『セブンス・コンチネント』 ミヒャエル・ハネケ 1989

この映画には、共感も風合いも不要なわけです。
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世田谷の男さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 ミヒャエル・ハネケはぼくにとって、その魅力を最も感知しにくい監督の一人です。何か深い感じはえらい醸しとるな、とは思うのですけれど、じゃあどこがどうええねんと言われたらわからない。強敵ハネケであります。リクエストを頂いたとき、うわちゃあ、と思ったのが正直なところであります。

 前回『白いリボン』を取り上げたときの反省も踏まえまして、なんとかその美点、あるいは批評性というものを読み取ろうくみ取ろうと頑張って観たのですが、観終えたときには口ぽかんでありました。やばい、わからん、と思ったのでした。しかし幸いなことにハネケ本人のインタビューが収録されていたために、多少はふむふむとも思ったのでありました。
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ストーリーはというと、終盤手前までは何もないにも等しいのであって、最終的には家族が一家心中をしてしまうという、ただそれだけのことなのであります。これはなかなか、さてどうしたもんでありましょう。
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 白状しますと、自分であれこれ導き出すのは難儀きわまりなかったため、映画評サイトをいくつか散見いたしました。すると、さすが他の方は見方が深いですね、この映画の美点、細部における意味などを拾い上げているものが多く見受けられました。なので、先に言っておきましょう。他のサイトを読むのがお薦めです!
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しかしそれを言っちゃあおしまい、身も蓋もない、それでいいのかおまえ、ということなのでなんとかひねくり出しますと、本作にはわかりやすい見所がございまして、それはなんといっても終盤の器物損壊のくだりです。家族は心中を遂げる前に、家にあるもの一切合切を鈍器で打ち壊し、はさみで切り刻み、破壊の限りを尽くすのです。これはハネケの国、オーストリアで実際に起こった出来事であるらしく、その辺の嫌な感じはいかんなく表現されていると言えましょう。

 そこから逆算してこの映画を見つめ直すと、行為の集積がおぞましく思えるところも見えてくるのですね。本作には確かに、観る者を不安な気持ちにさせるような訴えかけがあります。今までハネケ作品では『ファニーゲーム』『隠された記憶』『白いリボン』を観たことがあるのですが、その中ではいちばん好きですね。言い忘れていましたが、本作はハネケの長編デビュー作で、デビュー作らしいむき出しの野蛮さがありました。

 行為の集積とは何かということですが、本作の特徴としては、過剰な接写が挙げられます。とにかくいろいろと寄って撮りすぎている。印象に残るのは人物の顔よりもむしろ、彼らが単に家事を行ったりするその行為であって、序盤では顔が持つ人称性を逸したまま、しばらく淡々とその行為だけが描写されます。
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 ただの日常的行為が、結末から逆算しておぞましく見えてくる。そして日常の認識にも、揺らぎを与えるように思えてくる。これはいい映画の条件のひとつと言えます。映画評論も行う社会学者、宮台真司は、「映画は自分にとって娯楽ではなくアート。アートというのはつまり、その映画を観る前と観た後で身の回りの世界が違って見えてくるような、そんな体験をさせるものだ」というようなことを言っていて、本作ではその一端を味わうことができます。

話はややそれるようですが、ぼくは外出するとき、たいていの場合イヤホンをしていて、音楽やらラジオのポッドキャストやらを流しています。何も流していないこともありますが、およそいつでもイヤホンをしているんです。そう言うと奇異に思われるかも知れませんが、そうしないと不安な気持ちになってしまい、やや大げさな言い方をするなら、精神的な安定が保てるかどうかちょっと心配になるのです。

理由は何か。風景や行為がもたらす退屈さや、あるいは真逆に多すぎる刺激に対して、耐えがたく感じるからなのです。よくわかりませんか? でも、前者ならば多くの方にわかってもらえるでしょう。日常の行為がもたらす退屈さに、ぼくたちは耐えかねてしまうのです。そうでなければ、電車の中であれだけ多くの人々がケータイをのぞき込んでいるはずがない。多くの人は電車の中で、ケータイをのぞき込んではメールやツイッターをチェックし、また別の人は本を読み、別の人はゲームに興じている。なぜか。いちばん簡単で素直な答えは、「退屈だから」。なるほどそれはその通り。ではなぜ退屈が嫌なのか。

 退屈がなぜ嫌なのか、についての普遍的回答をぼくは知りませんが、ぼくなりに思うのは、「退屈は人を不安に陥れるから」です。なぜ不安になるのか。人は退屈であるとき、自分が今なしている行為と直接に向き合うことになってしまう。たとえば電車に乗って会社に向かっている。そのとき、人の身体はある場所からある場所へと、運ばれているに過ぎない。たとえばコンビニで買い物をするとき、レジのバーコードチェックを待っているとき、人はただ待っているに過ぎない。そうしたことの数々は、人々に行為そのものの意味を意識させる。行為そのものの意味を意識するということは、大げさでなく、自分の人生というものと向き合うことになっていきます。

わかるかなあ、わかるかなあ、もっとわかりやすく書きたいんだけど、ちょっと大変なんだよなあ。

 イヤホンの話でいうと、退屈とは真逆の、多すぎる刺激に対する防護策、というのもあるんです。ぼくは仕事に行くときなど、池袋の自宅から電車に乗って移動することが多いのですが、そうなると人混みにぶつかりますね。すると、ふいに不安になる瞬間に遭遇します。「なんて多い人の数だ!」って。これだけ多くの人がいて、互い互いの人生に関わることもなく生きて、そしてぼくはこの中の誰とも仲良くも理解し合うこともできなくて、あれ、なんで、なんでこんなに人がいっぱいいるんだ、うわあ、という気持ち。人間、他人という存在が無数にいることそれ自体への不安、恐怖。こう書くとなんだかやばい感じがしなくもないんですが、こういう感覚、わっかんねえかなあ。その感覚に陥らぬために、イヤホンで意識的に鈍感さを保っているところがあるんです。
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 長々とそれましたが、『セブンス・コンチネント』はそうしたことに思い巡らすと、結構わかってくるような気もします。この映画では、意味づけをさせないくらいの接写によって、ただ行為自体をむき出しにする。実はぼくはこの次の記事で、ある映画について、アップばっかり撮ってんじゃねえよ、とけなすことになるのですが、それとは明確に違う。このアップには意味がある。引きの画で撮ると、その行為には意味が生まれてしまうけれど、あえて手元ばかりを映したりすることで、モノ、行為を意味と切り離してしまう。それはぼくを不安に陥れる。せっかく意味をつけてきた出来事の数々、その集積が、崩されるような気持ちになる。人はその行為ひとつひとつをなんとか意味づけることで、自分を保っているのだと気づかされる。以前、松本人志がラジオでこんなことを言っていたのをふと思い出しました。
「人間って、えらそうなこと言ったりやったりなんやしてるけれども、考えたらうんこ運んでるだけやで。ある場所からある場所へ、うんこ持って行ってるだけ」
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家族は心中する際、家の中にあるありとあらゆるものを破砕します。それが家具であろうと、思い出の品々であろうと関係なく、すべてを壊す。きわめつけはトイレに紙幣を流すところ。監督によると、このシーンは観客に不快を引き起こすものであったそうですが、それもよくわかる。紙幣とはぼくたちの社会生活における意味の象徴です。トイレに紙幣を流すということは、ぼくたちが約束しあっている社会の意味を、無くしてしまうことに他なりません。意味を瓦解させてしまうんです。家族が心中した理由は描かれませんが、家族の死には説得力が宿る。徹底して意味を瓦解させたとき、人は生の理由を失う。
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書きながらようやっと見えてきました。書く前には、「でも、なんだかんだ言ってもこの映画には、その映画空間が持つ風合いってものがまるでねえんだよなあ」と思っていたんですが、なるほど、わかりました。この映画には風合いは要らない。あってはならない。風合いがあったら、行為がむき出しにならない。この映画は雰囲気とか風合いとかそういうものをすべて捨て去っているんですね。ああ、なるほど、ハネケが少しわかったように思います。

 書くことで見えてくる、という体験をさせてもらいました。強敵ハネケの攻略を、自分なりの形でやってみたのであります。『セブンス・コンチネント』は、実は観ないほうがいい映画かも知れません。日々の生活、その行為の意味がそがれ、不安を招来させてしまうような映画です。面白いかと聞かれると面白くありませんが、日々の行為の中に不安を宿す人には、暗い気持ちを与えてくれるんじゃないかと思います。
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by karasmoker | 2012-05-03 22:00 | 洋画 | Comments(7)
Commented by 世田谷の男 at 2012-05-04 09:52 x
早速の素晴らしいレビュー有難うございました。
それほど強敵だったとは、、、すいませんでした(笑)
ハネケ作品のなかでは一番好きなのであえてリクエストさせていただきました。
「人生は壮大な暇つぶし」といいましょうか、、
なんか突き抜け具合がいいので小生はこの作品が好きです。参考にさせていただきつつ改めて見ようと思います。かさねがさね有難うございました。これに懲りずまたリクエストさせていただいた際レビュー頂けたらと思います。
Commented by karasmoker at 2012-05-04 14:41
 コメントありがとうございます。
 ハネケのよさを知る機会を与えていただき、感謝しているのでございます。「人生は壮大な暇つぶし」というのは成熟社会におけるひとつの真理で、ぼくたちは暇、退屈というものを実は死ぬほど怖がっているんですね。映画からそうしたことを考える機会は少なかったので、よい映画体験になりました。
 またのコメントをお待ちしております。
Commented at 2012-05-05 03:06 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by karasmoker at 2012-05-05 05:24
コメントありがとうございます。
 リンクを張っていただくのは別段構いませんし、こちらに張るのもやぶさかではありません。なにしろその種の交友に乏しいので、ありがたくもあります。ぼくはTBというものの意義がよくわかっていないので、TBをすることはほとんどないと思いますが、その点の無愛想さはご理解くださいませ。
 さて、しかし、いささか不分明なことがございますので、ひとつ質問させてください。
 なぜそのコメントを、非公開になさったのか? 
 対話はできる限りオープンにしたいと思っているので、少し違和感がございます。交友には信頼が重要でありますし、愛読して頂いている方の中には「直接コメントでのマイサイトへの誘導はマナー違反」とおっしゃる方もいらっしゃいまして、ぼくはその方の信頼を損ねたくはありません。
 双方のためにも、ぜひ公開コメントにてお話しくださいませ。
Commented by ブニュ・エル at 2012-10-17 17:23 x
 こんにちは。ハネケさんの映画ってリトマス試験紙みたいに、好きな人と嫌いな人の色がはっきり分かれますよね。で僕は好き派なんですが、だからといってこの人の映画を全て理解することは出来ません。嫌いな人は大概この人を誤解しているのですが、好きな僕ですら曲解している部分もあると思います。ハネケさんって人生肯定派なんですよね、ペシミズムが強いけど。本質を衝くと人は痛がりますし嫌がります。そこを衝いてくるんですよね、この人。だから嫌われる。つづく
Commented by ブニュ・エル at 2012-10-17 17:23 x
 つづき。
僕はこの映画、ハネケ作品の中でも特に好きなのですが(ファニーゲームも好き)、僕の感想は、退屈さうんぬんよりも「アイデンティティの崩壊」がテーマだと感じました。即物的というか唯物的というか、人は物によって支配され、存在証明されている部分が非常に強いと思います。身分証明書がなければ、公的機関では誰も自分を自分と信じてくれるものはありません。物質社会から精神世界への脱却がテーマだと感じました。普段から自分の人生を哲学しなかった人が、中年あるいは初老を向かえたときに、ふと客観的に自分の人生を省みたとき、この映画の家族のような虚無感に囚われるのかも知れません。
 人生は目的がなければ退屈ですし、目的があれば時間が足りません。屋外で、外部との断絶の為の読書も非常に解りますが、時間が惜しいというのもまた理です。
 この監督、とても誠実な人です。
Commented by karasmoker at 2012-10-18 01:34
 コメントありがとうございます。
 評論家の意見に毒されるのは未熟者の証でございますが、以前町山智浩さんがツイッターで、ハネケをどう思うかとフォロワーに尋ねられ、このように答えています。
https://twitter.com/TomoMachi/statuses/9049964243

 これを読んで、うん、そうなんだよなあと得心するものがありまして、以来ぼくは余計なフィルターをかけているきらいがあるかもしれません。そういうものを完全に取っ払うのもぼくの課題の一つです。
 ハネケに限らず、年を経てからよくわかるようになるものも、きっとあるのだろうなと、常々思うのであります。
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