないですね。昔インドに行ったときにはさすがに水道水で暮らす勇気はなかったので売店で買っていましたが、日本での生活では水道水で満たされまくっている人間なのです。水を買う、という生活行動がぼくの中に一切組み込まれていないです。
東京の水はまずい、みたいなことをよく言うと思うんですけど、ぼくは別に気にしないです。放射性物質の問題となるとまた別ですけれど、それでも水を買う気にはならなかったです。っていうかね、震災後の放射性物質がどうしても気になる、という場合は別にいいんですけど、そうじゃない理由で今、冷蔵庫で水を冷やしている人はいったい何なのだと思うんです。水がうまいだのまずいだの言っている人たちにはかなり距離感を覚えます。どうせボルビックだろうがエビアンだろうが六甲のおいしい水だろうが味の違いなんてわからねえくせに、なんでわざわざフランスの水を取り寄せて飲んでいるのかが意味不明です。洗練された人々の中にはお料理をつくる際も水道水ではなく、ミネラルウォーターを用いる方がいらっしゃるそうですが、かあ、ぜってーわかんねえだろと思うのです。水道水でつくったスープとミネラルウォーターでつくったスープの味が違うの?
なんていけ好かないんだ! そのくせ化学調味料とかには無頓着だったりする人もいるのでしょう。水道水には消毒薬がとか塩素がうんちゃらとかごちょごちょ言うくせにファミレスで飯を食ったり冷凍食品を買ったりしているというのはもはやぜんぜんわけがわかりません。正体不明の化学調味料がいっぱい入っているよ! いったい何なんだと言いたくなります。もう自分は完全に舌の肥えたグルメであるってんなら別だけど、そうでもねえのに水を買っているやつがわからない。せめて国内産の水を買うならまだしも、海外の水の売り上げに貢献し続けるのもわからない。
ふう、水を買っている人を敵に回し続けるのもどうかと思うのですが、まあこれはこれでドキュメンタリーの内容にもリンクする話ですからよいのです。
少し落ち着いて話しますると、「水を買う」という行為には、「手軽に得られる贅沢感」があるのではないか、というのがぼくの分析です。水は買わなくてもいいものじゃないですか、言ってしまえば。でも、そんな水を買うことによって、必ずしも必要ではないものをあえて買うことによって、贅沢な感じが得られるわけです。贅沢というのはいわば、「生活必需ではないものを購入すること」ですが、裏を返せば、贅沢な気分を得るには必需でないものを購入する必要があるのです。そうなったときに、必需性が低ければ低いほど、贅沢さの値が相対的に上昇するのです。しかし、じゃあ無意味なものを買えばよいのか、たとえば怪しげな露天商が売っているゴミみたいな勾玉などを買えばよいのかといえばそれは違っていて、なぜなら勾玉では「さすがに無意味すぎる」とさすがに気づくからです。
ここがお茶やコーヒーでないのもポイントで、お茶やコーヒーだと味があるので、「いい具合に、無味」ではないのです。お茶やコーヒーの「味」を求めると、味の分だけ付加価値が生まれてしまうのであり、付加価値を生み出せば必需性が高まるので、贅沢さが得られないのです。いや、もっというなら、たとえば缶コーヒーなどは華麗なるアーバンライフイメージにとってむしろマイナスで、コーヒーはドトールとかエクセルなんとかで飲むのがスタイリッシュなのです。だからぼかあ思うのですけれど、「水を買う人」と「缶コーヒーを買う人」はたぶん親和性が高くないと思います。カフェに行く人は水を買う人と親和性が高いでしょう。
何の根拠もないことをいつになくだらだら書いているのですが、やっとこさ映画の話です。本作は大企業がアフリカやインドなどに乗り出し、水道局の民営化を果たして牛耳ってしまったり、自然の川の流れを勝手に変えて水を独占しようとしたりという状況を告発するドキュメンタリーです。
いろいろと内容を書き連ねることもできますが、それは実際に観て確かめてもらうことにして、最も簡単な感想を要約すれば「ひどい話だ」になります。これまで意識しなかったあれやこれやがわんさか出てくるし、ひどい話だと誰もが思うでしょう。
ただ、この手の映画で、大企業を批判して事足れりとするのはあまりいい受け止め方ではないように思います。大企業があんなことやこんなことをしている、よくない! というのは実に簡単な話です。でも、それはつまり、大企業だけに責任を押しつける行為なのですね。残念ながら、そしてある意味で幸いなことに、社会はそう単純ではないわけです。
この企業がこんなひどいことをしているよ! と言っていろいろと話題が出てきますが、ぼくたちはその恩恵に間違いなく浴しているし、関係しています。その企業の規模が大きいということは、その企業と取引している会社も数多くあるわけで、その会社に勤めている人々は取引によって得られる利益に助けられている。そしてその家族は社員の給料によって養われているし、経済はその家族が消費活動を行うことで回っている。
たとえばこの映画を観て、「なるほど、この企業はこんなひどいことをしているのか、この企業の商品を買うのはやめよう」と思っても、それでお話は終わりません。その企業のおかげで飯が食えている人はいっぱいいる。どこでどうつながっているのかすべてを見通すことなどできはしないから、ぼくたちはその企業を叩ける立場にないかもしれない。その企業が行っている善行だってあるかもしれないし、ぼくたち自身がそれに助けられているかもしれない。これはこのタイプの映画を観る上で大事な考えだと思います。
もっと端的に言えば、途上国にとってみれば先進国など既得権益の固まりでしょう。格差社会といったところで、スナックや飲み物片手にネットをのぞけるぼくたちは格差世界のずいぶんと上の方にいるわけです。途上国の飢えた人々の姿を見ると心が痛む。これはおおかたの場合、欺瞞です。24時間テレビなどを観て、欺瞞だなんだというけれど、土台ぼくたちの生活はものみな欺瞞です。この映画は大企業を告発する映画であると同時に、ぼくたち自身をも抉ってくるのです。
結局ぼくは何が言いたいんだ? ということを探しているんですが、なかなか見つかりませんね。かろうじて言えることは、他者の欺瞞を他者のものとして観ることと、自分もまたその欺瞞システムの一部だと受け止めることは違う、ということ。それがこの映画を通して考えたことであります。
では、どう違うのか?
それは一概には言えません。
結局行動を変えないなら同じだろ。
その通りかもしれない。
ただ、その知的態度の違いは、たとえば無意味な攻撃を食い止めることはできるかもしれない。あいつが悪いんだ、あいつをやっつければうまくいくんだと言って、全体像も見えないのに何かに制裁を加えて取り返しのつかない事態を招くことは、避けられるかもしれない。であるならば、ぼくたちはぼくたち自身の有責性について自覚的であるべきだろうし、それはひいては無責任な政治的決定を避ける政治的振る舞いにつながるんじゃないだろうかとも思うのです。
そう考えると、水を買う人々に対して感じるある種の欺瞞性についてもぼくは、今一歩踏みとどまり、別の考えを巡らせるべきなのかもしれません。水を買うのもありなのかもしれませんし、水を買う人々によってぼくの生活は何かしらの形で支えられているのかもしれません。書きながら考えが変わってくるくる。これぞ語りの醍醐味なり。
なんだかぜんぜん映画について語りませんでした。たまにあるそういう回です。ただ、ドキュメンタリーというのは、描かれたものを遠くのものとして観るのではなく、そこに自分はどのように関わっているのだろうかと意識して観るべきものなのだろうなとは思うのであり、自分の考えるあれこれが取り出されてくるものなのであります。
前半と後半でぜんぜんトーンが違う記事なのでした。
おしまい。

数年前にやっていた「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」は毎週チェックしていた、というわけでもなくわりと見逃しているため、あらためて興味深いものを観てみようと思いまして、久々にドキュメンタリーを取り上げます。
そういえばぼくはコンビニ等で水を買う、ということを日本国内に限って言えばおそらく一度もしたことがないですね。昔インドに行ったときにはさすがに水道水で暮らす勇気はなかったので売店で買っていましたが、日本での生活では水道水で満たされまくっている人間なのです。水を買う、という生活行動がぼくの中に一切組み込まれていないです。
東京の水はまずい、みたいなことをよく言うと思うんですけど、ぼくは別に気にしないです。放射性物質の問題となるとまた別ですけれど、それでも水を買う気にはならなかったです。っていうかね、震災後の放射性物質がどうしても気になる、という場合は別にいいんですけど、そうじゃない理由で今、冷蔵庫で水を冷やしている人はいったい何なのだと思うんです。水がうまいだのまずいだの言っている人たちにはかなり距離感を覚えます。どうせボルビックだろうがエビアンだろうが六甲のおいしい水だろうが味の違いなんてわからねえくせに、なんでわざわざフランスの水を取り寄せて飲んでいるのかが意味不明です。洗練された人々の中にはお料理をつくる際も水道水ではなく、ミネラルウォーターを用いる方がいらっしゃるそうですが、かあ、ぜってーわかんねえだろと思うのです。水道水でつくったスープとミネラルウォーターでつくったスープの味が違うの?
なんていけ好かないんだ! そのくせ化学調味料とかには無頓着だったりする人もいるのでしょう。水道水には消毒薬がとか塩素がうんちゃらとかごちょごちょ言うくせにファミレスで飯を食ったり冷凍食品を買ったりしているというのはもはやぜんぜんわけがわかりません。正体不明の化学調味料がいっぱい入っているよ! いったい何なんだと言いたくなります。もう自分は完全に舌の肥えたグルメであるってんなら別だけど、そうでもねえのに水を買っているやつがわからない。せめて国内産の水を買うならまだしも、海外の水の売り上げに貢献し続けるのもわからない。
ふう、水を買っている人を敵に回し続けるのもどうかと思うのですが、まあこれはこれでドキュメンタリーの内容にもリンクする話ですからよいのです。
少し落ち着いて話しますると、「水を買う」という行為には、「手軽に得られる贅沢感」があるのではないか、というのがぼくの分析です。水は買わなくてもいいものじゃないですか、言ってしまえば。でも、そんな水を買うことによって、必ずしも必要ではないものをあえて買うことによって、贅沢な感じが得られるわけです。贅沢というのはいわば、「生活必需ではないものを購入すること」ですが、裏を返せば、贅沢な気分を得るには必需でないものを購入する必要があるのです。そうなったときに、必需性が低ければ低いほど、贅沢さの値が相対的に上昇するのです。しかし、じゃあ無意味なものを買えばよいのか、たとえば怪しげな露天商が売っているゴミみたいな勾玉などを買えばよいのかといえばそれは違っていて、なぜなら勾玉では「さすがに無意味すぎる」とさすがに気づくからです。
ここがお茶やコーヒーでないのもポイントで、お茶やコーヒーだと味があるので、「いい具合に、無味」ではないのです。お茶やコーヒーの「味」を求めると、味の分だけ付加価値が生まれてしまうのであり、付加価値を生み出せば必需性が高まるので、贅沢さが得られないのです。いや、もっというなら、たとえば缶コーヒーなどは華麗なるアーバンライフイメージにとってむしろマイナスで、コーヒーはドトールとかエクセルなんとかで飲むのがスタイリッシュなのです。だからぼかあ思うのですけれど、「水を買う人」と「缶コーヒーを買う人」はたぶん親和性が高くないと思います。カフェに行く人は水を買う人と親和性が高いでしょう。
何の根拠もないことをいつになくだらだら書いているのですが、やっとこさ映画の話です。本作は大企業がアフリカやインドなどに乗り出し、水道局の民営化を果たして牛耳ってしまったり、自然の川の流れを勝手に変えて水を独占しようとしたりという状況を告発するドキュメンタリーです。
いろいろと内容を書き連ねることもできますが、それは実際に観て確かめてもらうことにして、最も簡単な感想を要約すれば「ひどい話だ」になります。これまで意識しなかったあれやこれやがわんさか出てくるし、ひどい話だと誰もが思うでしょう。
ただ、この手の映画で、大企業を批判して事足れりとするのはあまりいい受け止め方ではないように思います。大企業があんなことやこんなことをしている、よくない! というのは実に簡単な話です。でも、それはつまり、大企業だけに責任を押しつける行為なのですね。残念ながら、そしてある意味で幸いなことに、社会はそう単純ではないわけです。
この企業がこんなひどいことをしているよ! と言っていろいろと話題が出てきますが、ぼくたちはその恩恵に間違いなく浴しているし、関係しています。その企業の規模が大きいということは、その企業と取引している会社も数多くあるわけで、その会社に勤めている人々は取引によって得られる利益に助けられている。そしてその家族は社員の給料によって養われているし、経済はその家族が消費活動を行うことで回っている。
たとえばこの映画を観て、「なるほど、この企業はこんなひどいことをしているのか、この企業の商品を買うのはやめよう」と思っても、それでお話は終わりません。その企業のおかげで飯が食えている人はいっぱいいる。どこでどうつながっているのかすべてを見通すことなどできはしないから、ぼくたちはその企業を叩ける立場にないかもしれない。その企業が行っている善行だってあるかもしれないし、ぼくたち自身がそれに助けられているかもしれない。これはこのタイプの映画を観る上で大事な考えだと思います。
もっと端的に言えば、途上国にとってみれば先進国など既得権益の固まりでしょう。格差社会といったところで、スナックや飲み物片手にネットをのぞけるぼくたちは格差世界のずいぶんと上の方にいるわけです。途上国の飢えた人々の姿を見ると心が痛む。これはおおかたの場合、欺瞞です。24時間テレビなどを観て、欺瞞だなんだというけれど、土台ぼくたちの生活はものみな欺瞞です。この映画は大企業を告発する映画であると同時に、ぼくたち自身をも抉ってくるのです。
結局ぼくは何が言いたいんだ? ということを探しているんですが、なかなか見つかりませんね。かろうじて言えることは、他者の欺瞞を他者のものとして観ることと、自分もまたその欺瞞システムの一部だと受け止めることは違う、ということ。それがこの映画を通して考えたことであります。
では、どう違うのか?
それは一概には言えません。
結局行動を変えないなら同じだろ。
その通りかもしれない。
ただ、その知的態度の違いは、たとえば無意味な攻撃を食い止めることはできるかもしれない。あいつが悪いんだ、あいつをやっつければうまくいくんだと言って、全体像も見えないのに何かに制裁を加えて取り返しのつかない事態を招くことは、避けられるかもしれない。であるならば、ぼくたちはぼくたち自身の有責性について自覚的であるべきだろうし、それはひいては無責任な政治的決定を避ける政治的振る舞いにつながるんじゃないだろうかとも思うのです。
そう考えると、水を買う人々に対して感じるある種の欺瞞性についてもぼくは、今一歩踏みとどまり、別の考えを巡らせるべきなのかもしれません。水を買うのもありなのかもしれませんし、水を買う人々によってぼくの生活は何かしらの形で支えられているのかもしれません。書きながら考えが変わってくるくる。これぞ語りの醍醐味なり。
なんだかぜんぜん映画について語りませんでした。たまにあるそういう回です。ただ、ドキュメンタリーというのは、描かれたものを遠くのものとして観るのではなく、そこに自分はどのように関わっているのだろうかと意識して観るべきものなのだろうなとは思うのであり、自分の考えるあれこれが取り出されてくるものなのであります。
前半と後半でぜんぜんトーンが違う記事なのでした。
おしまい。
ねぇ、おじいちゃんがまた冷蔵庫開けてなんかブツブツ言ってる。あっ、だめだって!おかあさん、おじいちゃんがペットボトルで頭洗ってるぅ。お母さん「ほっときなさい、ぼけてるんだから、止めるとまた噛み付かれるわよ。」 はぁい〜(娘)。
???
こんにちわ。去年見たドキュメンタリーの中で、もっとも衝撃的だったのは「100000年後の安全」でした。高レベル核廃棄物をどう処分するかという命題よりも、100年かけて作る国家的プロジェクトが10万年後にパンドラの箱である事をその時代の人にどうやって伝えるかが、テーマになっています。これは凄い。6万年以内に地球に氷河期が訪れる可能性や、戦争などの要因で現代の直系の人類が絶滅してしまうかもという前提で建築中です。歴史のサイクルから見てネアンデルタール人がそこにいる可能性をも視野に入れている。10万年の中でもっとも危険な要因は地震や天変地異じゃなく人類だと言い切っています。過去に宝物の伝説で掘り出した物が悪魔だったという映画を腐るほど見ました。おすすめします。
コメントありがとうございます。
ドキュメンタリーはこれまで観てこなかった分野で、観ようと思ったらいろいろあるなあと思い至り、ドキュメンタリーマイブームが来るんじゃないだろうかという状態です。おすすめいただき感謝いたします。
ドキュメンタリーはこれまで観てこなかった分野で、観ようと思ったらいろいろあるなあと思い至り、ドキュメンタリーマイブームが来るんじゃないだろうかという状態です。おすすめいただき感謝いたします。















