『ウォー・ゲーム』 ジョン・バダム 1983

ポスト冷戦構造を予見している作品
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 監督は『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・バダムですが、あの映画は心に残る一本であります。何かというとあの映画は「きらびやかなディスコで踊るトラボルタ」のイメージで語られるものでありますが、そのときの記事でも書きましたとおり、あの映画で大事なのは土曜日の夜ではない。狂騒と魅惑の土曜日を終えたあと、日曜を過ぎて、さて次の月曜日からをどう生きていこうか、という真面目なお話なんですね。若い頃に観ておくべき作品の一つと言えましょう。

 さて、『ウォー・ゲーム』です。今から30年も前の映画で、その内容や描写から強く時代性を感じる作品でありました。主人公の少年はパソコンいじりが得意で、学校のコンピュータにハッキングして自分の成績を書き換えてしまうような男の子なのですが、彼がふとしたことから宇宙防衛司令部の核ミサイル制御システムみたいなもんにアクセスしてしまい、実際の核戦争にまで発展するんじゃないか、こらえらいこっちゃ、という話です。
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高校生の少年がいくら特殊なパスワードを見つけたからと言っても、そんなたいそうなシステムにアクセスできるわけないじゃないか、核ミサイル制御システムがそんな簡単に外部からの侵入を許すわけないじゃないか、というのもね、まあ時代が時代のご愛敬ってなもんでしょう。なにしろ今から30年前にトリップして、パソコンの話をしたところで、普通の人々は何のこっちゃわからないでしょうからね。企業や官庁などは別としても、人々の感覚からすれば、「なんかコンピュータってのはすごいんだな」くらいの時代でしょう。日本にはインターネットがなかった時代ですし、コンピュータウィルスという概念さえ世界にあったんだかなかったんだかという頃です。
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そうは言いつつ、ぼくなどには実のところ、ハッキングやクラッキングというものが今世の中でどれくらいのもんになっているんだか、まるで見当もつきません。アノニマスなんて集団がどれくらいの破壊力を持っているのか、サイバー攻撃なんてものが戦争で用いられることがあるのか、この辺はさっぱりわからんちんです。
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 ただ、この映画で用いられた「外部からシステムを動かす」というアイディアはその後の映画でいろいろと利用されてきたわけで、その点面白い作品であるなあと思います。それとも何かこの映画にも元ネタがあるのでしょうかね。この映画で描かれていることは、実は冷戦崩壊後の世界をもちょっと予見している節がありますね。
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 この映画の時代は1983年で、まだ米ソ冷戦が続いていた頃です。劇中でも米ソの対立が主軸となっていて、米軍の宇宙防衛司令部の人々はソ連からミサイルが発射されるのではと戦々恐々としています。
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『ウォー・ゲーム』というのはその名の通りで、劇中で主人公の少年がアクセスしたプログラムは、まるでゲームのごとく、米ソの戦争をシミュレーションし始めます。そのプログラムがそのまま司令部のシステムに影響してしまい、司令官はじめ職員たちは「ソ連がミサイル攻撃を仕掛けてくるぞ!」「レーダーに反応があるぞ!」とてんやわんやになるのです。本当は何もないのですが、まさかそんなプログラムがあるとは知らない彼らは、本当に攻撃されるのではと怯え始めるわけです。
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 米ソの時代がはるか昔となった現代ですが、『ウォー・ゲーム』は興味深い構図を描き出します。といいますのも、米ソの時代というのはつまり、超大国がそのシステムを揺るぎなく保持できた時代でもあるわけです。確かに米ソは互いに脅威を感じていた。ただその対立はつまり、明確な敵を描き得た、ということでもありました。アメリカはソ連を相手にすればそれでよかった。
 ですが、冷戦が終結して911を迎えるとそうはいかなくなった。どこにいるのかもわからないテロリストが相手になってしまった。『ウォー・ゲーム』はそこが面白い。この映画で本当に脅威だったのはソ連じゃない。そして実はコンピュータの暴走でもない。脅威なのは「個人が強大なシステムを脅かせる」ということです。もちろん現実的に考えて一人のクラッカーが国防を左右することはできないでしょうが、超大国に比べれば遥かに小さな集団でも、手段如何によって超大国を相手取れてしまう、ということです。今のところ、テロリストの手に核が渡ったなんて映画みたいな出来事は起こっていないようですが、それでも北朝鮮程度の国力で、核を持つだけで周辺国をびくびくさせられる。『ウォー・ゲーム』は、一個の「安定した」米ソ対立時代から、脅威が拡散する時代への変化を予見したものと言えるのではないでしょうか。
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とはいえ、今もなお当時と同じように、核抑止の時代です。イスラエルにしろイランにしろ北朝鮮にしろ、「核」があるとないとじゃ大違い、の時代です。映画では「相互確証破壊」の考えが描かれ、「結局そんなことやっても勝者はいないんだ」というメッセージがもたらされますし、超大国同士が核戦争をやるメリットはない、とひとまずは言える。でも、もう超大国の論理では立ち行かなくなっていますので、あの頃よりも深刻化しているとも思うのですね。飛行機でビルに突っ込む連中にメリット、デメリットの話はできない。イスラエルとイランをめぐる核保有の論議、アフガンの泥沼と相まって、うん、ちょっとこの先何がどうなるってのがね、読めない読めない。
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 なんか堅苦しい話になりますなあ。堅苦しいわりに無知なもんで中身がないですなあ。

 まあ、こうした映画を通しまして、世界の動きに思いをめぐらせるというのは、個人として必要なことなんじゃないかしら、とは思います。正直な話、ぼくは架空の、ファンタジーなどの戦争物とかってぜんぜん興味がないんですね。架空の世界でなんとか国となんとか国が戦ってどうたらってのはもう心底どうでもいい。そういうのはテレビゲームで十分。今のぼくは、現実の世界に引きつけてでないと映画をうまく観られない、楽しめない、という状態です。映画を映画として愛でる、ということができなくなりました。その意味でぼくはたとえば「映画クラスタ」とかそんなのとはやっぱり距離を置き続けていくわけなのでした。おしまい。
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by karasmoker | 2012-04-13 22:00 | 洋画 | Comments(0)
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