『アメリカン・ヒストリーX』 トニー・ケイ 1998

ダイレクトなメッセージを放つ、真っ当な反人種差別映画だと思います。
d0151584_1262118.jpg

砂ぼうずさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

観終えてからしばらく、どういう方向で行こうかなあと書きあぐねて、差別というものについてぼんやりと考えていました。日本は人種差別についてはほとんどない国だと思うんです。というより、白人のコミュニティや黒人のコミュニティというものがそもそも(ぼくの知る限りでは)ほぼないので、人種間の軋轢自体が表立っては来ない。民族差別は多少あるのでしょうね。実際の人間関係はどうかわからないけれど、ネット上の言葉を見れば、日本には民族差別の感情が存在していると言わなくてはならない、残念ですが。
d0151584_2201112.jpg

 ただ、自分に引きつけて考えてみたときに、まあぼくは少なくとも自分の意識する限りにおいて、民族差別意識も人種差別意識もないのですが、差別意識自体がないかというと、そこはどうなんだろうと思いますね。たとえば美人な女性とそうでない女性の間に、まったく差を感じないかと言えば、それは違います。この感覚は差別なんですかね?

 もちろん、その種の言説を日常で放つようなことはしないし、接する際の態度にも一応違いはないし、自分が傷つけられた記憶があるから人を傷つけることは絶対にしませんけれども、美人な女性を見たときの脳波と、そうでない女性を見たときの脳波には間違いなく違いが出ているわけです。態度に違いはない、などと書きましたが、愚かしく若かりし頃などには、たとえば飲み会などで、可愛い女の子ばかりに話しかけて、そうでない子には目もくれないということをやってしまいましたもの。
「だからおまえはもてないんだ」
 む! 誰だおまえは! なんだと! 畜生、その通りだからぐうの音も出ない!
 ぎゃふん!
d0151584_2202496.jpg

 ええと、耳の奥に響く幻聴を無視して話を続けますと、あのー、人はね、これはもう、顔で区別してしまいますね、これは差別ということと同じではないかも知れないけれど、まったく別のものだとも言い切れないと思うんですね。で、じゃあ、なんでぼくたちは顔で人を区別してしまうのか?

これからは私見ですゆえ、何の学術的裏付けも知らぬゆえ、どこかで吹聴して馬鹿にされても知りませんが、まあちょいとした論を展開しましょう。
 なぜ人は顔にこだわるのか、についてです。
 
 人間は進化の過程で、個体識別の機能を発達させたわけです。いろいろなものを食べるようになったり、道具を使ったりするようになると、必然的に個体識別能力が要求されるわけですね。で、互いの姿形をも識別するわけですが、人間の場合動物界で唯一、衣服をまとうようになった。他の動物ならば毛並みが立派だとか、背中の模様が鮮やかだとかで識別できるけれど、人間の場合その道は絶たれて、顔で互いを区別するようになったのです。で、それでもまだ、体のたくましさとか、女性で言えば乳房の大きさとか、体つきで区別する部分もあったわけですが、だんだんと社会や文化が成熟してくるにつれ、動物的なたくましさだけが価値を担うことは少なくなっていった。日本でも時代によっては、顔のよしあしよりも、いかに巧く和歌が詠めるかのほうが大事だなんて文化もあった。そういう変遷を経る中で現代、対面コミュニケーションでは身だしなみのよさとかそういうものを抱えつつ、顔で個体識別をはかるのが最も簡単な方法だということになったわけですね。

 で、なぜ顔のよしあしを感じるのか、ですけれども、個体を識別するだけでは脳に負担がかかってしまうからだと思うんです。生存戦略上、何が自分にとって価値があるのかないのか、脳は決める必要がある。栄養のある木の実と毒のある木の実を判別しなくてはならない。脳にできるだけ負担を掛けずに、迅速に生存戦略上の価値判断を果たすためには、外見で識別した後、価値のあるなしを即座に決めるのが合理的なんですね。つまり、ぼくたちは好むと好まざるとに関わらず、無意識に美醜の判断を取ってしまう。

 で、これを社会にまで広げてみます。どういう顔が美しいとされるかは文化ごとに違いがあるとしても、美しい顔というのは大体決まっていて、そう認められた人がモデルやアイドルになるわけです。これも脳が楽をするための判断でしょう。何が美しいと感じるのかばらばらであっては、自分をよく見せようとするうえでも判断に迷うわけです。また、何を美しいと感じるのか、自分一人で決めるよりも、多数の合意があったほうが判断しやすい。皆がうまそうに食べている木の実はうまいのだろう、と認識がしやすくなる。自分で判断しなくていいのはいちばん楽です。

 そんなわけで、人は顔にこだわるんじゃないでしょうかね、うむ。
 
d0151584_2204358.jpg

 いい加減映画の話をしろ、ということですが、差別は今述べたようなこととすごく密接に関連していると思うんです。要するに、ぼくたちは何かで価値判断しないとやっていられない。そしてその極端な表れが人種差別なんですね。差別を撤廃する、というのは法律や制度としては可能でも、文化や個人の感覚のせいで難しいわけです。ぼくたちの中には個体識別機能が基盤として存在していて、無意識に価値判断を行うようにできている。わかりやすく言うなら、大多数の人間は差別感情の種を脳に埋め込んだまま生まれてくる。そして経済や社会の土壌は、いくらでもそれを発芽しうるようにできている。育て方や天候の具合で、いくらでも生長するんです。だから差別は仕方がない、などということではありませんが、差別を他人事として考えるのは、差別と自分とを不当に切り離す行為であると言いたいのであります。ぼくたちの中にある差別の種をどう発芽させないようにするか、自分事として引きつけながらどう社会的に芽を摘むかが大事であって、差別はよくない! ではどうにもならないってことですね。差別は知性の欠如と恐怖心が大きな原因であろうと思うのですが、これを社会的に除去するには教育と経済の不均衡是正が必要なので、差別撲滅だけを訴えることに実効性はあまりないんじゃないかと思います。いや、あまりないっていう言い方は良くないですね。社会運動は実を結んだりしているわけだし。うーん、うーん、もうそろそろやめておきましょうか。

 さて、ここからやっと本当に映画の話です。 
本作はエドワード・ノートン演ずるネオナチの男が黒人を殺し、刑務所の中で改心して戻ってくるまでの様子と、彼の影響でネオナチになった弟の話が二つの主軸を担います。

映画全体にひりひりした感じがつきまとい、緊張感が保たれたまま劇が進んでいくのはとてもよかったと思います。差別自体がよくないことなので、よかったという言い方は多分に語弊があるのですが、まあ見せ方として優れているということです。
d0151584_2205747.jpg

 ノートンは現在の場面ではかつての思想を捨てたよき人として現れ、回想場面ではごりごりの差別主義者として登場する。これを交互に織りなすことによって、映画には強い張りが生まれます。そしてこれは、差別が制度上はなくなった今でも差別は残っているのだという、実世界の現状とシンクロしますね。これがね、時系列順に、ノートンがだんだんと差別をしなくなっていく様子だけを描いていたら、どこかしら欺瞞性が感じられたと思うんですけど、この構成にしたことで観客は差別を現在進行形のものとしても受け止めることができる。秀逸な作りだと思います。テンポもいい。
d0151584_2211046.jpg

 彼が差別主義者になったのはもともと、父の黒人不信の教えと、父を黒人に殺されたという出来事が直接的な理由として描かれます。教育と体験。そして、そこから翻るに至ったのは、刑務所での黒人との交友体験、そして自分と同じ白人からの暴行によるものです。
ノートン自身は体験によって、弟のエドワード・ファーロングは兄からの伝達=教育によって、自分の思想を改めるに至ります。
d0151584_2212021.jpg

d0151584_2213070.jpg

 教育と体験が差別感情を左右する、という構成については、やや平凡なものを感じてしまいます。そんなのは日本でも既にあったことですしね。鬼畜米英を憎めと教育されてきたけれど、いざ戦争が終わって会ってみたら意外とアメリカ人はいい人じゃないか、みたいなことはあったわけで、だからこそここまでアメリカ文化が広まったわけでしょう。そして、人種的対立を経てここまでやってきたアメリカでの考えにしては、いささか物足りないものを感じるのも事実です。あの国はもっと深い思索を経てきたと思うんですが、ぼくにはそこまで読み取れませんでした。
d0151584_2214017.jpg

 もっとも、そうは言いつつも、教育と体験以外に人の心を改めるものはないのだ、という強い結論に至ったというのなら別です。そしてこの映画はその両面を見据えて設計されているとも思いますね。ダイレクトなメッセージ機能は十分に有しています。
d0151584_2214812.jpg

 つくりとしては、わかりやすい因果応報譚でもあります。相手に悪いことをしたら自分にも返ってくるのだぞ、ということです。そして、実はこの映画は終わっていないですからね。ノートンがあの後で、果たしてどういう生き方ができるのか、観客はいやがおうにも考えることになります。だから映画の中に閉じていない。この映画はあくまでも現実に寄り添いながら進んでいるのですね。そう考えると、妙にこねくり回すことなく、人種差別の状況について、真っ向からぱしっと描いているというこの映画の強さが見えてきます。
d0151584_2215969.jpg

 人種差別に関する映画の、ひとつの模範型としてお薦めできるのではないでしょうか。
 映画に関係ない部分が長くなってしまい申し訳ありませんが、ひとまずこの辺にさせてもらいたいと思います。
 
ちなみに……ネオナチのでぶちんがバンを運転中に歌っている歌は「リパブリック讃歌」が原曲。これは黒人による歌であり、黒人奴隷解放を訴えたジョン・ブラウンを称える歌にもなっているため、ネオナチの人間が歌うのは変。ネオナチでぶちんの馬鹿さ、歴史への無知を表したシーンとも読める。
[PR]
by karasmoker | 2012-05-08 22:00 | 洋画 | Comments(2)
Commented by 砂ぼうず at 2012-05-12 23:50 x
リクエスト答えてくださってありがとうございました!
意外とシンプルな映画なのであまり語り甲斐のなかったかもしれませんね。
個人的には白人グループの集会所の描写が一番興味を引かれました。みんな祭りを楽しんでいる感じで、あんな風に地域の解け込んでしまってるんだなぁと。
Commented by karasmoker at 2012-05-13 23:35
 コメントありがとうございます。
 実際にあるのであろうな、と思わされるような風景が多い、よい映画でございました。
←menu