『クイズ・ショウ』 ロバート・レッドフォード 1994

真実は嘘よりも、本当に尊いのか?

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1950年代のアメリカのテレビ番組で実際に起こった出来事をもとにしているようですが、これは今もってなお意味のある題材だと思います。こういう社会派劇みたいなのは好きです、ええ。

 出演者二人が対決するクイズ番組。勝者には高額賞金が与えられる。しかしその裏では話題作りのための八百長が行われており、それをめぐって関係者たちの攻防がなされる。とまあそんな内容なのですが、つまりいわゆる「やらせ」というやつですね。ぼくは元来テレビっ子なもんで、テレビ番組を題材にしている時点で結構興味を惹かれたりしたのです。
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現在までの日本で言うと、やっぱり時を経るにつれてテレビのパワーというのは落ちてきているわけでして、それはむろんネットの普及と発展が大きいわけですけれども、ネットがテレビの裏側を暴き立てるようになったのも主因のひとつですね。ひとたびテレビ番組で不祥事なりなんなりが起こったりすれば一気にネットで広まって、というのは数多いわけでして、テレビ局は相当な苦慮を強いられているようであります。
 もちろん、ネットがあるからこそ明るみに出ることもあるのですが、こと娯楽としてのテレビという点では、ずいぶんと萎縮を余儀なくされているのでしょう。

 2ちゃんねるの元管理人ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜けない人には使うのは難しい」みたいなことを言ったのが広く伝わっていますけれど、ことテレビについて言えば、「嘘を嘘として楽しめる人が少なくなった」のかもしれません。騙されないようにしよう、という知的警戒心それ自体は重要なものですが、一方で何かにつけてやらせだなんだというのも狭量な話だと思います。
 ひとつ覚えているのは、ぼくが中学生くらいの頃に好きで観ていたTBSの『ガチンコ!』があります。TOKIOが見届け人で、ボクサーになりたい不良とか大学に行きたい不良とかを熱血講師が指導する、みたいな番組で、ドキュメンタリーっぽい演出でした。 これに対して一部の週刊誌がやらせだというのを暴いたことがあったのですが、ぼくはなんだか興ざめしてしまったのを覚えています。それはあの番組が「ガチンコ」でなかったことに対してではないのです。「わざわざ騒ぎ立てるなよ、野暮だな」ということなんですね。こっちはマジックを楽しんでいるのに、そのタネがわかったと騒いでいる人がいたら醒めるじゃないですか。ディズニーランドで楽しんでいる人に向かって、「ミッキーの中には人がいるんだよ」なんて言うのは野暮じゃないですか。プロレス観戦で、「台本があるんでしょ」は野暮でしょう。それに近しいものを感じたのです。

 ただ、週刊誌に理がないわけではない。状況や対象によっては、「王様は裸だ!」と言わねばならないときもあるでしょうし、その辺は難しいところ。長くなりましたが、その辺の難しさをきっちり描いている映画として、とても見応えがあります。
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 映画はわざと負けるよう指示された出演者の告発に始まり、そこに法律家が目をつけ、真実を暴いてやるぞとテレビ局や制作者、スポンサーに挑んでいきます。八百長で勝利し、話題の人となったのはハンサムな大学教授で、彼と法律家の攻防が主軸です。
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 映画自体はドラマをきっちりと撮る堅実なタッチでありまして、彼らの駆け引きこそがこの映画の最大の見所のわけですが、この映画が偉いのは、決して一方的な善悪に収まっていないところなんです。テレビ局やスポンサーという巨悪! 真実を暴く痛快劇! になっていない。社会の複雑さを描いているのが大変好もしいです。
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 眉毛の太い法律家役のロブ・モローはその中でも真実を暴こうとする立場にいて、観る側は彼を応援するようなつくりではあるのですが、そこに閉じていないんですね。他の人々の立場とかも斟酌できるつくりなんです。これはそうたやすくないぞ、と観ながら思うのです。
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 たとえば八百長で負けにさせられるジョン・タトゥーロがいますが、後半明らかになるように、彼も答えを教えてもらってきたんです。それで何でもない貧乏ユダヤ人だった彼は一応賞金を手にしてきたんです。でも彼は八百長で負けを強制されたと怒る。この辺なんかも、彼をただの無垢な被害者にしていないグッドポイントです。おまえはおまえで甘い汁吸ってる側にいたじゃないか、と言われても仕方のない立場にいる。
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 テレビ局やスポンサーも自分たちなりの道理を持っている。あれがやらせであったとして、何がいけないんだ? と問うてくるわけです。視聴者は最強スターが出ていれば喜んでみるし、それが人々に知識を持たせようとする動機付け、教育効果に繋がるし、冠スポンサーは売り上げが伸びて万々歳だし、何がいけないんだ?
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 こうしたオトナの問いに対して、「だってそれは真実じゃないもの!」と反駁することはできる。現に八百長でスターになる前のハンサム教授、レイフ・ファインズは良心からその誘いを断ろうとする(カントなら何て言うかな? とインテリっぽく)。

 ただ、観ながらふと思う。真実って何なんだろうと。それを暴くことは果たして人のためになるのだろうか? そんなことを思うのです。
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 いろんな人が言っていることですけど、たとえば事故で最愛の我が子を亡くし、悲しみに暮れる母親がいたとします。彼女の前に二人の人間が現れたとします。一人は現実主義的で、科学的に証明されていない死後の世界などまるで信じない人間。もう一人は霊界と交信ができるというスピリチュアルな人間。彼女を救えるのはどちらなのかといえば、「天国では息子さんがあなたにこう言っていますよ」云々と語る後者のほうかもしれません。彼はインチキかもしれませんが、現実よりもそんな嘘が人を救うことだってある。

 これは単純化した例ですけど、先ほどの手品の例のように、「どうだい、嘘を暴いてやったぜい」という「真実主義」が必ずしも人を幸福にするとは限らないのです。

 この映画はそんな現実を見せます。
 ラスト、ファインズは法廷に立ち、真実を語るのですが、結局のところ彼ひとりが社会的な地位を失い、テレビ局の人たちはのうのうと次の仕事を始めることが示唆される。
 ロブ・モローは確かに真実を明るみに出しました。しかし、真実主義者の本当の敵はまた次の嘘をいくらでも生み出せる。彼は中途半端な形でしか真実主義を遂行できず、結果一人の人間は職を追われた。
「テレビには嘘がある」ことを示したという点では、意義があった。何もかもを鵜呑みにしちゃ行けないよという教訓を与えたでしょうし、人々は多少賢くなったことでしょう。でも、それは果たしてよきことなのか、ここは難しさを孕んでいるように思えてなりません。
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 なんだか社会哲学めいて参ります。
「嘘のない社会は、いい社会か?」

 ぼく一人では到底語りようのないテーマに想到させる映画でした。
 ここはひとつ、『クイズ・ショウ』にあやかって、大きなクエスチョンを投げて終わりましょう。
 どうですか?
 皆さんは、嘘によって救われたことが、ただの一度もありませんか?
 強者による嘘や隠蔽は許せない! としても、強者の嘘や隠蔽によって今の不自由ない生活が成立していると考えたことは、一度もありませんか?

 お相手はkarasmokerでした。また、この時間にお会いしましょう。
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by karasmoker | 2012-11-07 00:00 | 洋画 | Comments(0)
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