『変態村』 ファブリス・ドゥ・ヴェルツ 2004

今日は変わった映画評。前半では褒めていないのに、後半では視点を変えて評価しています。
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OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Calvaire』
『変態村』という邦題はもう小学生がつけたみたいなアホさがありますが、原題はラテン語で「ゴルゴタの丘」という意味だそうです。フランス・ベルギー製作で、アメリカのB級スプラッタみたいなものを予想すると大きく裏切られますね。かく言うぼくもこの邦題に印象を引っ張られまして、はてさてどう書いていけばいいものか、と悩んでしまいます。ぼくはぴんと来なかった映画についてはあまり記事を書く気にならないので、もしもリクエストいただかなければ書かずにスルーしていたでしょう。どう評していいのか困っているのが正直なところです。
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 変態村というからには、山奥の土人的な連中が淫蕩の限りを尽くしたり、外からの訪問者を拷問しては哄笑しているのかな、と思いきやそんなトーンは終盤近くまでほとんど出てこず、もっぱら流しの歌手である主人公の青年と、彼が滞在することになった山小屋のおっさんの話がメインになります。このおっさんがおかしなことをして、青年がえらい目に遭うわけですね。村では獣姦している場面も出てきますが、クライマックスまではおあまり触れないようになっています。 
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おっさんは最初、善意の存在のように登場するんですけど、途中から変貌します。ただ、「げへへ、おまえを苦しめて殺してやるぜ」的なわかりやすいアメリカンタイプではなく、「おまえはわしの妻なのだ」と青年を縛ってしまうのです。このおっさんは妻を過去に失っていて、その妻と同一視してしまうというわけなのです。
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 うーん、ここら辺はよくわからないところですね。ヨーロッパ的なのかわかりませんが、少なくとも非アメリカ的なのは確実で、ここで観客の何割かを結構おいてけぼりにする感じがあります。最初のうちはおっさんは普通に、外からやってきた青年として彼を遇していたんです。それがどうして途中から彼が死んだ妻であるという認識に変わったのか、というのがもうひとつよくわからない。
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 まあ、要は「狂気」みたいなことなのでしょうけど、うーん、狂気なあ。正直、ここでも狂った人物の出てくる話はいくつも取り上げているんですけど、これで狂気……うーん、狂気なら狂気でいいんですけど、もっと煮詰めてほしいというか、中途半端な狂い方というか、そこはもうこっちがくみ取ってくみ取ってしなきゃいけないところなんですかねえ。

 監督のインタビューで『サイコ』に影響を受けたみたいなことを言っていて、なるほどあれもノーマン・ベイツが死んだ母親の人格を自分に取り入れてしまっているというような、狂気の一種を描いていたわけですけれども、本作の狂気にもそこは似たところがあるわけです。まったく見知らぬ若い男性を、自分の死んだ妻と同一視するわけですからね。
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 ただ、ぼくとしては、もうちょっとそこは丹念に描いてほしかった。その狂気をもっとちゃんと観たかったんです。物語演出的に言うなら、ふりが弱いと思いました。ふりということでいうと、犬を探し続ける息子はいいんですよ。いなくなったものをひたすら探し続けている彼の存在の不気味さは立っている。でも、そこで事足りてはいないはずで、あのおっさんが死んだ妻の影をいまだに探し続けている、というのがもっと必要だったんじゃないか。少なくとも、あの歌に感動したというのでは足りないでしょう。

 ただ、そんなことを書きながらあれなんですけど、本作の場合、ぼくは監督のやりたいことがぜんぜん読み取れないというのがあります。たとえば序盤であの慰問コンサートのくだりを入れてきた意図は何か。あのくだりとメインの舞台の出来事がどう繋がるのか。白状しますが、ぼくには読解できていません。先般お断りしていたとおり、わからない映画にはもうわからないとしか言いようがないのです。
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 後半、よくわからないダンスシーンが入るんですけど、監督インタビューで、「あの場面は超現実の極みだよ」みたいなことをおっしゃられていて、端的に言ってぼくにはついていけないところがありました。超現実って言われても、です。食卓のシーンなんかも、ああ、観客に狂ったシーンみたいに見せたいんだろうなあというのはわかったんですけれど、別に際だって強烈なわけでもないですしねえ。その後の俯瞰撮影は面白かったけれど、全体を通して映像的快楽があったのはあの俯瞰撮影のところくらいなんです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、ここまで書いて、その後一時間くらい考えて、このままじゃならぬと思いました。と言いますのも、やっぱりその映画を観たからには何かしらの学びを得たいわけです。人から教えられた映画をけなすのは実に簡単なことです。変な話ですが、今回、ぼくはリクエスト作の良さをちゃんと見つけられたら勝ち、できなかったら負け、と勝手に自分で決めているのです。と、いうわけで、後半はまったく別のトーンで、この映画を褒めます。

実質、映画評二本立てみたいなもんです。別の人が書いたんじゃないか、「karasmokerは二人いる説」浮上、と言われるのもやぶさかではありませんが、別段他の方の映画評を参考にしたわけでもなく、自分の考えで書いています。
 それでは、二本目に参りましょう。

 振り返ってみるに、本作を土人の大暴れを楽しむ映画として観てはならないのでしょう。もしそういう映画だとすれば、主人公が男性であることに引っかかりを感じます。あのおっさんが主人公を自分の妻だと思いこむ。そのくだりがあるなら、主人公が女性のほうが絶対に理解しやすい。でも、そうなってはいないわけです。一方、この映画は冒頭、主人公が唇に紅をさすシーンから始まる。舞台に立つためのメイクなのですが、一般的に見て女性のなす行動です。

 この映画では、性別というものが壊れている。山奥に住む人々が獣姦を楽しんでいるのもそのひとつ。この映画では性別が意味をなしておらず、重要なのは愛する相手の欠落です。息子が最愛の犬をいつまでも探し続けているというのもそのひとつですし、そうやって見ていけばおっさんが主人公の青年を妻と同一視するという、異常な心情もまだ理解の範疇に入るように思います。おっさんは青年に女装させる。一方で、髪を乱雑に刈り込んでしまう。これは青年を女性に見立てる行為としては一見矛盾しているけれど、それはつまり、おっさんは決して、青年を女性に見立てようとしているわけではないということです。この映画における死んだ妻、グロリアという女性は、おっさんや村人にとっての失われた尊い存在であり、その代替物をこいねがう彼らにとって姿形の違いはなんら問題ではない(豚の鳴き声が響く中で獣姦ができる人々です)。そして、来訪者というものそれ自体が、彼らの欠損した世界を埋めるためのよりしろとして、機能していたわけです。
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 おっさんや村人は欠損した世界に生きていたのですが、主人公の存在はその欠損を彼らに自覚させてしまった。おっさんのみならず村人までが主人公を我がものにしようとしたのはそのためです。あのダンスシーンは、「この映画を普通のまなざしで見つめるな」というサインでもあったのかも知れません。あのシーンのダンスも、普通は男女で行われてしかるべきものです。彼らは同性愛者だったのか。違う。彼らにとって性的区別には意味がない。彼らにとって大事だったのは存在と不在の二分法に過ぎない。不在を感知したとき、彼らはその不在を埋めようと、怒り狂って存在のもとに走ったわけです。
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 ゴルゴタの丘、そこはキリストを磔にした、ある意味で死の象徴とも言える場所。しかし、その死がなかったなら再生の奇跡もまたあり得なかった。であるとするならば、ゴルゴタは絶望の場所であり、同時に希望を宿した場所であるとも言えるのではないでしょうか。だからこそラストシーンが意味をなします。ラスト、猛り狂って主人公を殺しに来たはずの男が、自分の死を目前にして言う。「愛していた」と。そして主人公に願う。「愛していたと言ってくれ」と。ここに及び、蒙昧の極みにいた山奥の村人は、愛という感情を思い出すに至る。主人公は村人たちにとっての愛のよりしろ、愛を再び感じ、その魂の救済を得るためのよりしろとして存在していたと言えるのです。
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 と、まあそんなことがこの映画については言えましょう。
 正直言って、素直に書いたのは前半のほうです。後半のほうは無理矢理持ち出してきた感も否めません。しかし、たとえ無理矢理にでもその美点を見いだそうと苦慮することで、映画の見方を広げてみたいとも思うのでありました。世にも奇妙な映画評になったように思うのですが、まあリクエストいただいていなければ何の感想も抱かずにスルーしていたに違いなく、この試みもまたなされずにいたことでありましょう。感謝いたします。

 とりあえず、こんなところなのでございます。
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by karasmoker | 2012-04-30 22:00 | 洋画 | Comments(3)
Commented by OST at 2012-05-01 11:52 x
管理人さん、こんにちは。
どうも嫌がらせのようなリクエストをしてしまったようで(?)失礼致しました。何だかシゴキのようでしたね。申し訳ないです。

私もこの映画さっぱり意味が理解できなかったクチです。考えようとしてもそれより先に嫌悪感、気持ち悪さが先に立ち、どうにも意味がわからなかった。でも怖いもの見たさなのかなあ、映画自体は退屈せずに最後まで見れてしまったんですね。で「何なんだこの映画は!」と。それでネットで色々なレビューを探して読んでみたものの納得できるようなレビューはなく、そこで管理人さんの感想を聞きたいなあと思った訳です。

そういう意味では後半の、無理やり書かれたというレビューは私にとって非常に意味のあるものでした。こういう文章を求めていたんだ、という感じです(すいません上から目線で)。「性別の破壊」とは思いもつきませんでした。確かに言われている通りかも知れません。仮に制作者側が意図していなかったとしても受け手側できちんと整合している。この指摘は目からウロコでした。
Commented by OST at 2012-05-01 11:52 x
ただ、狂気に関してはどうなのだろう。ここはそんな大それた事ではなく、常人には理解できない行動、感情というものがある。それが常人には狂気と映るのだ、みたいに受け取っていました。当の狂人は狂ってる自覚がない。だから狂気に理屈はいらない。ただただ常人に理解しがたい行動を普通に、さも当たり前のように振舞うだけでよいのだ。みたいにです。もちろん狂人と言えども全ての行動が狂ってる訳でもなく、普通に見える行動もする。つまり彼は途中から変わったのではなく最初から狂っていたのだと。だからこの映画では狂気自体に何ら理屈付けをしてなかった、と私は(この映画をた中で数少ない)理解をしていました。

原題がゴルゴダの丘というのは知りませんでした。キリストに関係しているとなるとなかなか日本人には理解しにくいニュアンスが沢山ディティールに含まれてるのかも知れませんね。こういった所はなかなか発見しにくいところでしょうか日本人には。

しかしこんな映画ばかりオススメしてると「変な映画ばかり薦める奴」みたいに思われそうで怖いです(汗)。また懲りずにリクエストするかと思いますがよろしくお願いします。
Commented by karasmoker at 2012-05-01 22:05
 コメントありがとうございます。
 一度観終えた後、わからないという感覚に襲われ、そこから語ることを通して意味づけをする。意味を見いだす。当ブログの基本的な方針がそれですので、有意な鑑賞体験でございました。
 ゴルゴタの丘(タは濁らないのです)に「絶望と希望の入り交じる場所」というそれらしい解釈をつけられたのは収穫でありました。聖書学的に正しくないかも知れませんけれど。

 狂気についての言及はここでは避けます。狂気について論ずるのはちょいと骨が折れるもので。

 本作は『変態村』という邦題でちょっと損をしている感がありますね。せめて、『変態村、あるいはゴルゴタの丘』みたいな、内容のイメージ付けをあえて拒否するようなタイトルならよかったのにと思います。変な映画は大歓迎でありますので、臆することなくリクエストしていただければ幸いに存じます。
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