『21グラム』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2003

タイトルが逆説的に照らし出す、世界の複雑さ。
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 多視点・時系列ばらしものといえば90年代のタランティーノが最も有名であろうと思いますし、近頃の日本映画では内田けんじ監督などが注目を集めているわけでありますが、この方式には確かにパズルが組み合わさるような快楽があるのでして、伏線の張り方なども多岐に富むため、ぼくはわりと好きな手法ではあるのですが、『21グラム』は一種独特の感覚を残す映画でありました。
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 ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロが軸を担い、それぞれの物語が展開していきます。時系列通りに言うと、デル・トロがナオミ・ワッツの家族をひき逃げしてしまい、彼女の夫が脳死状態になり、心臓病を患っていたショーン・ペンに心臓移植が行われ、三者の人生が交わっていく、というような話です。今述べたのはあくまでも骨子の部分のみで、それ以外の部分なども含め、時系列をばらした形で話が進みます。
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 かなり細かく裁断されているので、ぼうっとしているとよくわからなくなりそうな映画でもありますね。その点で、観る者に緊張を強いるつくりとも言えます。あまりひとつひとつのシーンをじっくり長く続けたりもしないんですよ。で、こちらはこちらで何か時間的な仕掛けがめぐらされているのでは、と思ったりもするので、身構えを崩せずに観ることになります。気楽に映画を楽しみたいな、という人にはぜんぜん薦めません。
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 時間軸をばらす手法を取り入れた意味について、宮台真司は以下のように述べています。
「時系列を寸断する意図はあまりにも自明である。他でもない『特別な困難さえ無ければ…』というリグレットを効果的にキャンセルするためだ。」(『<世界>はそもそもデタラメである』より) 

 これはどういうことか。反対に時系列を寸断しなかった場合を考えてみるとわかりやすいでしょう。もしも時系列通りに、わかりやすく話が進行していたらどうか。ひき逃げ事件とそれが引き起こす事件の連鎖を時間の通りに映せば、「あの出来事によって運命が狂った」「あの事件さえなければ平穏でいられた」という感覚がどうしても観ている側に生まれる。しかし、世の出来事はそう単純ではないよ、というわけです。
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 ぼくは常々、「人間万事塞翁が馬」という感覚を持っているので、この辺の感じがよくわかります。何がよきことで何が悪いことなのか、それはまったくわからない。そしてもうひとつ、時間は確かに因果関係を生み出し、ぼくたちはその中で生きてはいるけれど、その因果関係とてまた自分の意思や境遇ひとつによるものではなく、他者との連関の中に存在するということ。こういう感覚を内在させて観ていると、わかりにくい話ではまったくないのです。
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 えてして映画というのは、登場人物への共感によって話を理解することができるし、自分に引きつけて観ることができる。いちばんわかりやすいのは正義と悪の二元論的な話で、正義の主人公に肩入れして観ることによって、彼が悪を打倒していく様を観ることによって、観る者はカタルシスを得るし、世界観を安定できる。
 多くの映画は観客が主人公に感情移入することで、その物語を共有するという形式をとるわけです。
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ところがこの映画はそれをキャンセルする。細かい裁断によって、観客は十分な移入の機会さえも与えられないわけです。そして同時に、題材が題材であるだけに、他の時系列ばらしものの多くが持つようなパズル的快楽、それによるエンターテインメント的な愉快さとも距離が置かれている。世の中の複雑さを描き出すための優れた形式であるとぼくは思いました。
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タイトルの『21グラム』というのは、ウィキに依りますと、「20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。」そうです。なんでも、人は死ぬ瞬間に体重が21グラムほど軽くなるのだそうで、それが魂の重みなのではないか、というようなことが言われたりしたようです。

 このタイトルは逆説的に映画を照らすように思います。21グラムという単語から率直に連想できることは何かといえば、「定量的で、軽量」ということです。静的で、数字で示すことができて、なおかつ実に小さなものに過ぎないですね、21グラム。

 しかしこの映画で起きることはそれとは真逆です。まるで計量不能だし、単純化できないし、些細なことではあり得ない。時系列をばらすことでより、そうした世界のありようが見えてくるわけです。 
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 具体的な中身、詳細に入れずにいてあれなのですけれど、なまじ立ち入ると大変なのです。なにしろいろいろと繋がっているわけで、易々と切り出せないところが大きいのです。

 ひとつだけわりと輪郭のはっきりしたところを言うなら、デル・トロのくだりです。彼はかつてはやさぐれきった男だったようなのですが、福音派に入信しており、地元の不良にも神の意思を説くような人間になっています。彼は清く生きようとしていたわけですね。ところがそんな彼がひき逃げを起こしてしまう。これは神という、いわば「世界を単純化するための装置」をも溶かしてしまうような設定です。彼はもしかしたら神を信じずに生きていれば、それはそれで幸せだったかもしれない。清く正しく生きて「いなければ」、あのひき逃げを起こさずにいられたかもしれない。清く正しく生きていなければ、あんな風に深い後悔の念に襲われずにいられたかもしれない。ただ、そんなことはすべて今となってはありえないイフに過ぎない。

 世界の複雑さを照らすために、神を信ずる男を入れたのは大変効果的であったなあと思います。そして彼は彼で別に、根っからの信仰者じゃないところもポイントですね。それ以前のまったく別の生を想像させる設定にしたのも、奥深いところでありましょう。

「人間万事塞翁が馬」、この感覚を常日頃持っていると、しっくり来る映画なのではないかと思います。そうでない人は、これまたまったく別の映画ですが、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』あたりと併せて観ると、世の捉え方が一回ぐちゃっとするような感覚を得られるのではないかと思います。この辺で。
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by karasmoker | 2012-10-25 00:00 | 洋画 | Comments(2)
Commented by yonpon at 2012-11-21 01:16 x
わーこんばんは。再開したんですね。嬉しいです。

これ実はこのあいだ見まして、デル・トロかっこいなぁなんて見惚れてたもんで映画にあんまり集中できなかったんですけども。

で、デル・トロが事故を起こしたおかげでショーンが(とりあえず)助かって、ナオミと関係してデル・トロを憎むようになってもその事実が変わるわけはなく、その葛藤から最後に救いをしぼりだしていくのかなぁ、と期待していたらそんなことにはなりませんでした。不満ではないんですが、辛いというか、辛いです。みんな落とし前をつけようとしていたのに。

今気づいたんですが、これみんな2回目の生を生きてるんですね。デルは信仰で、ショーンは生き残ることで、ナオミは家族を失うことで。ナオミが売人と顔見知りだったあたり、過去を切り捨てて幸せになったはずなのにと思うと、逆戻りの感じがとても痛々しかったですよ。

なんか見ながらツリー・オブ・ライフを思い出しました。個人的な救いは幻想だとしても、なにかもっと大きなものがあるような気がしてなりませんよ。

とりとめもまとまりもなくすいません。またお邪魔しますですよー。
Commented by karasmoker at 2012-11-22 08:38
 コメントありがとうございます。
 思うにぼくたちの記憶というものは時系列的ではあり得ず、瞬間瞬間を切り取った形で思い起こされます。そしてそれは順を追ったものではあり得ず、近い過去も遠い過去もぐちゃぐちゃになる。この映画は世界の複雑さを照らすのと同時にぼくたちの認識のあり方をもまた感じさせるのであり、ゆえに他の映画にはない手触りを与えるのではないかと思うのであります。
 またのコメントをお待ちしております。
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